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夜になった。
屋敷の明かりが少しずつ消えていった。
食堂の灯りが消えた。廊下の灯りが消えた。使用人たちが自室へ引き上げる足音が、地下室の天井越しに聞こえて、やがて静かになった。
リリアーナは寝台の上で、暗い天井を見ていた。
今日の夕食は、来なかった。
婚約の件があったからか、イザベラが来なかった。来なかったから食べかけの皿も来なかった。朝から何も食べていないまま、夜になった。
胃が、静かに収縮した。
老婆のようだ、という言葉が、また頭の中に浮かんだ。
沈めたはずなのに、夜になると浮いてくる。
昼間は動いていれば紛れた。玉ねぎを剥いて、廊下を拭いて、薪を割っていれば、考えずに済んだ。
でも夜は静かで、体も動かなくて、沈めたものが浮いてくる。
リリアーナはしばらく天井を見ていた。
それから、静かに起き上がった。
月が出ていた。雲のない夜で、庭が青白く照らされていた。使用人の姿はない。父母の寝室の灯りも、もう消えている。
リリアーナは古い外套を羽織って、地下室の小さな扉から外へ出た。
夜の空気は冷たかった。
春とはいえ、夜はまだ冷える。足元の土が、靴の下でぱさりとした感触を返した。乾いた土の匂いがした。
庭を抜けて、屋敷の裏手へ回った。
裏手には低木の茂みが続いており、その先に古い石壁がある。
石壁の一箇所だけ、石が一つ欠けて隙間ができているところがある。子供の頃から知っていた隙間で、リリアーナの細い体ならすり抜けられた。
森に入ると、月明かりが木々の間から差し込んで、足元をまだらに照らした。
目当ての楓の木は、すぐそこにあった。
幹に小さな傷をつけて、割れた木の皮を樋代わりにして、したたる樹液を受けるように仕掛けてあった。
三日前に仕込んだものだ。小瓶が二本、幹の根元に置いてあった。
リリアーナはしゃがんで、小瓶を確認した。
一本目は半分ほど溜まっていた。二本目はほぼいっぱいだった。透明な、ほんのり琥珀色がかった液体が、月明かりを受けてきらりと光った。
よかった、とリリアーナは思った。
小瓶をそっと取り上げて、外套のポケットに入れた。新しい小瓶を二本、懐から出して幹の根元に置いた。また三日後に来れば、溜まっているだろう。
立ち上がりながら、リリアーナは楓の木を見上げた。
葉が出始めていた。春の若い葉が、月明かりの中で薄く透けていた。
この木だけは、毎年ちゃんと葉を出す。
国中の土地が痩せていっても、この楓だけは変わらずに樹液を出してくれた。理由はわからない。ただ、ありがたかった。
地下室に戻ったリリアーナは、台所への廊下を確認した。
深夜だ。料理人も使用人も、もう誰もいない。
台所の扉を静かに開けた。
暗い台所に入って、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、燭台に火を一本だけ灯した。小さな鍋を火にかけた。火は小さく、音が出ないように気をつけた。
小瓶の樹液を鍋に注いだ。
しばらく待つ。
ことこと、ことこと。
鍋の中で樹液が静かに煮え始めた。甘い匂いがした。濃くなっていく甘さが、台所の空気にじわじわと広がっていく。
リリアーナは鍋の前にしゃがんで、その匂いを吸い込んだ。
お腹が鳴った。
でも今は、まだ駄目だ。もう少し煮詰めないと、とろみが出ない。
ことこと、ことこと。
時間がかかった。液体が少しずつ減っていく。透明から、淡い琥珀へ。淡い琥珀から、深い飴色へ。鍋の縁にとろみがまとわりつき始めるまで、随分と待った。
リリアーナは鍋を見つめながら、今日のことを考えた。
老婆のようだ、という言葉。
本来であれば姉の方を、という言葉。
静かな部屋に筒抜けになった、あの気まずい沈黙。
父の咳払い。母の窓の外への視線。イザベラの扇で隠した笑い。
全部、胃の底に沈めようとしていたのに、今夜はうまく沈まなかった。
甘い匂いが、また鼻をくすぐった。
木べらで少しすくって、指先で触れた。糸を引いた。
もう少し、だ。
その時、廊下から足音がした。




