第14話 偽ログの迷路
最初に崩れかけたのは、ナツメだった。
AT画面に流れ込むログの量が、明らかに人間の処理能力を超えていた。文字列が何層にも重なり、座標情報、術式補正、危険表示、個別推奨、魔力波形、通路予測が、互いを押し潰すように表示される。
『白羊院ユイカを先行させよ』
『先行不可。隊列維持推奨』
『久我ハルト、火力制限解除』
『熱量術式危険。照明維持推奨』
『瀬尾リクト、退避経路確認』
『退避経路偽装率、不明』
『神代カイ、指揮権限異常』
『神代カイ、暫定指揮継続』
正しい表示と、間違った表示。役に立つ情報と、罠の命令。それらが同じ補助層に混ざっている。
ナツメは歯を食いしばり、解析画面を分割した。だが、分割したそばから新しいログが割り込み、分類タグを上書きしていく。
「情報量が多すぎます……! 真偽判定が追いつきません!」
「真偽判定するな」
カイの声が飛ぶ。
「捨てる順番を決めろ」
「捨てる……?」
「全部読むな。全部疑うな。そんなことをしてたら、お前が先に潰れる」
ナツメの指が止まりかける。
全ログ完全読解。それは解析担当として、最も正しい行動に見えた。情報が多いなら読み切る。矛盾があるなら比較する。全体像を把握し、最適解を出す。
だが、ここではその正しさが罠になる。グリモアは、彼女が情報を捨てられないことを知っている。だからこそ、読み切れないほどの正しそうな情報を投げ込んでくる。
「早見」
カイは低く言った。
「お前がやるのは、正解探しじゃない。ゴミ捨てだ」
「……解析担当に向かって、ひどい言い方ですね」
「生き残ったら謝る」
「なら、絶対に謝ってもらいます」
ナツメは小さく息を吸った。震える指で、解析画面に三つの基準を固定する。
白羊院ユイカの歩調。久我ハルトの影。瀬尾リクトのタグ。この三つと一致しないログを、まず捨てる。
次に、この三つのうち一つだけを過剰に強調するログを保留に回す。ユイカを急がせるログ。ハルトに撃たせるログ。リクトを退避させるログ。それらは、個別には正しそうでも、隊列を壊す意図がある。
ナツメの画面から、文字列が少しずつ減っていく。
「……分類を変えます。真偽ではなく、誘導対象別。白羊院さんを動かすログ、久我さんを動かすログ、瀬尾くんを動かすログ、私を動かすログ、神代くんを黙らせるログ」
「続けろ」
カイは短く促した。
ユイカは一定の速度で前へ進んでいる。速く走りたい衝動を抑え、全員の歩幅を背中で受け止めるように、まっすぐ進んでいた。彼女の足元に咲く白い術式紋は、床が波打つたびに形を微調整し、基準点を刻み直す。
ハルトはその少し後ろで、白い光を維持していた。腕の痛みは消えていない。むしろ、さっきより強くなっている。それでも熱を炎へ変えず、光だけに変換し続ける。
火力を抑えることが、これほど神経を削る作業だとは思っていなかった。撃つ方が、ずっと楽だった。何もかも燃やす方が、ずっと簡単だった。
「くそ……地味すぎんだろ、これ」
ハルトが呻く。
「でも、助かってるわ」
ユイカが前を向いたまま言った。
「あなたの影がなければ、私は今どこを踏んでいいか分からない」
「……礼を言われるようなことじゃねえよ」
「なら、後で正式に言うわ」
「今ので十分だ」
ハルトはそっぽを向くように導杖を持ち直した。その横で、リクトは書架の側面に新しいタグを貼っていた。
薄いフィルム状の符式端末が、本棚の黒い木肌に吸いつく。低出力の境界系術式が、ほとんど気づかれないほど弱い光で起動し、周囲の空間をほんの少しだけ固定する。
「俺だけ作業が地味すぎるんだけど」
「お前のタグがなかったら全員落ちてる」
カイが言った。
「地味ってことは、グリモアから見ても優先度が低い。今はそれが強い」
「褒めてる?」
「かなり」
「お前の褒め方、分かりづらいんだよなあ!」
リクトは文句を言いながらも、次のタグを取り出した。
だが、グリモアは黙っていなかった。前方の書架が音もなく傾く。ハルトの光が生んでいた影が、ぐにゃりとねじれた。ユイカの足元で、白い術式紋の半分が欠ける。
ナツメのATに、赤い警告が走った。
『座標基準、喪失』
『固定タグ、剥離進行』
『白羊院ユイカ、足場消失まで三秒』
「瀬尾くんのタグが剥がれます!」
リクトの顔から血の気が引いた。
「は!? 今貼ったばっかだぞ!」
「空間の歪みで、書架の側面そのものがズレてる。タグの接着先が、別の棚に置き換わりかけてる!」
ナツメの声に、ユイカの足が止まる。止まった瞬間、さらにまずいことが起きた。
彼女の足元の床が、ふっと薄くなる。床ではない。床に見せかけられた空白だ。ユイカの片足が沈みかけた。
「白羊院!」
ハルトが叫ぶ。反射的に導杖が動いた。光が一瞬、炎へ変わりかける。
「久我、撃つな!」
カイの声が飛ぶ。ハルトは歯を食いしばり、導杖を無理やり止めた。
「じゃあどうすんだよ!」
「瀬尾!」
カイはリクトを見た。
「左の書架、上から三段目。背表紙がない本の横に貼り直せ!」
「見えねえよ!」
「見なくていい。白羊院の右足から二歩半前、久我の影が切れてる場所だ!」
「それ、俺が行く場所として正しい!?」
「正しくない。だから罠の外だ」
「説明になってねえ!」
リクトは叫びながらも走った。
怖い。足が震える。目の前の床が本物かどうかも分からない。右には安全そうな通路が見える。ATにも『後方退避推奨』と表示されている。
自分はDクラスだ。突出した武器もない。こんな場所で前に出る役じゃない。それでも、リクトは退がらなかった。
ユイカの足場が消えかけている。ハルトは撃てない。ナツメは処理で限界だ。カイは、戦えない。なら、今動けるのは自分しかいない。
「っだあああ、もう!」
リクトは床を蹴った。足元の文字列が波打つ。右足が沈みかける。だが、ユイカの術式紋が刻んだ白い基準線を踏み、どうにか踏みとどまった。
ハルトの光が作る影の切れ目。そこに、背表紙のない黒い本があった。リクトは腕を伸ばす。
届かない。もう一歩踏み込む必要がある。
ATが警告を鳴らす。
『危険』
『退避推奨』
『非戦闘員相当』
『後方待機』
「うるせえ!」
リクトは叫び、最後の一歩を踏み込んだ。指先が書架に触れる。タグを叩きつける。
「貼れろおおおおお!」
符式端末が、黒い書架へ吸いついた。淡い光が走る。
剥がれかけていた古いタグと、新しく貼られたタグが一瞬だけ同期した。二つの低出力術式が橋のようにつながり、歪んでいた書架の側面を現実へ引き戻す。
ユイカの足元に、白い床が戻った。沈みかけていた足が、硬い床を踏む。ユイカは体勢を崩しかけながらも、導杖を支えに踏みとどまった。高く結んだ淡金色の髪が、遅れて大きく揺れる。
「……助かったわ、瀬尾」
短い言葉だった。けれど、リクトはそれだけで膝から崩れそうになった。
「いや……マジで、心臓に悪い……」
荒い息を吐きながら、リクトは振り返る。カイと目が合った。
カイの顔は、ひどく青かった。けれど、その目だけは逸れていない。全員の位置を見て、ログの流れを見て、次の崩壊点を探し続けている。
「おい、カイ」
「なんだ」
「今の、俺、死ぬかと思ったんだけど」
「死なせるかよ」
低い声だった。それは慰めでも、軽口でもなかった。リクトは一瞬、何も言えなくなった。
カイはすぐに視線をナツメへ戻す。
「早見、今ので見えただろ」
「……はい」
ナツメの声は、さっきよりも落ち着いていた。彼女の解析画面には、偽ログの誘導パターンが色分けされ始めている。
ユイカを急がせるログは、必ず隊列基準を失わせる。ハルトの制限を解除させるログは、必ず星素汚染を上げる。リクトを退避させるログは、必ず固定タグの連鎖を断つ。ナツメに全読解を要求するログは、必ず分類処理を破綻させる。
そして、カイの指揮権限を停止しようとするログは、必ず全員へ別々の正解を配り直す。
「討伐へ誘導するログほど、矛盾が多い……」
ナツメは呟いた。
「司書官グリモアへの攻撃、接近、拘束解除、火力集中。どれも一見すると正しい。でも、三つの基準のどれかを必ず壊すようになってる」
「続けろ」
「逆に、攻撃しない選択肢は、ログ上では低評価です。回避、照明、固定、歩調維持、分類。どれも推奨順位が低い。でも実際の盤面では、それが崩壊を防いでいる」
ナツメの目が、わずかに見開かれる。
「つまり……攻撃する選択肢以外が正解……?」
カイは答えなかった。ただ、グリモアを見た。
黒衣の司書官は、巨大な本を抱えたまま、静かに立っている。こちらを殺そうとしているようには見えない。だが、近づく者、騒ぐ者、燃やす者を、容赦なく罠へ誘導する。
敵というより、管理機構。防衛プログラム。図書館のルールそのもの。カイの中で、散らばっていたピースが少しずつ噛み合い始める。
だが、まだ足りない。何を倒すべきかではない。何を直すべきか。そこまで見えなければ、このレイドは終わらない。
「神代くん」
ナツメが言った。
「このレイド、もしかしてボス討伐が目的じゃないんですか」
ユイカが振り返る。
「どういうこと?」
「まだ仮説です。でも、グリモアは攻撃に対して過剰に反応しています。逆に、空間固定や照明、歩調維持のような行動には直接攻撃していない。妨害はしますが、排除ではありません」
ハルトが眉をひそめた。
「じゃあ、俺が撃ったから悪化したってことかよ」
「責めているわけではありません」
「事実だろ」
ハルトは吐き捨てるように言った。だが、その声にはさっきのような反発だけではなかった。悔しさがある。認めたくないが、認めなければ次に進めないという痛みがある。
カイは短く言った。
「ミスった分は、次で取り返せ」
「……簡単に言いやがって」
「難しいから言ってる」
ハルトは小さく笑った。怒ったような、諦めたような、少しだけ吹っ切れたような笑いだった。
「分かったよ。影、出し続ければいいんだろ」
「ああ。火力は最後まで温存しろ。撃つ時が来たら、俺が言う」
「その時は、止めても撃つぞ」
「止める必要がないタイミングで言う」
「……ムカつくくらい偉そうだな、劣等生」
「今さらだろ」
リクトが横から口を挟む。
「いや、カイは昔から偉そうだぞ。やる気ないくせに」
「黙ってタグ貼ってろ」
「はいはい、指揮官様」
リクトは震える手をごまかすように笑い、次のタグを取り出した。
隊列が再び動き始める。ユイカが歩調を刻む。ハルトが影を伸ばす。リクトが書架を固定する。ナツメが偽ログを捨てる。カイが盤面を読む。
螺旋図書館は、なおも偽の通路を増やし続けていた。右へ行けばグリモアへ近づけると表示される。左へ行けば教師の拘束が解けると表示される。奥へ進めば脱出路があると表示される。
だが、もう誰もそのまま信じない。ナツメの分類が、偽ログの意図を剥がしていく。ユイカの歩調が、迷路の中心線を保つ。ハルトの影が、存在しない道を暴く。リクトのタグが、消えかけた現実をつなぎ止める。
そしてカイは、全員の役割が噛み合う音を聞いていた。
ゲームなら、ここで攻略の糸口が見える。だが、現実はリトライできない。その言葉が、胸の奥で小さく疼く。
カイは唇を噛んだ。ここから先は、もっと危なくなる。このレイドの本当の条件に近づくほど、グリモアは確実に抵抗を強める。それでも、もう黙る選択肢はなかった。
司書官グリモアが、また本をめくる。白紙の顔に、新しい文字が浮かんだ。
『閲覧者、隊列再構成』
『偽装誘導、効果低下』
『管理規則、追加』
図書館全体が、ぎしりと軋んだ。
書架の奥。黒い本の波の向こうで、一冊だけ、違う輝きを放つ本が見えた。
ナツメが息を呑む。
「神代くん……あれ、周囲の偽ログと波形が違います」
カイも見ていた。
グリモアの背後ではない。燃やすべき敵でもない。通路の最奥、崩れかけた書架の中央に、まるで置き場所を失ったように、一冊の本が浮かんでいる。
カイは低く呟いた。
「……原本か」
その言葉の意味を、まだ誰も理解していなかった。だが、螺旋図書館は明らかにそれを隠そうとしている。なら、そこに答えがある。
カイは顔を上げた。
「全員、隊列維持。次の目標を変更する」
ユイカが前を向いたまま問う。
「グリモアじゃないのね」
「ああ」
カイは、光る一冊の本を見据えた。
「まずは、あの本まで行く」




