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魔法劣等生による神式攻略 ――攻略不能レイドは、やる気なしの劣等生に託された――  作者: 龍虎


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第9話 右じゃない、左の書架を蹴れ

 リクトの指先が、白い扉の取っ手に触れかけた。


 その瞬間、扉の輪郭がわずかに歪んだ。白い光で縁取られていたはずの枠が、内側へめくれる。非常口を示す緑の記号は、よく見れば文字ではない。小さな黒い文字列が密集し、人間の目にそう見える形へ並び替わっているだけだった。


 カイの視界の中で、盤面が勝手に組み上がる。リクトの右足の重心。扉の下を流れる黒い文字列。左書架の側面に貼られた低出力タグ。ユイカの足元で反転しかけている加速術式紋。ハルトの熱量術式が燃やした書架から伸びる、奇妙な影の歪み。ナツメのAT上で、全員が同じ広間にいると誤認させている座標補正。


 全部、見えている。見えてしまっている。


「リクト!」


 ユイカが低く叫んだ。声は抑えられていたが、焦りは隠せない。彼女は反射的に飛ぼうとする。足元に白い術式紋が咲き、加速の光が彼女の身体を押し出そうとした。


「白羊院、動くな!」


 カイの声が喉元まで出かかった。だが、まだ言葉にならない。


 ユイカが一歩目を踏み込めば、彼女の術式紋は反転する。速度に合わせて床の位相が遅れ、右足を置いた瞬間に足場が消える。リクトを助けるどころか、ユイカ自身も扉へ引かれる。二人同時に落ちる。


 ハルトが導杖を構え直す。炎は使わないつもりなのだろう。だが、彼の周囲にはまだ熱が残っている。照明に変換すれば、影の歪みで偽扉の位置を暴ける。けれど、今の彼にはそこまでの余裕がない。


「瀬尾! 手を離せ!」


 ハルトの声が響いた。その声に反応して、床の黒い文字列がまた揺れる。図書館は、音を拾っている。怒鳴れば怒鳴るほど、管理機構の拘束対象になる。


 リクトは止まらない。いや、止まれない。扉が近づいている。足を進めているのはリクトの意思だけではない。恐怖に同期したログが、彼の判断を少しずつ押している。


『安全経路』

『退避推奨』

『戦闘継続は死亡リスクを増大させます』

『あなたは非戦闘員相当です』


 リクトの顔が歪む。


「……うるせえな」


 小さく、彼は呟いた。


「分かってるよ。俺が弱いのくらい」


 その言葉で、カイの胸の奥がきしんだ。


 違う。そうじゃない。弱いとか強いとか、そんな話ではない。お前は逃げ道を探しているんじゃない。逃げてもいい理由を、無理やり渡されているだけだ。


 カイは分かっていた。分かっているのに、まだ声が出ない。


 命令すれば、リクトは動く。リクトは昔からそうだった。軽口を叩きながら、最後にはカイの言葉を拾う。だから怖い。自分の言葉で、あいつの足を別の危険へ向けることになる。


 脳裏に、赤い警報が走る。


『カイ。現実は、リトライできない』


 あの日も、見えていた。次に崩れる場所。兄が進もうとしていた経路。その先にある危険。けれど、幼いカイはそれを攻略だと思った。次の手順を言えば、突破できると思った。


 その結果だけが、今も胸に刺さっている。


「カイさん!」


 ナビィの声が、耳元で震えた。


「瀬尾リクト、位相扉への接触まで一・二秒! 白羊院ユイカ、救助行動開始予兆! このままでは二名同時に――」


「黙れ」


 カイは低く言った。


 ナビィが言葉を止める。


 リクトの指先が、取っ手に触れる。白い扉の表面が、ぬめるように開きかける。向こう側には旧校舎の廊下ではなく、黒い紙束のような闇が詰まっていた。


 その闇が、リクトの手首を掴もうとする。


 カイの中で、何かが切れた。


「右じゃない!」


 叫び声が、螺旋図書館に突き刺さった。


 全員が振り向く。司書官グリモアの白紙の顔に、文字が浮かびかける。だが、それより速く、カイは続けた。


「左の書架を蹴れ、リクト!」


 リクトは考えなかった。考える余裕などなかった。ただ、反射だけで動いた。伸ばしていた右手を引き戻し、崩れかけた体勢のまま、左足を捻る。


「うおっ――!」


 左の書架を蹴る。そこには、さっき彼自身が貼った低出力タグがあった。床ではなく、書架の側面。背表紙ではなく、板の継ぎ目。カイが「そこだけまだ固定されてる」と言った場所。


 リクトの靴底がタグに触れた瞬間、符式端末が起動した。


 淡い光が、書架の側面に走る。派手な魔法ではない。低出力の空間固定。通常なら、扉一枚の歪みを抑える程度の弱い術式。けれど、この場ではその弱さがちょうどよかった。グリモアの管理網に強く記録されないまま、書架と周囲の位相を一瞬だけ同期させる。


 白い扉が、ぐしゃりと潰れた。


 出口に見えていたものが、黒い文字列の塊へほどける。取っ手も、非常口の記号も、光も、すべてが紙片のように散った。リクトの身体は扉の内側へ引かれる寸前で弾かれ、書架に肩からぶつかった。


「痛っ……!」


 リクトは床に転がる。だが、落ちてはいない。消えていない。そこにいる。


 ユイカは踏み出しかけた足を、ぎりぎりで止めていた。彼女の足元では、白い術式紋の一部が反転しかけている。もしカイの声が一瞬でも遅ければ、ユイカも同じ罠にかかっていた。


 ハルトの導杖から、わずかに赤い光が漏れる。撃つ寸前だったのだろう。彼は歯を食いしばりながら、導杖を下げた。


「……今の、なんだよ」


 リクトが荒い息を吐く。


「出口じゃ、なかったのか」


「出口なら、非常口のマークが呼吸するわけないだろ」


 カイは言った。声が震えていた。自分でそれに気づき、舌打ちする。


「いや、分かんねえよ。普通、非常口のマークを疑う状況がないんだよ」


「今後は疑え」


「今後がある前提で話すな」


 リクトはそう返しながら、まだ床に座り込んでいた。顔色は悪い。肩も震えている。けれど、口だけは動いている。それがいつものリクトらしくて、カイはほんの少しだけ息を吐いた。


 ナビィが、ぱっと表情を明るくする。


「すごいです、カイさん! 三秒前にはすでに位相扉の接近と左書架タグの同期可能性を看破していました! 発声遅延はありましたが、指示精度は極めて高――」

「黙れって言ったよな」


 カイはナビィを睨んだ。


「ごめんなさい! でも今のは褒めないといけない場面かと!」

「褒めるな。あと三秒前とか言うな」

「でも事実です!」

「だから言うなって言ってんだよ」


 そのやり取りを、ナツメは聞き逃さなかった。


「三秒前……?」


 ナツメの指が、ATの空中画面を走る。彼女は自分のログを巻き戻した。リクトの恐怖値上昇。偽扉の出現。ユイカの救助行動予兆。ハルトの熱量反応。そして、カイの視線の動き。


 彼はリクトだけを見ていなかった。左書架のタグ、ユイカの足元、ハルトの影、床の文字列、その全部を同時に見ていた。しかも、ナビィの言う通り三秒前に。


 合同模擬戦と同じだった。


 三秒後に後衛が孤立する。


 あの時も、カイは結果が起こる前に見ていた。


「神代くん、あなた……」


「何も言うな」


 カイは低く返した。


「まだ何も聞いていません」

「聞く顔してる」

「それは、まあ、聞きます。今のを見て聞かない方が不自然です」

「不自然でいい。黙ってろ」


 ナツメは一瞬だけ口を閉じた。だが、視線は外さない。解析対象を見る目ではなくなっている。そこには、疑念と警戒、そしてほんの少しの期待が混じっていた。


 ユイカがリクトのそばへ駆け寄る。今度は加速しない。足元を一歩ずつ確かめながら近づき、膝をついた。


「瀬尾くん、立てる?」

「ああ。たぶん。いや、ちょっと膝が笑ってるけど」

「笑えるなら大丈夫ね」

「白羊院さん、意外と判定厳しくない?」


 ユイカはリクトの腕を取って立たせた。その横顔は険しい。彼女も分かっている。自分が助けに飛んでいれば、罠に落ちていたと。


「神代くん」


 ユイカは振り返る。


「今の指示がなければ、私は瀬尾くんを助けようとして踏み込んでいた。そうなれば、私も落ちていたのね」

「知らん」

「知らないで済む状況じゃないわ」

「じゃあ、たぶん」

「たぶんじゃないでしょう」

「たぶんだ。俺は専門家じゃない」


 カイは視線を逸らした。専門家ではない。その言葉は嘘ではない。彼は国家資格を持つ攻略官でも、災害対応の指揮官でも、上位クラスの魔法師でもない。


 ただ、ゲームで似たものを見すぎただけだ。


 違うのは、ここがゲームではないということだけ。


 ハルトが低く舌打ちした。


「おい、劣等生」


 カイは嫌そうに顔を向ける。


「その呼び方、今この状況で継続するのかよ」

「じゃあ何て呼べばいい」

「神代でいいだろ」

「なら神代。お前、さっき俺が撃ちかけたのも読んでたのか」

「見えただけ」

「俺の火力が邪魔だったか」

「邪魔だったら、そう言う」


 ハルトの目つきが変わった。


「じゃあ何だった」

「今は撃つ場面じゃなかった。お前の熱でできた影の方が役に立ってた」

「影?」

「燃やした書架から伸びた影が、偽扉の歪みを出してた。だから左が本物の基準だと分かった」


 ハルトは言葉を失った。自分が失敗した熱量術式。その結果として生まれた影。それすら、カイは盤面の材料にしていた。


 カイは面倒そうに頭をかいた。


「別に、お前が無駄だったって話じゃない」

「……慰めのつもりか?」

「違う。事実。失敗ログも情報だろ」

「失敗ログ、ね」


 ハルトは悔しそうに笑った。笑ったというより、歯を食いしばったまま表情が歪んだだけだった。


 その時、ATが一斉に鳴った。


 耳障りな警告音ではない。静かな、ページをめくるような音。だが、その音を聞いた瞬間、全員の背筋が冷えた。司書官グリモアが、本を一枚めくる。


 白紙の顔に、文字が浮かぶ。


『暫定指揮行為を確認』

『神代カイの発話により、閲覧者四名の行動が変更されました』

『攻略情報への正式応答なし』

『指揮者登録、保留』


「は?」


 カイの声が漏れる。


 ナビィの背後でも、警告ウィンドウが次々に開く。


『注意:管理機構が神代カイを指揮者候補として認識』

『沈黙による応答遅延を検出』

『盤面側の補助ログ干渉、増大予測』


「カイさん、まずいです」


 ナビィの声から、いつもの明るさが少し消えた。


「今の指示で、グリモアはあなたをこのパーティの指揮者候補として記録しました。でも、あなたはまだ正式に指揮を宣言していません」

「宣言ってなんだよ。俺は学校行事で生徒会長に立候補してんじゃないんだぞ」

「この図書館は、情報の空白を嫌います。指揮者がいるのに指揮者が応答しない場合、管理機構は代替の攻略情報を配布します」

「……代替?」


 ナツメの顔色が変わる。


「つまり、神代くんが黙ると、図書館側が代わりに指示を出す……?」


 ナビィは小さく頷いた。


「おそらく」


 司書官グリモアの本が、さらにめくられる。床を這う黒い文字列が、一斉に増殖した。さっきまで蛇のように這っていたものが、今は雨のようにATへ降り注いでくる。


 全員の画面に、同時に文字が浮かぶ。


『暫定指揮者:神代カイ』

『攻略情報への正式応答なし』

『沈黙ペナルティを開始します』


 カイの顔から、血の気が引いた。


 次の瞬間、全員のATに、膨大なログが雪崩れ込んだ。

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