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魔法劣等生による神式攻略 ――攻略不能レイドは、やる気なしの劣等生に託された――  作者: 龍虎


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第6話 旧校舎地下、異相化

 世界が、裏返った。


 最初に消えたのは壁だった。地下資料保管庫の石壁が、音もなく奥へほどけていく。崩れたのではない。壊れたのでもない。最初から壁など存在しなかったかのように、空間の意味だけが剥がれ落ちた。


 次に天井が遠ざかった。ほんの数メートル上にあったはずの天井が、無限の彼方へ引き伸ばされる。結界灯の光は星のように小さくなり、代わりに頭上へ螺旋状の書架が現れた。


 棚、棚、棚。


 何層にも巻き上がる本棚が、空の果てまで続いている。床に走った幾何学模様の光が、足元でゆっくり回転する。地下資料保管庫は、もう資料保管庫ではなかった。そこは巨大な図書館だった。ただし、人間のための図書館ではない。


 廊下は螺旋を描き、棚はありえない角度で空間に刺さり、開いた本のページから黒い文字列が煙のように立ち上っている。遠くで紙をめくる音がした。近くでも同じ音がした。右から聞こえたはずの音が、左の耳元で囁くように反響する。


「外部通信途絶!」


 ナツメの叫びが響いた。


「地上監視班ともリンクできません! 校内網、災害対策局回線、全部切断されています!」

「結界外部との接続は?」


 教師が声を張る。


「応答なし! いえ、信号は返ってきています。でも……同じ内容を繰り返してるだけです!」

「録音か」

「おそらく!」


 ハルトが導杖を構え、ユイカが前へ出る。その動きに、カイの心臓が嫌な音を立てた。


「待て」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。

 だが、誰も聞いていない。全員が目の前の異常に集中している。教師は生徒を守るために状況確認を優先し、ハルトは敵の出現に備え、ユイカは退路を確保する位置取りを探している。ナツメは必死にログを読み、リクトは完全に顔色を失っていた。


「嘘だろ……演習だろ、今日……」

「落ち着け、瀬尾」


 教師が短く言った。


「これは演習ではない。全員、現時点をもって実災害対応に切り替える。白羊院、前衛。久我、火力待機。早見、解析。瀬尾と神代は中央で待機しろ」

「は、はい!」


 リクトが震えた声で返事をする。カイは返事をしなかった。彼の視線は、自分のATに釘付けになっていた。


 端末が勝手に起動している。


 それだけではない。カイだけではなく、全員のATが同時に起動していた。画面上に、見慣れない黒いウィンドウが浮かび上がる。演習用システムの表示ではない。学校の管理端末でもない。もっと古く、もっと冷たい、文字だけのログ。


『異相封鎖を確認』

『盤面名:《螺旋図書館》』

『閲覧者数:六』

『初期攻略情報を開示』


 カイの喉が詰まった。


 支援ログか。


 最初にそう思った。異相レイドでは、災害対策局の標準支援ログや、学校の演習システムが初期情報を表示することがある。盤面名、侵入者数、推奨行動。形式だけを見れば、それに近い。


 けれど、違う。


 表示の署名がない。災害対策局の識別コードも、学校側の演習タグも付いていない。何より、文字の出方が気持ち悪い。端末の画面に表示されているというより、図書館そのものがこちらへ読ませているようだった。


 次の瞬間、全員のATに同じ表示が走った。


『攻略条件:司書官グリモアの討伐』

『推奨戦術:熱量系術式による書架焼却』

『補足:高速機動による中央書庫突破が有効』


 ハルトの目が鋭くなる。


「熱量系が推奨か」


 その声には、恐怖よりも自信があった。彼にとって、熱量系術式は自分の武器そのものだ。異常空間に閉じ込められたとしても、表示された攻略情報が自分の得意分野を示している。それは、戦う理由になる。

 ユイカも導杖を握り直した。


「中央書庫への突破なら、私が先行する。空間が変化する前に最短で――」


 カイの喉が動いた。


 駄目だ。


 そう言いかけた。だが、その言葉は途中で引っかかった。言えば、止めた理由を求められる。止めたなら、代案を出さなければならない。代案を出せば、次から全員が自分を見る。

 それは、嫌だった。


 教師がユイカを制した。


「白羊院、まだ単独で動くな。早見、ログの発信源を確認しろ」

「確認中です!」


 ナツメの指がAT上を走る。だが、その表情はすぐに険しくなった。


「駄目です。学校の演習システムではありません。災害対策局の標準支援ログとも署名が一致しません。なのに、ATの補助層に直接割り込んでいます」

「補助層?」


 リクトが震えた声で聞いた。


「じゃあ、見なきゃいいんじゃねえの? ログが怪しいなら、通知切って、画面見ないで、勘で動けば――」

「無理です」


 ナツメが即座に否定した。


「これは通知じゃありません。導杖の対象指定、距離補正、術式安定化、味方識別……全部の補助層に混ざっています。完全遮断すれば、基礎術式はともかく、高等術式はほぼまともに撃てなくなります」

「じゃあ、見るしかないってことかよ」

「見るしかありません。少なくとも、通常の実災害対応では」


 ナツメの声には焦りが混じっていた。


「問題は、発信源が分からないことです。外部支援でも、学校の管理ログでもない。なのに、ATの基礎補助より上の層に食い込んでいます」

「ATログは、魔法師にとって照準器であり、安全装置でもある」


 教師が低く言った。


「切れば誤射や暴発の危険が跳ね上がる。だが、汚染されたログを信じれば、判断を誤る。早見、真偽判定を継続。白羊院、久我、独断で動くな」

「了解」


 ユイカは短く答えたが、視線は中央書庫へ続く螺旋の通路に向いたままだった。ハルトも不満そうに導杖を握っている。彼らの目には、ログが示した攻略法がまだ生きていた。


 カイは、何も言わなかった。

 言わなくても、分かってしまっていた。


 ログは消せない。消せば戦えない。だが、信じれば罠を踏む。高難度レイドで何度も見た構造だった。正しい情報の顔をした誘導。親切な説明文。分かりやすい弱点。最短経路。推奨属性。


 だが、それはMMORPGなら何度もある、という類のものではない。

 Arcana Raid Onlineの高難度レイドに、一度だけ似たギミックがあった。システム通知そっくりの偽ヒントを、ボスが戦闘中に流してくる。表示された内容の半分は正しく、最後の一手だけが致命的に間違っている。信じたパーティから順番に崩れていく、性格の悪い初見殺し。


 カイの視線が、表示された文字列をなぞる。


『攻略条件:司書官グリモアの討伐』

『推奨戦術:熱量系術式による書架焼却』

『補足:高速機動による中央書庫突破が有効』


 熱量系。高速機動。

 久我ハルトと白羊院ユイカに、あまりにも都合がいい。


 違う。


 これは攻略情報じゃない。

 こっちを動かすための――。


 そこまで考えて、カイは奥歯を噛んだ。

 言うな。

 口にすれば、説明しなければならなくなる。説明すれば、次の判断を求められる。次の判断を口にした瞬間、自分はただの荷物運びではいられなくなる。

 だから、カイは黙った。


 ユイカがカイを見る。


「神代。あなた、さっきから顔色が悪いわ」

「……別に」

「このログに、何かあるの?」

「知らない」

「本当に?」

「俺に聞くな」


 それだけ言って、カイは目を逸らした。

 ユイカは納得していない顔をした。ナツメも一瞬だけカイの横顔を見たが、すぐにATへ視線を戻す。彼女はまだ、ログの違和感を“発信源不明の異常”として処理しているだけだった。そこに明確な意図があるとは、まだ考えていない。


 ハルトが前に出た。


「結局、動けない理由はないわけだ」

「久我、待機だ」


 教師が短く制した。


「早見の一次判定が出るまで、火力術式は使うな。ここは資料保管庫を核にした異相だ。燃焼系の影響が読めない」

「ですが、先生。このまま空間変化を待てば不利になります」

「分かっている。だが、初動で盤面を壊す方が危険だ」


 ハルトは不満そうに導杖を握りしめた。その先端に、赤い術式紋が淡く灯る。まだ発動ではない。待機状態だ。だが、熱は集まり始めている。周囲の紙片が、端からわずかに焦げた。

 カイの喉が動いた。


 やめろ。


 そう言いかけた。

 けれど、声にはならなかった。

 言えば、止めた責任が発生する。止めたなら、代案を出さなければならない。代案を出せば、次は全員が自分を見る。

 それが嫌だった。


 この盤面が本当に「火を使わせたい」タイプなら、ハルトは最初の餌になる。カイの脳裏に、古い画面がよみがえった。

 Arcana Raid Online。

 あの時のレイドボスも、推奨属性は火だった。

 ただし、実際には火属性攻撃を当てるたびにフィールド全体の毒霧が濃くなり、三分後に全滅するギミックだった。攻略掲示板は炎上し、上位ギルドが何組もワイプした。最初に出たヒントは完全な嘘ではなかった。火で一部のギミックは解除できる。だが、主力火力で押し切ろうとした瞬間、盤面全体が詰む。

 カイはその時、ヒントの文言ではなく、ボスの足元に残る焦げ跡の方向で罠を見抜いた。


 あれはゲームだった。

 全滅しても、リトライできた。

 でもここは違う。


「早見、判定は」


 教師が問う。


「表示ログと空間波形が一致しません。攻略条件の文字列だけが、異常に安定しています」

「安定しているなら本物ではないのか」


 ハルトが言う。

 ナツメは迷うように唇を噛んだ。


「普通なら、そう判断します。ただ……周囲の空間座標がここまで揺れているのに、攻略条件だけが綺麗すぎます。標準ログとしては、少し不自然です」

「罠だと言いたいのか」

「そこまでは言えません。現時点では、発信源不明の異常ログです」


 それでいい。

 カイは内心で思った。

 その程度で止まっていろ。


 これが罠だと断言するには、もっと嫌なものを見なければならない。何を踏ませたいのか。誰を動かしたいのか。どの役割を餌にしているのか。

 そこまで読むのは、攻略者の仕事だ。

 そして、カイはもう攻略者ではない。


「カイ、お前……本当に何か分かってんのか?」


 リクトが小声で言った。


「分かってない」

「じゃあ、何でそんな顔してんだよ」

「どんな顔だよ」

「ゲームで初見殺し見つけた時の顔」


 カイは、思わずリクトを見た。

 リクトは青ざめていたが、目だけは笑っていなかった。昔、まだカイがArcana Raid Onlineをやっていた頃、リクトは隣でよく画面を覗いていた。細かい攻略内容までは知らない。神託のカイという名前の重さも知らない。それでも、カイがどういう時に本気で集中するのかは知っている。


「……余計なこと覚えてるな」

「友達だからな」

「友達なら忘れろ」

「無理」


 その短いやり取りの間にも、空間は変化していた。

 遠くの書架が移動している。いや、書架そのものが動いているのではない。廊下の繋がりが変わっているのだ。右にあった通路が、気づけば左へ伸びている。足元の床に描かれた幾何学模様が、ゆっくりと別の意味へ組み替わっていく。


 ナツメが息を呑んだ。


「マップ生成が追いつきません。空間座標が固定できない……!」

「簡易結界を張る。瀬尾、補助タグを出せ」


 教師の指示で、リクトが慌ててケースを開ける。


「は、はい!」


 透明なカード状の符式端末が数枚、リクトの手に収まった。低出力の空間固定タグ。派手な効果はないが、床や壁に貼ることで一時的な座標基準を作れる。

 リクトが床にタグを貼ろうとした瞬間、カイは反射的にその手首を掴んだ。


「うおっ、何だよ」

「……いや」


 カイはすぐに手を離した。


 言うな。

 床が信用できない。

 この図書館で一番揺れているのは床だ。座標基準にするなら、床より書架の側面。見れば分かる。床の幾何学模様は回転しているのに、書架の背表紙だけはわずかに文字列の流れが遅い。

 でも、それを言えば、また説明しなければならない。


「何だよ、カイ」

「何でもない」

「何でもなくて手ぇ掴むか普通」


 リクトは困惑したまま、教師を見る。


「先生、床でいいんですか?」

「待て。床面の座標揺れが大きい。棚の側面に貼れ」


 教師が判断した。

 カイは黙った。

 リクトは慌てて近くの書架の側面にタグを貼る。小さな青い光が走り、周囲の空間がわずかに安定した。


 ナツメが目を見開く。


「座標揺れが下がった……床より書架の方が基準として安定してる?」


 ハルトがカイを見る。


「おい、今、分かっていたのか」

「偶然だ」

「偶然で手を止めるか」

「床に貼ったら邪魔そうだっただけだ」


 ハルトは納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。今はそれどころではなかったからだ。

 カイは目を伏せる。


 まただ。

 また、言いかけた。

 また、止めかけた。

 けれど、それはまだ指示じゃない。自分はまだ、ただの荷物運びだ。そう自分に言い聞かせる。


「神代!」


 ユイカの声が割って入った。

 彼女は前方を見据えていた。螺旋状に伸びる書架の奥、その暗がりに、何かが立っている。


 黒衣の人影だった。顔は見えない。長い外套のような衣をまとい、片腕に巨大な本を抱えている。人間に似ているが、人間ではない。足元に影がない。代わりに、周囲の床へ文字列が流れ落ちている。

 人影はゆっくりと本を開いた。

 ページをめくる音が、図書館全体に響く。全員のATに、新しいログが表示された。


『司書官グリモアを確認』

『戦闘開始を推奨』

『推奨初動:前衛による高速接近』

『推奨支援:熱量系術式による周辺書架焼却』


 ユイカの足が、自然に前へ出た。ハルトの導杖に、再び熱が集まる。

 カイの喉が動いた。


 待て。


 そう言おうとした。

 けれど、声にならなかった。舌が張りついたように動かない。言えば止められるかもしれない。だが、止めた後にどうする。代わりの正解を求められたら、どうする。

 プロの災害対応訓練でも、学生はログを見る。教師の指示も、端末の表示も、攻略条件も、すべてが「動け」と告げている。カイ一人の曖昧な違和感より、整ったシステム表示の方が信じやすいに決まっている。


 ユイカが導杖を構え、足元に白い術式紋を咲かせる。


「私が先行して、敵の動きを確認する」

「久我、火力は待機だ。まだ撃つな」


 教師が制した。

 ハルトは苛立ったように導杖を握る。


「表示通りなら、俺が道を開くのが最短です」

「最短を選ぶ段階ではない。白羊院も、単独先行は許可しない」

「ですが――」

「命令だ」


 教師の声には、かろうじて現場責任者としての重みが残っていた。

 だが、カイには分かっていた。

 それでも遅い。

 最短。その言葉が嫌いだった。ゲームでも現実でも、最短ルートはたいてい罠の上を通っている。


 黒衣の司書官グリモアが、ゆっくりと顔を上げる。顔のあるべき場所には、白いページがあった。そこに、墨で書かれたような文字が浮かぶ。


『静粛に』


 瞬間、図書館の空気が重くなった。

 魔法ではない。

 ルールだ。

 ここでは、戦闘より先に、何か別の条件が動いている。


 カイの指先が震えた。赤い警報。崩れる結界。兄の手。現実は、リトライできない。

 逃げろ、と心が叫ぶ。関わるな、と過去が命令する。


 だが、目の前でユイカが走ろうとしている。ハルトが撃とうとしている。ナツメがログの海に呑まれかけている。リクトが震えながらタグを握っている。


 ここで黙っていれば、自分は安全か。

 違う。

 全員が死ぬかもしれないだけだ。


 カイは喉の奥までせり上がった言葉を、必死で飲み込んだ。

 まだだ。

 まだ、自分が指揮する必要はない。まだ、教師がいる。上位クラスの生徒がいる。自分はただの荷物運びだ。


 そう言い聞かせた瞬間、カイのATが、ひときわ大きく震えた。

 画面が黒く染まる。

 そこに、見知らぬ紋章が浮かんだ。


 国家魔法災害対策局。


 その下に、小さな文字列が走る。


『緊急介入プロトコル起動』


 カイの顔から、血の気が引いた。

 何かが、自分の端末の中へ入ってくる。拒否権などない速度で。

 螺旋図書館の奥で、司書官グリモアが静かに本を閉じた。


 そして、カイの耳元で、まだ聞いたことのない少女の声がした。


「対象、神代カイを確認しました!」

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