第8話 正しい攻略情報は罠である
『閲覧を開始します』
その表示が浮かんだ瞬間、螺旋図書館の空気が変わった。襲ってきたわけではない。炎が飛んだわけでも、刃が振るわれたわけでもない。ただ、見られている、と全員が感じた。
司書官グリモアは、巨大な本を開いたまま動かない。黒い司書服の輪郭は書架の影と溶け合い、白紙の顔には何の表情もない。けれど、こちらの息遣い、導杖を握る指の力、ATに目を走らせる癖、恐怖を押し殺す心拍まで、すべてページに写し取られているようだった。
カイのATに、ナビィの警告が走る。
『精神反応スキャンを検出』
『対象:全員』
『個別ログ干渉、発生』
「個別ログ……?」
ナツメが小さく呟く。その直後、全員のATが同時に鳴った。だが、表示された内容は同じではなかった。ハルトのATには、赤い熱量図が表示されていた。
『教師拘束術式、熱量干渉により解除可能』
『推奨術式:局所熱均衡』
『火力出力:二十二パーセント』
『成功率:七十四パーセント』
『注意:低出力維持』
ハルトは眉を寄せる。
「……焼けってログじゃない。熱を均せって出てる」
カイはその言葉に反応した。さっきまでの偽ログは、分かりやすく雑だった。熱量系で焼け。高速機動で突っ込め。得意分野をそのまま押させるだけの、古いゲームの嘘攻略みたいな誘導だった。
だが、今のログは違う。ハルトの性格を読んでいる。火力に誇りを持ち、しかし教師を傷つけたいわけではない。強引な焼却ではなく、繊細な熱制御なら自分の力で救える。そう思わせる表示だった。
ユイカのATにも、別のログが流れていた。
『拘束対象までの救助経路を算出』
『高速機動適性:白羊院ユイカ』
『推奨速度:通常加速の六十二パーセント』
『経路:右前方書架間、三段跳躍』
『味方巻き込み危険:低』
ユイカは導杖を握り直す。
「私には、救助経路が出ているわ。さっきみたいな中央突破じゃない。速度も抑えろと出ている」
ナツメの画面には、膨大なログが展開されていた。
『全ログ完全読解を推奨』
『異常表示は総合比較により判定可能』
『解析担当:早見ナツメ』
『未読ログ増加に伴い、攻略成功率低下』
『処理遅延警告』
ナツメの顔から血の気が引く。
「私の方は……全ログを読めと出ています。未読が増えるほど危険だと」
リクトの前には、光る矢印が表示されていた。
『非戦闘員相当』
『後方退避推奨』
『安全経路を表示します』
『出口まで十二メートル』
「俺は……出口?」
リクトが振り返る。そこには、さっきまで存在しなかった扉があった。書架と書架の間に、白い光で縁取られた扉。取っ手には非常口を示すような緑の記号。扉の向こうからは、旧校舎地下の蛍光灯の光に似たものが漏れている。
明らかに怪しい。だが、怪しいからこそ、恐怖の中では救いに見えた。
「……おい、カイ。あれ、出口に見えるんだけど」
「見るな」
カイは即答した。
「でも、ATには安全経路って」
「ATを見るな」
「見るなって言われても、補助層に混ざってるんだろ!? 見ないと魔法も動きもズレるんじゃねえのかよ!」
リクトの声が少しだけ上がる。床の文字列が、ぴくりと動いた。カイはリクトを睨んだ。
「声を落とせ」
「……悪い」
リクトは口をつぐむ。だが、その視線は扉から離れない。カイは全員の表示を見比べた。正確には、見比べるまでもなかった。言葉の選び方で分かる。
ハルトには、力を正しく使えば救えると囁く。ユイカには、速さを抑えれば助けられると示す。ナツメには、読めば分かると責任を押しつける。リクトには、逃げてもいいと許可を出す。どれも単なる嘘ではない。たぶん、部分的には正しい。
ハルトの熱量制御は拘束を緩める可能性がある。ユイカの速度なら教師の近くまで行ける。ナツメがログを読めば、情報の一部は拾える。リクトの前にある扉も、どこかへ繋がってはいるのだろう。
だから厄介だった。正しい情報ほど、人は疑いにくい。
ゲームでもそうだった。完全なデマなら、慣れたプレイヤーは見抜ける。だが、初期攻略情報に混ざる「八割正しい嘘」は強い。途中までは本当に攻略が進む。だから最後の一手で全滅する。
カイの指先が冷える。分かっている。これは罠だ。だが、言えばどうなる。ハルトに撃つなと言えば、教師を見捨てるのかと返される。ユイカに動くなと言えば、助けられる距離なのに止める理由を問われる。ナツメに読むなと言えば、解析担当としての責任を奪うことになる。リクトに逃げるなと言えば、非戦闘員にここで耐えろと命じることになる。
全部、指揮だ。誰かの行動を縛ることは、誰かの生存を自分の判断に乗せることだ。
カイは息を殺した。その沈黙を、グリモアは読んでいる。ハルトが一歩前へ出た。
「俺がやる」
「久我」
「焼かねえよ。ログにも低出力って出てる。熱を均すだけだ」
ハルトの導杖が展開する。黒いタクト型の端末内部に、赤い術式線が走る。炎ではない。熱の偏りを読み取り、拘束文字列の一部だけを温め、固着を緩める繊細な術式。
実際、選択としては悪くなかった。拘束が文字列なら、インクに相当する星素の配列に熱的な揺らぎを与えれば、粘着を弱められる可能性はある。ハルトの得意分野ならできる。むしろ、彼だからこそできる。だから、カイは一瞬遅れた。
「待て。補助層を切れ」
「あ?」
「術式補助を使うな。手動で――」
「無茶言うな! この距離で精密制御なんか、補助なしじゃ――」
ハルトのATに、新しいログが差し込まれた。
『術式安定化補助を開始』
『熱量変換効率を最適化』
『拘束解除成功率:八十二パーセント』
「やめろ!」
カイが声を上げた。その瞬間、ハルトの術式が変質した。均されるはずだった熱が、一点に集まる。赤い術式紋が歪み、炎の輪郭を取る。ハルト自身も目を見開いた。
「違う、俺は燃やすつもりじゃ――!」
熱量が跳ねた。黒い文字列に触れた炎は、教師ではなく、背後の書架へ流れた。乾いた本の背が一斉に赤く染まる。だが、燃え方がおかしい。紙が燃えているのではない。文字そのものが、炎を吸って増殖している。
書架の一部がぼうっと燃え上がった。ATに警告が走る。
『図書館規則違反』
『資料焼損』
『星素汚染値上昇』
『管理強度を引き上げます』
空気が重くなる。螺旋書架の奥から、低い軋みが響いた。今まで眠っていた棚が、こちらを見るように角度を変える。ハルトは奥歯を噛む。
「くそっ……! 違う、俺は……!」
「分かってる」
カイは短く言った。
「お前の操作じゃない。ログが補助に割り込んだ」
「なら最初からそう言え!」
「言ったら止まったのかよ」
ハルトは言い返せなかった。教師を助けられる可能性があった。自分の力ならできると思った。ログはその気持ちに、ちょうどいい形で答えを出した。だから動いた。その事実が、ハルトの顔を歪ませる。
ユイカが教師の方へ視線を走らせた。拘束はまだ解けていない。むしろ星素汚染の上昇で、黒い文字列は太くなっている。
「次は私が行く」
「白羊院、待て」
「待っている間に先生の拘束が強くなっているわ」
「その経路は罠だ」
「根拠は?」
ユイカの声は抑えられていた。だが、その中に苛立ちがある。
「ログが私に合わせすぎているから?」
「そうだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
「神代くん」
ユイカはカイをまっすぐ見た。
「あなたが何かを見抜いているのは分かる。でも、理由を言わずに止められても動けない。私は先生を助けたいの」
正論だった。カイは言葉を詰まらせる。ユイカの足元に、白い術式紋が咲く。通常よりも抑えた加速。ログの推奨通り、最大速度ではない。彼女なりに危険を警戒している。だが、それも罠の内側だ。
彼女のATには、書架の間を抜ける三段跳躍のルートが表示されている。足場、角度、踏み込み位置、減速ポイント。そのすべてが、ユイカの身体能力ならぎりぎり成立するように作られていた。成立するように見えるから、踏める。
カイの目には、その二歩目だけがズレて見えた。床ではない。空間の奥行きが、彼女の速度に合わせてほんのわずかに遅れている。速い者ほど気づけない。自分の加速で、罠を踏み抜く構造。
「右の二歩目がない」
「え?」
「そこ、足場じゃない。表示だけだ」
ユイカが視線を落とす。AT上では、確かに足場がある。肉眼でも、床は見える。だがカイの言葉に反応した瞬間、ユイカの足元の白い術式紋がわずかに揺らいだ。ナツメが声を絞る。
「待ってください。私の座標情報では、全員まだ同じ広間にいます。白羊院さんの前方にも床があります」
「視界情報は?」
「視界でも床です」
「音は?」
ナツメは一瞬、耳を澄ませた。ユイカの足元から、音がしない。図書館の床は、踏めばわずかに軋む。教師の近く、ハルトの足元、リクトの靴裏、カイの立つ場所。すべて、古い木材に似た音を返している。
だが、ユイカのログに示された二歩目だけは、音を返していない。
「……音響反射がありません」
ナツメの顔色が変わる。
「座標と視界が一致しているのに、音だけない……?」
「だから、正しい情報を探すなって言っただろ」
カイは低く言った。
「正しい部分を使って、最後だけ落としに来る」
その言葉を聞いた瞬間、リクトがまた扉を見た。白い光の扉。ATには今も表示されている。
『安全経路』
『非戦闘員退避推奨』
『出口まで八メートル』
『戦闘継続は死亡リスクを増大させます』
「……なあ」
リクトの声は震えていた。
「これ、俺が逃げたらダメなやつか?」
誰もすぐには答えられなかった。リクトは笑おうとした。けれど、その顔は引きつっている。
「いや、分かってる。怪しいのは分かってるんだよ。でもさ、俺、正直言うと怖いんだわ。ユイカみたいに速く動けるわけでも、久我みたいに火力あるわけでも、早見みたいにログ読めるわけでもない。ただの荷物運びで来ただけだぞ、俺」
光る扉は、黙ってそこにある。まるで、彼の言葉を待っていたように。
『あなたは非戦闘員相当です』
『退避は合理的判断です』
『あなたの離脱により、戦闘員の保護対象が減少します』
『退避してください』
リクトの喉が鳴る。それは責めるログではなかった。逃げてもいい、と言っている。お前は弱いのだから、逃げるのが正しい。むしろ逃げることで仲間の負担が減る。そういう形の、優しい命令だった。
カイは拳を握った。リクトが弱いわけではない。少なくとも、カイは知っている。こいつは軽口で場を繋ぎ、怖くても他人の荷物を持ち、Eクラスの落ちこぼれ扱いされているカイを日常側に引っ張ってきた。
けれど、戦場の評価軸では弱い。だからこそ、このログは刺さる。リクト自身が一番信じたくない、けれどずっと心のどこかで思っていた言葉を、システム表示という形で突きつけてくる。
ナビィが小さく警告を出す。
『瀬尾リクト、恐怖値上昇』
『判断誘導ログへの同期率上昇』
『危険です、カイさん』
「分かってる」
「指示を」
「分かってるって言ってんだろ」
カイの声が荒くなる。ナビィはそれ以上言わなかった。リクトが一歩、扉へ近づく。
「ちょっと、確認するだけだ。近くで見れば偽物か分かるかもしれないし」
「リクト、止まりなさい」
ユイカが声を抑えて言う。
「分かってる。分かってるって」
リクトは笑う。
「大丈夫。俺、こういう時に一番情けない動きするタイプだけど、さすがに勝手に逃げたりは――」
その足が、さらに一歩進んだ。
カイの目には見えた。扉までの距離が縮まっているのではない。扉の方が、リクトの恐怖に合わせて近づいている。白い光の枠が、書架の間から少しずつ前へ出ている。床の黒い文字列が、扉の下だけ滑らかに流れている。
あれは出口じゃない。口だ。
リクトの手が、扉の取っ手へ伸びる。その瞬間、司書官グリモアの白紙の顔に、薄い文字が浮かんだ。
『返却不要資料を処分します』
カイの背筋が凍った。
リクトはまだ気づいていない。取っ手に触れようとしている。カイの喉が詰まる。
言え。止めろ。命令しろ。
でも、その一言はリクトをここに縛りつける言葉だ。逃げ道を奪う言葉だ。弱い人間に、怖くても残れと命じる言葉だ。
幼い日の赤い警報が、また鳴る。
『現実は、リトライできない』
リクトの指先が、白い扉に触れかけた。
カイは、まだ声を出せなかった。




