第12話 司書官グリモア
司書官グリモアが、巨大な魔導書をめくった。
その音は紙の擦れる音ではなかった。空間の皮を剥がすような音だった。
ぺらり、と薄い何かがめくれるたびに、視界の奥行きがずれる。床に立っているはずなのに、足の裏が一瞬だけ天井を踏んだような錯覚が走る。遠くにいるはずの教師の息遣いが耳元で聞こえ、すぐ隣にいるリクトの声が何十メートルも先から響く。
「うわ、気持ち悪っ……!」
「喋るな、リクト。舌噛むぞ」
「もう噛みそう!」
「じゃあ噛むな」
「無茶言うな!」
リクトの軽口も、いつもの調子ではなかった。彼の指先は震えている。符式端末を取り出す動きは、さっきより明らかに遅い。
無理もない。背後には何度も偽の出口が開きかけている。ATには相変わらず「非戦闘員退避推奨」の文字がちらついている。そのたびに、リクトの視線がわずかに揺れた。
カイは見逃さない。
「リクト、出口表示は見るな。お前用のログは全部、お前を一人にするためのものだ」
「分かってる……分かってるけど、見えるんだよ」
「なら、見えたら言え。黙って従うな」
「……了解」
リクトは歯を食いしばり、左の書架へ二枚目のタグを貼った。淡い緑の線が走り、歪んでいた通路が一瞬だけ呼吸を止めたように安定する。
「二枚目、貼った!」
「三枚目はまだだ。間隔を詰めると対策される。温存しろ」
「温存って、俺のタグそんなに貴重?」
「今は貴重だ」
リクトが目を丸くする。
「……マジで?」
「マジだ」
「後で録音聞かせて。自信なくなった時に聞く」
「生きて帰ったらな」
「それフラグっぽいからやめろ!」
そのやり取りの間にも、ナツメはログを分類し続けていた。
「白羊院さん用ログ、更新。『前方六メートル、加速突破可能』『単独先行により拘束対象救助率上昇』『現在速度では救助不能』」
「全部、私を走らせる表示ね」
ユイカが低く言った。
彼女の足元では、加速術式が今にも弾けようとしている。身体は前へ出たがっている。教師を助けたい。グリモアに近づきたい。自分なら届くという確信がある。
それが、白羊院ユイカの正しさだった。だが、今はそれを抑える。
「神代」
「半歩だけ前。走るな」
「半歩だけ?」
「足場がついてくるか確認する」
ユイカは苛立ちを飲み込み、言われた通りに半歩進んだ。
直後、彼女の右足が乗るはずだった床が、音もなく消えた。もし全速で踏み込んでいれば、身体ごと虚空へ落ちていた。
「……っ」
ユイカの背筋に冷たいものが走る。ハルトが息を呑んだ。
「今の、ATだと安全表示だったぞ」
「だから罠だ」
カイは即座に言った。
「白羊院向けのログは、白羊院が信じたいものを出す。最速で届ける。自分なら救える。遅れると間に合わない。そういう文面だ」
「……性格が悪いわね」
「図書館に人格を期待するな」
ナビィが元気よく手を上げる。
「はい! この場合、司書官グリモアは人格というより管理機構に近いです! 利用者ごとの閲覧傾向を参照し、最適な破滅推薦を――」
「通販サイトみたいに言うな」
「あなたにおすすめの全滅ルート!」
「うるさい」
カイは短く切り、次にハルトを見た。
「久我、光が落ちてる」
「分かってる!」
ハルトの導杖の先に灯る光が、わずかに揺れていた。原因は出力不足ではない。怒りだ。
ハルトのATには、さっきから別のログが出続けている。
『攻撃機会』
『司書官グリモア、本体露出』
『熱量系術式、命中率七十六パーセント』
『教師拘束解除、熱量干渉により可能』
それは、ハルトにとってあまりにも魅力的な表示だった。
自分が動けば、教師を助けられる。自分の火力があれば、局面を変えられる。照明役などという屈辱的な役割ではなく、戦闘職として、本来の力を示せる。
ハルトの喉が鳴った。
「久我用ログ、増加しています」
ナツメが苦しげに報告する。
「『攻撃機会、命中率八十二パーセント』『本体への熱量術式、有効』『管理フェーズ移行直後、装甲薄弱』……いえ、これは……」
「読まなくていい」
カイは低く言った。
「久我」
「……見えてる」
「なら撃つな」
ハルトの肩が震えた。
「なんでだよ」
「誘導だからだ」
「全部誘導、全部罠。そればっかりだな」
「事実だ」
「じゃあ、いつ攻撃するんだよ!」
声が大きくなった。その瞬間、グリモアの白紙の顔に文字が浮かぶ。
『騒音を確認』
『熱源感情値、上昇』
『整理対象、優先度変更』
カイの目が細くなる。
「声を落とせ」
「落としてられるかよ!」
ハルトは導杖を握り締めた。
「先生が拘束されてる。白羊院は足場を消されかけた。瀬尾は何回も落ちかけてる。早見はログで潰されそうになってる。なのに俺は何だ? 光を当てて影を見ろ? 火力を撃つな? 俺の役割はそんなもんじゃねえ!」
「今はそうだ」
「だから、それがふざけんなって言ってんだよ!」
ハルトの導杖の魔導回路が赤く発光する。熱量系術式の起動準備。周囲の空気が、じわりと歪んだ。
ナツメが叫ぶ。
「久我君、出力が上がっています!」
「久我、止めろ!」
カイの声にも、初めて焦りが混じった。
ハルトはそれを聞いて、さらに表情を歪めた。
「劣等生が、俺の火力に指図するな」
その言葉は、ただの罵倒ではなかった。ハルトの中に積もっていたものが、そこにあった。
名門ではない。特別な星紋もない。だから努力した。実技で結果を出した。火力で認めさせた。Bクラスまで上がった。上位陣に食らいついた。
それなのに今、何も撃てないEクラスの神代カイが、自分の火力を封じている。戦場の真ん中で、ハルトの価値そのものを否定するように。
「本体を焼けば終わる」
ハルトのATに、新たな表示が重なる。
『攻撃機会』
『命中率八十二パーセント』
『今なら本体へ熱量術式が通る』
『拘束対象救助可能』
『推奨:即時攻撃』
グリモアは、奥に立っていた。黒衣の司書。巨大な本を抱えたまま、白紙の顔をこちらへ向けている。
その姿は確かに、今までより近い。通路の歪みが一瞬だけ開き、攻撃線が通っているように見える。導杖の照準補助も、ハルトのAT上では緑に変わっていた。
撃てる。当たる。救える。
そう見える。
「ハルト!」
ユイカが叫んだ。
「待ちなさい!」
「待ってたら全部後手だろ!」
ハルトの導杖に赤い術式紋が重なる。熱が集まる。書架の紙片が震え、焦げた匂いが立ち上がった。
カイは一歩踏み出した。
「久我、それが一番ダメなやつだ。撃つな!」
「黙れ!」
「黙らない」
カイの声が鋭くなった。
「お前の火力が弱いなんて言ってない」
ハルトの指が、止まった。ほんの一瞬。
「何……?」
「お前の火力が邪魔だとも言ってない。使えないとも言ってない」
カイはハルトを見ていた。初めて、盤面の一部としてではなく、久我ハルトという一人の魔法師を正面から見ていた。
「強いから、敵の誘導対象にされてるんだよ」
ハルトの目が見開かれる。
「強い、から……?」
「そうだ。グリモアは弱い奴を狙ってるんじゃない。強い奴の正しさを使って盤面を壊しに来てる」
カイは早口で続けた。
「白羊院は速い。だから単独で走らせる。早見は読める。だから全部読ませて潰す。リクトは怖がってる。だから出口を見せて孤立させる」
そして、ハルトの導杖を指差した。
「お前は撃てる。だから撃たせようとしてる」
ハルトは何も言えなかった。導杖の先に集まった熱が、赤く脈打っている。ATのログは、なおも攻撃を推奨し続けている。
『攻撃機会』
『攻撃機会』
『攻撃機会』
『救助可能』
『命中率八十二パーセント』
『推奨:即時攻撃』
救助。命中。攻撃機会。
その言葉は、ハルトの胸の奥を焼いた。
「俺は……」
「久我、光に戻せ」
「……っ」
「今のお前が撃ったら、敵に当てるんじゃない。図書館のルールに従うことになる」
カイの声は冷たい。けれど、そこに侮辱はなかった。
ハルトにも、それは分かってしまった。分かってしまったからこそ、余計に苦しい。自分の武器が、自分の誇りが、敵に利用されている。
その事実を認めるのは、負けを認めるよりも屈辱的だった。
グリモアが、また一枚ページをめくる。
ぺらり。
その瞬間、拘束された教師の身体がびくりと跳ねた。黒い栞のような文字列が教師の腕に食い込み、苦悶の声が漏れる。
「先生!」
ハルトの目がそちらへ吸い寄せられる。ATが即座に表示を更新した。
『拘束対象、負荷上昇』
『熱量干渉により解除可能』
『遅延による損傷リスク増大』
『推奨:即時攻撃』
カイの顔色が変わる。
「違う、それも見せ札だ。久我、見るな!」
「でも先生が!」
「見せられてるんだ!」
ハルトの呼吸が荒くなる。導杖の熱が膨れ上がる。ユイカが前へ出ようとするが、カイが手で制した。
「白羊院、動くな! お前が止めに入ると足場が崩れる!」
「でも!」
「動くな!」
ユイカは歯を食いしばって止まった。
リクトが青ざめる。
「カイ、やばいぞ。久我の足元、文字が集まってる」
「分かってる」
黒い文字列が、ハルトの足元へ集まっていた。まるで、彼の影を濃くするように。ハルトの怒り。焦り。屈辱。救いたいという衝動。その全部が、グリモアのページに書き込まれていく。
『熱源、応答』
『正義感、確認』
『役割固執、確認』
『推奨行動への適合率、上昇』
ナツメが震える声で言った。
「神代君……久我君用ログだけ、明らかに文体が変わっています」
「どう変わった」
「命令形に近いです。支援ではなく、直接行動を促している」
「ヘイトが乗った」
「ヘイト?」
「グリモアの注目が久我に移った。強い反応を返したからだ」
カイは奥歯を噛む。
状況は悪い。今、ハルトを力ずくで止められる者はいない。ユイカが動けば罠が発動する。リクトのタグは距離が足りない。ナツメは干渉できるほどの余裕がない。カイ自身に、ハルトの導杖を止める力はない。
言葉だけで止めるしかない。
それが一番苦手なのに。
「久我」
「……」
「お前が撃ちたいのは分かる」
「分かるわけねえだろ」
「分かる」
カイは即答した。その声に、ハルトがわずかに反応する。
「分かるよ。自分ができることを封じられるのが、どれだけきついかくらい」
「お前に何が分かる」
「何もできない奴に見られるのが、腹立つことも」
ハルトの表情が止まった。
カイは続ける。
「でも今、お前が撃ったら、グリモアはお前の火力を記録する。次から、その火力を前提に盤面を書き換えてくる」
「……」
「お前の一発で終わるなら撃て。でも終わらない。こいつは倒す相手じゃない。少なくとも、今はまだ」
司書官グリモアが静かに本を抱え直す。
その白紙の顔に、文字が浮かんだ。
『攻撃意思、未確定』
『追加提示』
次の瞬間、ハルトのATに新しい映像が表示された。
それは、拘束された教師の腕が砕ける予測映像だった。時間表示。残り十秒。
『拘束対象、損傷予測』
『十』
『九』
「っ!」
ハルトの顔から血の気が引く。
カイが叫んだ。
「予測映像を見るな! それは未来じゃない、脅迫だ!」
『八』
「久我君!」
ナツメの声が震える。
『七』
ハルトの導杖が上がる。
カイは全身が冷たくなるのを感じた。
まただ。
誰かを危険に置く。誰かに「撃つな」と命じる。それで失敗したら、教師が傷つくかもしれない。ハルトは自分を責めるかもしれない。ユイカも、ナツメも、リクトも、カイを責めるかもしれない。
いや、責められるだけならいい。
現実はリトライできない。
判断を間違えれば、取り返しがつかない。
『六』
兄の声が、耳の奥で蘇る。
カイはそれを噛み殺した。
「久我!」
『五』
「撃つな」
ハルトの目が揺れる。
「……俺が撃たなかったせいで、先生に何かあったら」
「その時は俺の責任だ」
リクトが息を呑む。ユイカが振り返る。ナツメの手が止まる。
カイは、はっきりと言った。
「今の指示は俺が出してる。だから、撃たなかった結果は俺が背負う」
「軽々しく言うな!」
「軽くない」
カイの声が低く沈む。
「軽いわけ、あるかよ」
ハルトは言葉を失った。
カイの顔は、いつもの無気力な劣等生のものではなかった。眠そうでも、投げやりでもない。ひどく嫌そうで、苦しそうで、それでも逃げ場を自分で潰している顔だった。
指揮者の顔。
自分の判断で他人を危険に送る人間の顔。
『四』
ハルトの腕が震える。導杖の熱が暴れる。
撃て。撃つな。救え。従うな。
ログが視界を埋める。
『三』
グリモアの白紙の顔に、細い文字が浮かぶ。
『熱源、確定』
カイの瞳孔がわずかに開いた。
「久我、導杖を下げろ! もう照準補助に入られてる!」
『二』
ハルトは動けなかった。下げようとしている。けれど、導杖の補助層が、勝手に照準を吸い上げている。ATの緑のロック表示が、グリモアの胸元へ吸い付く。
「くそっ……!」
『一』
カイが叫んだ。
「お前の火力は強い! だから今は、敵に使わせるな!」
ハルトの目が大きく見開かれた。
その言葉が届いたのか。それとも、遅かったのか。
導杖の先端が白く灼けた。
熱量術式が、解放された。




