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姉の方を所望していたと言った婚約者に、突然連れ帰られて気づいたら溺愛されています  作者: もちもちほっぺ


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8

リリアーナは体を固めた。


足音は近づいてきた。台所の扉の前で止まった。

扉が開いた。


イザベラだった。

寝る前の格好をしていた。髪を下ろして、寝間着の上に薄い羽織をかけて、手に燭台を持っていた。台所に入ってきて、リリアーナを見つけて、目を細めた。


「やっぱりここにいた」


リリアーナは鍋の前にしゃがんだまま、動けなかった。


「部屋に行ったら誰もいないんだもの。どこへ行ったのかと思って」


イザベラは台所を見渡した。


「何をしているの、こんな夜中に」


リリアーナは答えなかった。

イザベラの視線が、鍋へ向かった。


ことこと、と鍋が鳴った。甘い匂いが台所に満ちていた。イザベラが鼻をひくひくさせた。


「……何、その匂い」


「樹液を、煮詰めていました」


「樹液?」


イザベラが眉をひそめた。


「木の?」


「楓の木の樹液です。煮詰めると甘くなるんです」


イザベラは少しの間、鍋を見ていた。それからリリアーナを見た。また鍋を見た。


「虫が舐めるものでしょ……なんで」


「甘いものが食べたかったので」


沈黙が落ちた。

イザベラは何か言おうとして、口を開けたまま止まった。言葉が出てこないようだった。


ことこと、と鍋が鳴った。

リリアーナは木べらでそっとすくって、指先に垂らした。糸を引いた。今度こそできた。鍋を火から下ろして、木べらについた飴色の雫を、ぺろりと舐めた。


甘かった。


濃くて、丸くて、どこか木の香りがする甘さだった。

思わず、もう一度舐めた。


「………」


イザベラが、声を失っていた。

リリアーナは顔を上げた。イザベラが自分を見ていることに気づいて、木べらを持ったまま固まった。


イザベラの顔に、複雑な表情が浮かんでいた。

絶句と失笑が、顔の上でせめぎ合っているような表情だった


「……あなた、今、木べらを」


「はい」


「舐めた」


「はい」


「夜中に台所で、一人で、木の樹液を煮詰めて、木べらを」


「はい」


イザベラは口元を手で押さえた。

笑いをこらえているのか、引いているのか、自分でもわからないような顔をしていた。肩が、かすかに震えていた。


「……あなたって」


イザベラはしばらくしてから言った。


「本当に、何なの」


リリアーナは答えなかった。


「侯爵家の令嬢が、夜中に台所で木の樹液を煮詰めて、木べらをぺろぺろして」


イザベラは続けた。声に笑いが混じり始めていた。


「みっともない。みっともないにもほどがある。お父様が見たら卒倒するわよ」


「見ていないので大丈夫です」


「大丈夫じゃないわよ!」


イザベラが笑った。

意地悪な笑いだった。腹の底から可笑しくて仕方ないという笑いではなく、どこか毒気を抜かれたような、それでも笑わずにいられないような、奇妙な笑いだった。


「あなたって本当に、何を考えているのかわからない」


リリアーナは木べらを置いて、鍋の中の飴色をそっと小さな陶器の器に移し始めた。


「美味しいんです」と、静かに言った。


「木の樹液が?」


「はい。甘くて、どこか木の香りがして」


「…………」


イザベラはしばらくリリアーナを見ていた。

何かを言おうとして、また止まった。

いじめに来たはずなのに、言葉が見つからないようだった。器に移された飴色の塊が、燭台の灯りを受けてつやつやと光っていた。


「……一口、頂戴」


リリアーナは顔を上げた。

イザベラが、自分でも驚いたような顔をしていた。言うつもりではなかったが、口から出てしまったという顔だ。


リリアーナは少し考えて、木べらの先に飴色をほんの少しすくって、差し出した。


イザベラは躊躇いながら、舐めた。

一瞬、目が丸くなった。


「……甘い」


「はい」


「本当に甘い」


「はい」


イザベラはしばらく黙っていた。それから「みっともないことに変わりはないわ」と言って、踵を返した。


扉が閉まった。

廊下を遠ざかる足音が、途中で少し速くなった。

リリアーナは一人残されて、器を見た。


飴色の塊が、静かに光っていた。

人差し指の先ですくって、口に入れた。

甘かった。


老婆のようだ、という言葉が、また浮かんだ。でも甘さが口の中にある間は、少しだけ、遠かった。


リリアーナは器に蓋をして、外套のポケットにしまった。


台所を片付けて、火を消して、地下室へ戻った。

寝台に横になり目を閉じた。

甘い余韻が、まだ舌の上にあった。


それだけを感じながら、リリアーナはゆっくりと眠りについた。

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