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老婆。
その言葉が、頭の中に落ちた。
静かに、でも確かに、落ちた。
父がまた咳払いをした。今度は少し強く。クライドが気づいたのか、侍従への耳打ちをやめた。
室内に、気まずい沈黙が漂った。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
リリアーナは床を見たままだった。顔を上げられなかった。顔を上げたら、誰かと目が合う。父かもしれないし、母かもしれないし、クライドかもしれない。どれも、今は無理だった。
「……その点については」
父が、絞り出すような声で言った。
「今後、努力させます」
努力。
何を努力するのか、具体的には言わなかった。言えなかったのだろうと思う。リリアーナも、聞かなかった。
「婚約の再考をお願いしたい」
クライドの声は、今度は普通の音量だった。父に向かって、はっきりと言った。
「この縁談については、再検討の余地があるかと思われます」
父が「契約上、難しい状況でして」と答えた。
母が窓の外を見続けていた。
イザベラが扇で口元を隠して、小さく笑った。笑い声は立てなかったが、目が笑っていた。
リリアーナは床を見ていた。
二人の会話は続いたが、もうほとんど耳に届いていなかった。老婆、という言葉が、頭の中でゆっくりと回り続けていた。
老婆のようだ。
遠目に見ると、老婆のようだ。
そうだろうと思った。
鏡を見るたびに思っていた。でも自分で思うのと、他人に言われるのは、少し違った。
自分で思う時は、どうにもならないという諦めがあった。
他人に言われる時は、その諦めがすとんと胃の底に落ちる感覚があった。
応接室を出る時、クライドとすれ違った。
クライドはリリアーナを見なかった。
リリアーナも、クライドを見なかった。
廊下へ出ると、イザベラが並んできた。わざわざ並びに来たのだ。リリアーナにはわかった。
「ねえ、聞こえてたでしょ」
「……はい」
「私の方がよかったんですって」
イザベラは囁いた。
「みじめねえ、リリアーナ。老婆みたいって」
リリアーナは何も言わなかった。
「まあ、私は王子殿下とご縁をいただく予定だから、あんな軍人はいらないけれど」
イザベラは続けた。
「公爵家の嫡男でも、所詮は軍人よ。王子殿下とは格が違うわ。あなたにはちょうどいいんじゃないかしら、あの程度で」
廊下の角を曲がって、イザベラの足音が遠ざかった。
リリアーナは廊下に一人残された。
窓の外、侯爵家の庭が見えた。
乾いた土。咲かない花壇。枯れかけた草。庭師が今日もしゃがんで土をほぐしていたが、土はぱさぱさとこぼれ落ちるばかりだった。
老婆のようだ、という言葉が、まだ頭の中にあった。
本来であれば、姉の方を所望していた、という言葉も。
知っていた。
自分でも知っていたことだから、驚きはなかった。驚きはなかったはずなのに、それでも胃の底が少し冷えた。
他人の口から言われると、知っていたことが改めて事実になる感覚があった。知っていた霧が、言葉によって形を持つような。
腹が、鳴った。
今日は朝から何も食べていない。
リリアーナは窓から目を離して、地下への階段を降りていった。
降りながら、今夜の食事が来るかどうかを考えた。
来るかもしれない。来ないかもしれない。
それだけを考えた。
老婆のようだという言葉は、階段を降りるうちに、胃の底のじくじくした感覚の中に沈んでいった。
他の言葉たちと一緒に。イザベラの「みじめねえ」と一緒に。母親の「首輪はついているわね」と一緒に。
全部、沈んでいった。
慣れている、とリリアーナは思った。
慣れていた。
地下室の扉を開けると、薄暗い部屋があった。古びた寝台と、ぐらつく机。
部屋の中を、小さなアリが歩いていた。
どこかへ向かって、まっすぐに、迷いなく。
リリアーナはそれをしばらく眺めて、それから寝台の端に腰かけた。
背筋を伸ばして。
膝の上に手を置いて。
静かに、夜を待った。




