第13話 崩れる役割
熱量術式が、解放された。
導杖の先端から迸った白い熱は、炎というより、圧縮された光の槍だった。空気が悲鳴を上げ、書架の列が一瞬だけ白く染まる。高密度の熱量が、一直線に司書官グリモアの胸元へ突き刺さった。
衝撃は、なかった。代わりに、グリモアの黒衣が紙のようにめくれた。
ATに緑の文字が浮かぶ。
『命中』
『有効打判定』
『追撃推奨』
『熱量系術式、連続起動可能』
その表示を見た瞬間、ハルトの顔に安堵と勝気が戻りかけた。
「見ろ……! 通っただろうが!」
だが、カイだけは違った。グリモアの胸元に突き刺さったはずの白い熱が、燃えていない。焼いていない。破壊していない。ただ、開かれた本のページに、文字として吸い込まれていた。
白い炎が黒い文字列へ変換され、ページの上を走る。
『火気記録』
『熱量情報、受領』
『閲覧者:久我ハルト』
『出力特性、保存』
カイの背筋に、冷たいものが走った。
「久我、導杖を下げろ! 追撃するな!」
「はあ!? 今なら押し切れる!」
「押し切れない! そいつ、食ってる!」
カイの声と同時に、グリモアが静かに本を閉じた。ばさり、という紙の音。それだけで、図書館全体の空気が変わった。
燃えたはずの白い熱が、黒い粒子となって書架の隙間から溢れ出す。粒子は霧のように広がり、床に走る文字列へ染み込んだ。次の瞬間、全員のAT表示が一斉に乱れる。
『星素汚染濃度、上昇』
『術式補正値、低下』
『対象識別、再計算』
『距離情報、再同期中』
ナツメが息を呑んだ。
「術式精度が落ちています……! 全員、補助層の安定率が一気に下がりました!」
「どれくらいだ!」
ハルトが叫ぶ。だが、その声は強がりに近かった。導杖を握る右腕が震えている。
「久我さん、右腕の神経負荷が跳ね上がってます! それ以上、出力を上げたら――」
「分かってる!」
ハルトは歯を食いしばった。腕が痛い。痛いなんてものではない。皮膚の奥に、熱い針を何十本も刺し込まれているようだった。
導杖から逆流した熱量情報が、神経を焼いている。それでも、ハルトは導杖を下げられなかった。命中した。当たった。自分の火力は、通用した。そう思わなければ、膝から崩れそうだった。
「久我!」
カイが一歩踏み出した。
「お前の火力は強い。でも今は、撃つほど負ける」
その言葉に、ハルトの顔が歪んだ。
「じゃあ俺は何をすればいい!」
怒鳴り声が、螺旋図書館に跳ね返る。
「撃つなって言われて、黙って見てろっていうのか!? 俺はBクラスだぞ! 火力なら、この中でも――」
「だから言ってるだろ」
カイは、ハルトの怒りを正面から受け止めた。
「お前の火力が弱いから止めてるんじゃない。強いから、使われてる。グリモアはお前の得意分野を読んで、そこに勝ち筋っぽい罠を置いてるんだ」
「……っ」
「今のお前はアタッカーじゃない。撃てば撃つほど、敵に弾を渡すだけだ」
ハルトの肩が震えた。屈辱だった。努力で積み上げてきたものを、正面から否定された気がした。
熱量系術式。それだけは、誰にも譲らなかった。名門の家柄がなくても、才能だけで届かない場所でも、何度も倒れて、何度も導杖を握り直して、ようやく手に入れた武器だった。
それを撃つなと言われている。自分の役割を捨てろと言われている。
「……俺から火力を取ったら、何が残るんだよ」
絞り出すような声だった。カイは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。だが、すぐに言った。
「影を作れ」
「……影?」
「熱を出すな。光だけに回せ。偽の通路は、影の落ち方がズレる」
ハルトは息を止めた。ナツメも、ユイカも、リクトも、同時に周囲を見る。
書架の間には、いくつもの通路があった。右にも左にも、奥にも、戻る道にも見える隙間がある。だが、今の螺旋図書館では、見えている道が本物とは限らない。
「グリモアは視界とAT補正を同時に騙してくる。でも物理光の影までは、完全には合わせきれてない。特に、久我の熱量術式を変換した直後ならな」
「俺の術式が、敵に記録されたからか」
「そうだ。だから逆に使う。攻撃じゃない。照明だ」
ハルトの唇が歪む。
「……ふざけんな」
「ふざけてない」
「俺の火力を、懐中電灯代わりにしろって言ってんのか」
「違う」
カイは即答した。
「お前じゃなきゃ作れない影を作れって言ってる」
ハルトは黙った。導杖を握る手に、まだ怒りが残っている。だが、その怒りの奥で、別のものが動いた。
自分の火力が否定されたわけではない。使い道を変えられただけだ。それでも、簡単には納得できない。納得できないが、ハルトはもう分かっていた。さっき撃った一発が、全員の術式精度を下げた。自分の判断が、盤面を悪くした。
だから、次は間違えられない。
「……一回だけだ」
ハルトは導杖を下げ、構えを変えた。攻撃姿勢ではない。杖先をやや上へ向け、熱量を集中させず、薄く広げる。
白い炎になりかけた光が、彼の制御で形を変えた。熱を持たない、冷たい白光。書架の列に沿って、長く細い光が走る。
その瞬間、通路の見え方が変わった。右の通路には、影が落ちていなかった。床に本棚があるなら、必ず影ができるはずなのに、そこだけ光がすり抜けている。左の通路では、影が壁ではなく天井へ伸びていた。
奥の道は、影の長さが途中で途切れている。そして、斜め前にある細い通路だけが、書架の形と影の落ち方が一致していた。
ナツメが声を上げる。
「見えます……! 影の不整合が、偽通路の位置と一致しています!」
リクトが乾いた笑いを漏らした。
「おいおい、今まで俺たち、道じゃないところを道だと思ってたのかよ……」
「今さら気づけてよかっただろ」
カイは短く返した。
「全員、久我の影から外れるな。白い光が当たって、影が自然に落ちてる場所だけを踏め」
「了解!」
ユイカが答える。淡金色の髪が高い位置で揺れた。
彼女は導杖を逆手に持ち、足元に白い術式紋を咲かせる。光で暴かれた本物の通路。その先に、グリモアの黒衣がちらりと見えた。ユイカの目が鋭くなる。
「道が見えたなら、私が抜く!」
彼女の足元で、加速術式が起動しかけた。空気が震える。
白羊院家の得意とする起動補助。踏み込み一つで、数十メートルの距離を切り裂く前衛の脚。迷路であろうと、敵が奥にいるなら駆け抜ける。それが彼女の戦い方だった。
だが、カイが怒鳴った。
「白羊院、走るな!」
ユイカの足が、床を蹴る直前で止まった。
「またなの!? 道は見えたでしょう!」
「見えたのは全員で進める道だ。お前一人が抜ける道じゃない」
「私が前に出なければ、誰がグリモアに届くのよ!」
「今のお前は突撃役じゃない」
ユイカの瞳が揺れた。それは、ハルトに火力を撃つなと言ったのと同じ言葉だった。役割を、変えられている。
「白羊院、お前は全員の座標基準だ」
「……座標基準?」
「お前の加速術式は、この中で一番安定してる。起動補助の術式紋も、床の揺れに引っ張られにくい。だからナツメの補正も、久我の影も、瀬尾のタグも、お前の位置を基準にして合わせてる」
カイは、ユイカの足元を指した。白い術式紋が、床に走る黒い文字列を押し返すように広がっている。その光は攻撃ではない。ただ、そこに彼女がいるという事実を、螺旋図書館へ刻み込んでいた。
「お前が一人で抜けた瞬間、その基準が動きすぎる。ナツメの座標補正はズレる。久我の影は角度を失う。瀬尾のタグは固定先を見失う。全員が迷子になる」
「……つまり、私に遅く走れって言ってるの」
「違う。全員が追える速度で、絶対にブレるなって言ってる」
ユイカは唇を噛んだ。速く走ることなら、誰にも負けない。誰よりも先に飛び込み、誰よりも早く敵へ届く。それが白羊院ユイカの役割だった。
名門の血も、積み重ねた訓練も、その一点へ向けて磨かれてきた。だが、今求められているのは逆だった。抜けないこと。置いていかないこと。全員が追える速度で、道の中心に立ち続けること。
「……本当に、それが必要なのね」
「ああ」
「私が遅くなったせいで間に合わなかったら?」
「その時は俺の責任だ」
カイは迷わず言った。その言葉に、ユイカは一瞬だけ目を見開いた。
カイの顔は、決して余裕そうではなかった。むしろ、青ざめている。ATには全員の魔力波形、神経負荷、恐怖値が流れ込んでいるのだろう。ハルトの痛みも、ナツメの負荷も、リクトの震えも、きっと見えている。
それでも、彼は盤面から目を逸らしていない。ユイカは小さく息を吐いた。
「分かったわ」
足元の術式紋が、形を変える。爆発的な加速のための鋭い紋様が、円形へ広がる。踏み出すたびに、床へ白い基準点を刻むような歩法。速くはない。だが、美しいほど乱れない。
ユイカは先頭に立った。
「全員、私の歩幅に合わせて」
リクトがぎょっとした。
「Aクラスのお嬢様に合わせろとか、Dクラスには荷が重いんだけど!」
「文句を言う余裕があるなら足を動かしなさい」
「はい!」
ハルトが舌打ちしながらも、白光を維持する。ナツメはその光と影、ユイカの足元の術式紋、リクトのタグ位置を同時に解析画面へ固定した。
「三つの基準が取れました。白羊院さんの歩調、久我さんの影、瀬尾くんのタグ。これなら、通路の真偽を比較できます」
「比較だけでいい。正解を探すな」
カイが言った。
「偽ログは、こっちに正解を見せてくる。だから正しさじゃなくて、崩そうとしている基準を見ろ」
「……分かりました」
ナツメの声は震えていたが、目は逃げていなかった。
五人は進み始める。ユイカが歩調を刻む。ハルトの光が影を作る。リクトのタグが書架を固定する。ナツメが情報を仕分ける。カイが、全員のズレを見ている。
さっきまでバラバラだった役割が、別の形で噛み合い始めていた。その様子を、司書官グリモアは白紙の顔で眺めていた。
黒衣の腕が、ゆっくりと巨大な本を開く。ページが一枚、めくられる。
『管理フェーズ、更新』
『閲覧者行動、再編成』
『推奨指示を再提示』
全員のATに、新しいログが雪崩れ込んだ。
『白羊院ユイカを先行させよ』
『久我ハルトの火力制限を解除せよ』
『早見ナツメは全ログ読解を優先せよ』
『瀬尾リクトは後方退避せよ』
『神代カイの指揮権限を停止せよ』
リクトの顔が引きつった。
「うわ、露骨に来た……!」
ナビィがカイの肩口で、泣きそうな声を上げる。
「カイさん、偽ログ増量キャンペーンです! お得じゃないです!」
「知ってる」
カイは奥歯を噛んだ。螺旋図書館の書架が、また動き出す。道が増える。影が歪む。正しそうな命令が、全員のATを埋め尽くしていく。
攻略は、ようやく一歩進んだ。だがグリモアは、それを許す気などなかった。
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