第7話 ナビィ・オルタ
「対象、神代カイを確認しました!」
耳元で弾けた声は、この場所に似合わないほど明るかった。カイは反射的にATを見た。画面には、国家魔法災害対策局の紋章が浮かび上がっている。赤い警告表示。強制介入の文字。解除不能のロック。何かが、自分の端末の奥深くまで入り込み、勝手に権限を書き換えていく。
「……なんだよ、これ」
声がかすれた。螺旋図書館の奥では、司書官グリモアが静かに本を閉じている。白紙の顔には、もう何の文字も浮かんでいない。だが、見られている感覚だけは消えなかった。書架も、床を這う黒い文字列も、教師たちの呼吸さえも、次に起こる何かを待っている。
ATに、新しい表示が走る。
『緊急介入プロトコル起動』
『対象確認――神代カイ』
『適合率再計算中』
『攻略補助官、展開します』
「展開って、何を――」
言い終わる前に、ATの画面から光が飛び出した。それは、手のひらほどの少女だった。淡い青白い光で形作られた小型ホログラム。肩口で跳ねる髪。制服にも軍服にも見える奇妙な衣装。胸元には国家魔法災害対策局の紋章が浮かび、背中には羽根のような演算ウィンドウが何枚も展開されている。
少女は空中でくるりと一回転し、カイの目の前でぴたりと止まった。
「はじめまして、カイさん! わたしはナビィ・オルタ! 国家魔法災害対策局所属、異相レイド攻略補助官です!」
場違いなほど元気な声だった。旧校舎地下だった場所は、もう完全に図書館ではない何かへ変わっている。無限に巻き上がる螺旋書架。足元を這う黒い文字列。外部通信は途絶し、ATログは信用できず、教師でさえ状況を把握しきれていない。なのに、そのホログラム少女だけは、朝の校内放送みたいな調子で続けた。
「本日より、あなたの攻略支援を担当します!」
「帰れ」
「第一声がそれですか!?」
「帰れ。今すぐ。あと俺の端末から出ていけ」
「無理です! 緊急災害時の強制介入プロトコルなので!」
カイはATを掴み、画面を閉じようとした。だが、表示は消えない。電源ボタンも反応しない。むしろナビィは、ATの縁からぴょこんと顔を出した。
「わっ、そこ触るとくすぐったいです!」
「未成年の端末に国家AIを勝手に入れるとか、普通に犯罪だろ」
「犯罪じゃありません! たぶん!」
「たぶんって言ったぞ、今」
「緊急災害時における魔法師保護特例、及び異相封鎖型星律災害対策基本法、ええと、細かい条文は省略しますが、とにかく合法寄りです!」
「寄りってなんだ。寄りって」
リクトが横から、引きつった顔でカイとナビィを見比べた。
「おいカイ。お前、なんかすごいのに懐かれてない?」
「懐いてない。ウイルスだ」
「ひどいです! わたし、政府公認ですよ!」
「余計に嫌だ」
ナビィは頬を膨らませるような仕草をした。ホログラムなのに、妙に表情が豊かだった。冷たい機械音声ではない。むしろ、明るすぎて空気が読めない新人オペレーターに近い。だが、その背後で展開されている演算ウィンドウの量は、人間の端末処理能力を明らかに超えていた。
『盤面名:《螺旋図書館》』
『想定ランク:C級相当。ただし内部ルール未確定』
『神式核反応:書架深層部』
『管理機構:《司書官グリモア》』
『攻略条件:不明』
『既存ログ汚染率:七十二パーセント』
ナツメが息を呑む。
「国家局の攻略補助AI……? 本当に存在していたんですか」
「はい! 極秘試験運用中なので、あまり大声では言わないでください!」
「自分で名乗っただろ」
カイは苛立ったように吐き捨てた。ナビィは咳払いをする。
「では改めて。神代カイさん。あなたには、この異相レイドの攻略指揮を担当してもらいます」
その言葉で、カイの表情が変わった。先ほどまでの面倒くさそうな顔ではない。眉間に皺が寄り、目から温度が消える。
「やらない」
「まだ説明が終わっていません」
「聞く気もない」
「でも、あなたが最適です」
「知らない」
「あなたは現存する魔法師候補の中で、最も多く未知の高難度ギミックを突破した人間です」
ナビィの背後に、新しいウィンドウが開いた。カイのAT画面に、古いゲーム画面が映し出される。暗黒の神殿。巨大な翼を持つレイドボス。画面を埋め尽くすパーティログ。複数のプレイヤー名。崩壊しかけた足場。全体即死攻撃のカウントダウン。その中心に、ひとつの名前があった。
《Oracle_Kai》
和名表示に切り替わる。
《神託のカイ》
カイの喉が、ひゅっと鳴った。世界が一瞬、遠ざかった。螺旋図書館の書架も、黒い文字列も、教師の声も、リクトの呼吸も、全部が薄くなる。代わりに聞こえたのは、昔のボイスチャットだった。
『カイ、次どうする!?』
『右足場、三秒後に落ちる!』
『ヒーラー残り一枚!』
『神託、頼む!』
『カイくん、現実は――』
「消せ」
カイの声は低かった。ナビィが目を瞬かせる。
「え?」
「消せって言ってんだよ」
それは、怒鳴り声ではなかった。だが、リクトが思わず肩を震わせるほど鋭かった。ナビィは慌てて両手を振る。
「あっ、はい! すみません! 表示、閉じます!」
ゲームログのウィンドウが消える。だが、一度映った名前は、もうその場にいた全員の記憶に残っていた。ナツメの視線が細くなる。久我ハルトは眉をひそめた。
「神託……? なんだ、それ」
「知らない名前ね」
ユイカも険しい顔でカイを見る。だがカイは答えない。唇を噛み、ATから視線を逸らしている。ナビィは今度こそ少しだけ声を落とした。
「データ自体は消せません。ですが、表示は控えます。ごめんなさい」
「謝るくらいなら、最初から出すな」
「……はい」
ほんの一瞬、ナビィの表情から明るさが消えた。だが次の瞬間、彼女は顔を上げる。ここが災害現場だと理解している顔だった。
「でも、カイさん。今は拒否している時間がありません」
螺旋図書館の奥で、司書官グリモアが本を開いた。白紙の顔に、文字が浮かぶ。
『静粛に』
その瞬間、床を這っていた黒い文字列が跳ね上がった。
「全員、下がれ!」
教師が導杖を振る。結界術式の光が展開されかける。しかし、黒い文字列はその光を紙の端のようにめくり、教師の腕へ巻きついた。
「ぐっ……!」
文字列は栞のように薄く、鎖のように硬かった。教師の導杖に絡み、手首を固定し、肩、胴、足元へと広がっていく。ATに警告が走る。
『教師権限:一時凍結』
『術式起動補助:遮断』
『発声量超過』
『図書館規則違反――拘束』
「先生!」
ユイカが反射的に前へ出る。足元に白い術式紋が咲き、加速の光が彼女の身体を押し出そうとする。同時に、ユイカのATにログが表示された。
『高速接近により拘束解除可能』
『推奨経路:中央直線』
『成功率:八十一パーセント』
「待て」
カイが言った。声は小さかった。だが、ユイカの足が一瞬止まる。
「中央はない。あそこ、床が遅れてる」
「床が……?」
「いや、知らん。独り言だ」
「この状況で独り言を言わないで!」
ユイカが怒鳴りかける。その声に反応して、グリモアの顔にまた文字が浮かんだ。
『静粛に』
黒い文字列が、今度はユイカの足元へ伸びる。
「白羊院、声落とせ」
カイは反射で言っていた。ユイカは悔しそうに唇を噛むが、声を飲み込む。ハルトが導杖を構えた。
「なら、俺が焼く。あの文字列ごと――」
「燃やすな」
また、カイの口が勝手に動いた。ハルトの視線が鋭くなる。
「あ?」
「この図書館、たぶん火にうるさい。燃やしたら管理ルールが上がる」
「たぶんで止めろって言ってんのか?」
「止めろとは言ってない。撃つなら、拘束じゃなく周囲を照らせ。影を見ろ」
「意味がわからねえ」
「俺も説明する気ない」
ハルトの額に青筋が浮かぶ。
「劣等生が……」
だが、教師が拘束された今、即座に撃つこともできなかった。彼は導杖を下げないまま、熱量を炎に変える直前で踏みとどまる。ナツメはATを操作していた。指先が空中キーボードを叩き、偽ログと実測値の差分を拾おうとしている。
「ログ汚染が深い……。補助層にまで混ざっています。完全遮断は無理。けど、選別にも時間が――」
「全文読むな」
カイが言った。ナツメの手が止まる。
「全文を読まないと、真偽判定ができません」
「真偽じゃない。誰に何をさせようとしてるかだけ拾え」
「誰に、何を……?」
「独り言だ」
「その独り言、さっきからかなり具体的なんですが」
ナツメは一瞬だけカイを見る。その目には、恐怖よりも好奇心の方が混じっていた。合同模擬戦の時と同じ目だ。カイの一言が、現実の崩壊を先回りしていたと気づいた人間の目。リクトは教師へ駆け寄ろうとして、手にした符式端末を床へ貼ろうとした。
「瀬尾、床に貼るな」
「え、また?」
「棚の側面。背表紙じゃなく、板の継ぎ目。そこだけまだ固定されてる」
「お前、なんでそういうの分かんだよ!」
「知らん。目に入っただけ」
「目に入りすぎだろ!」
リクトは文句を言いながらも、床ではなく左手の書架側面へタグを貼った。薄いフィルム状の符式端末が、書架の継ぎ目に吸いつくように固定される。淡い光が走った。次の瞬間、床の文字列がぐにゃりと波打つ。もし床にタグを貼っていれば、そのまま文字列に飲み込まれていただろう。
「……おい」
リクトの顔が青くなる。
「今の、マジで危なかったやつ?」
「だから独り言だって」
「独り言で俺の命救うな。反応に困る」
ナビィがぱあっと顔を輝かせた。
「確認しました! リクトさん、空間固定補助。ハルトさん、熱量照明。ユイカさん、機動待機。ナツメさん、ログ誘導解析。暫定パーティ構成を登録します!」
「登録するな」
「しました!」
「するなって言っただろ!」
「災害時なので!」
「便利な言葉みたいに使うな!」
ナビィの背後に、簡易パーティウィンドウが展開される。
『暫定指揮支援対象』
『前衛機動:白羊院ユイカ』
『熱量制御:久我ハルト』
『解析管制:早見ナツメ』
『空間固定:瀬尾リクト』
『指揮候補:神代カイ』
最後の行だけ、カイは睨みつけるように見た。
「候補から外せ」
「外せません。あなたの発言によって、すでに四名の被害予測が低下しています」
「俺は命令してない」
「はい。命令ではありません」
ナビィはにこりと笑った。
「ですが、攻略指示として有効です」
「違う」
「違いません」
「違う」
「違いません」
「お前、AIのくせに押しが強いな」
「補助官ですから!」
「補助官は普通、補助しろ。人を崖から押すな」
「崖から落ちる前に背中を押して安全な足場へ移すタイプの補助です!」
「最悪の補助だな」
そんなやり取りの間にも、グリモアは動いていた。黒い司書服の裾が床の上を滑る。抱えた巨大な本のページが、ひとりでにめくられていく。そこに文字はない。白紙のはずなのに、見る者の視線だけが吸い込まれる。
教師は拘束されたまま、低い声で言った。
「神代……お前、何を知っている」
「何も」
「なら、なぜ分かる」
「分かってないです」
「嘘をつくな」
教師の声が少し大きくなる。その瞬間、拘束の文字列が締まった。
「ぐっ……!」
「声を上げるな」
カイが鋭く言った。全員の視線が、彼に集まる。カイは一瞬だけ黙った。言ってしまった、という顔だった。だがもう遅い。グリモアの白紙の顔に、文字が浮かぶ。
『規則を理解しましたか?』
カイは奥歯を噛んだ。理解したくなかった。見たくなかった。盤面を読むということは、この場所のルールを認めることだ。ルールを認めれば、次にやるべきことが見えてしまう。やるべきことが見えれば、誰かを動かさなければならない。
誰かを危険な場所へ送ることになる。
幼い日の赤い警報が、脳裏をよぎった。
『カイ。現実は、リトライできない』
カイは小さく息を吐いた。
「……全員、声を落とせ」
それは命令ではない、と自分に言い聞かせるような声だった。
「ここは図書館だ」
その言葉を聞いた瞬間、螺旋図書館全体が沈黙した。遠くで回っていた書架の軋みが止まる。床を這う文字列が一斉に静止する。ページのめくられる音だけが、異様に大きく響く。司書官グリモアが、ゆっくりと本を掲げた。
白紙の顔に、新しい文字が浮かぶ。
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