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侯爵夫人が膝の上の手を、きつく握った。
イザベラが壁に背をもたせかけたまま、動かなかった。
「以上が、十年以上にわたって行われていた事実だ」
クライドは言った。
「これが貴族のすることか」
侯爵が「娘が怖かった」と言った。
「虫が集まってくる、普通ではない子が——」
「怖かった」
クライドは遮った。
「その恐怖を、十年以上、子供への暴力で解消し続けた。その結果、国民を十数年飢えさせた。それが侯爵家の当主のすることか」
侯爵は黙った。
夫人が顔を上げた。
リリアーナを見た。
「……リリアーナ」
夫人の声は、震えていた。
「あなたが怖かったの。ごめんなさい。怖くて、遠ざけて、それで……ごめんなさい」
応接室に、静かな時間が流れた。
リリアーナは母親を見た。
震えている母親を。膝の上に手を置いて、視線を自分に向けている母親を。
廊下ですれ違うたびに、首輪だけを確認していた母親を。
リリアーナは少しの間、黙っていた。
それから、静かに言った。
「……もう、関係ないわ」
激しく怒るわけでもなかった。
泣くわけでもなかった。
ただ静かに、背を向けた。
夫人が何か言おうとして、口を開けたまま止まった。
侯爵が視線を落とした。
クライドはリリアーナの隣に立ったまま、黙っていた。
「イザベラ・ベルテについて」
ルシアンが続けた。
イザベラが顔を上げた。
「公爵邸へのスパイの派遣、およびリリアーナ・ベルテへの長年の虐待について、確認する」
「……虐待なんて」
イザベラは言った。
「そんな大げさな」
「食事を床に落として踏んだ。食べかけを持参して食べさせた。それを見ながら笑った」
ルシアンは静かに言った。
「大げさではない」
イザベラは黙った。
「封印については、知らなかったことは確認されている。しかしスパイの派遣は本人の行為だ」
イザベラはリリアーナを見た。
リリアーナはイザベラを見ていた。
怒っているわけではなかった。責めているわけでもなかった。ただ静かに、見ていた。
イザベラは視線を逸らした。
「……わかったわよ」
イザベラは言った。
「謝ればいいんでしょう」
リリアーナは何も言わなかった。
イザベラはしばらく、リリアーナを見ていた。
謝ろうとして、言葉が出てこないようだった。
「……私は」
イザベラはゆっくりと言った。
「あなたが、そんなに辛かったなんて、思っていなかった」
「知っています」
リリアーナは静かに答えた。
「思っていなかったけど」
イザベラは続けた。
「それで、よかったと思っているわけじゃ——」
「知っています」
言葉を詰まらせたイザベラに、リリアーナはまた言った。
イザベラは黙った。
リリアーナはイザベラを見たまま、それ以上何も言わなかった。
言わなかったが、その目は怒っていなかった。
それがイザベラには、怒られるよりも、何倍も、重かった。
断罪の結果として、ベルテ侯爵家への処分が言い渡された。
侯爵位の剥奪。財産の一部没収。社交界からの追放。国への賠償責任。
神殿の術師には、封印術を施した責任として免職と罰金が言い渡された。
イザベラへの法的な処分はなかった。
しかし社交界での立場は、自らの醜態によってすでに失われていた。王子妃の夢も、美への自信も、社交界での信用も、全部、自分の手で壊した。
応接室を出た廊下で、リリアーナは立ち止まった。
屋敷を見渡した。
地下への階段があった。使用人が行き交う廊下があった。薪割り場へ続く裏口があった。
全部、知っている場所だった。
「……行くか」
クライドが隣で言った。
リリアーナは頷いた。
「はい」
二人で玄関へ向かった。
廊下を歩きながら、リリアーナは一度だけ振り返った。
地下への階段を、一度だけ見た。
それから、また前を向いた。
玄関の扉が開いた。
春の光が、差し込んできた。
外は明るかった。
リリアーナは一歩、踏み出した。
馬車に乗った。
扉が閉まって、馬車が動き出した。
石畳を進む音が続いた。
リリアーナは窓の外を見ていた。
ベルテ侯爵家が、遠くなっていった。
地下室が、遠くなっていった。
玉ねぎの山が、廊下の雑巾がけが、薪割りが、遠くなっていった。
「……リリアーナ」
「はい」
「よくやった」
リリアーナは窓の外を見たまま、少しの間、黙っていた。
それから、かすかに笑った。
「クライド様」
「なんだ」
「帰ったら、庭に虫を探しに行っていいですか」
クライドは少しの間、リリアーナを見た。
それから「ああ」と言った。
「一緒に行く」
リリアーナが、また笑った。
今度は、もっと嬉しそうに。
馬車が石畳を進む音が続いた。
春の光が、窓から差し込んでいた。




