31
ベルテ侯爵夫人マリアンヌは、その日のことを今でも夢に見る。
十数年前のことだ。
それなのに、まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。
あの日の光の色。部屋の空気の匂い。そして、あの光景。
リリアーナが生まれた時、マリアンヌは確かに愛していた。
イザベラを産んだ時と同じように、この小さな命を愛おしいと思った。柔らかい頬に触れて、小さな手を握って、この子も大切に育てようと思った。
でも、イザベラはよく笑った。よく泣いた。気に入らないことがあれば声を上げて主張した。抱き上げれば全身で喜んで、離れれば泣いて引き止めた。
リリアーナは、静かだった。
泣きはするが、すぐに止まった。抱き上げれば大人しくなって、離れても泣かなかった。主張しなかった。要求しなかった。
手がかからない子だった。
手がかからない子は、つい後回しになる。
イザベラが笑えば笑い返して、イザベラが泣けば抱き上げて、イザベラが何かを欲しがれば与えた。それを繰り返しているうちに、気づけばマリアンヌの一日はイザベラを中心に回っていた。
リリアーナの世話は、使用人に任せるようになった。
最初は少しの間だけのつもりだった。
でも少しの間が、少しずつ長くなっていった。
あの日も、マリアンヌはイザベラと過ごしていた。
リリアーナは乳母に任せていた。
昼過ぎに乳母が青い顔で飛んできた。
「奥様、大変です、リリアーナお嬢様が」
マリアンヌが乳母の後について部屋に入った瞬間、足が止まった。
リリアーナが床に座っていた。
笑っていた。
声を上げて、全身で笑っていた。それまで見たことのない顔で。
そしてリリアーナの周りに、虫がいた。
無数の虫が。
床を這うアリが、リリアーナの周りに円を描くように集まっていた。ハチが数匹、ゆっくりと空中を漂っていた。カナブンがリリアーナの小さな手の上に乗っていた。
蝶々が羽をひらひらさせながら、まるであやすように、リリアーナの周りを舞っていた。
リリアーナはそれが嬉しくて仕方ないという顔で、笑い続けていた。
マリアンヌは悲鳴を上げた。
乳母が「どこから入ったのか」と部屋中を確認した。でも窓も扉も閉まっていた。虫が入れる隙間はどこにもなかった。
なのに虫がいた。
リリアーナの周りだけに。
それから、始まった。
マリアンヌの化粧台の引き出しを開けると、中にアリが群れていた。
浴槽に湯を張ると、どこからともなく多量の虫が浮いていた。
朝のティーポットを持ち上げると、取っ手の裏に小さな虫がついていた。
寝室の窓を開けると、大きな蛾が一匹、ひらひらと入ってきた。
屋敷内は、常に清掃されている。
なのにいた。
いつも、リリアーナの近くに。
マリアンヌは怖かった。
この子は何かがおかしい。普通の子供じゃない。自分の娘なのに、この子が何なのかわからない。
夫に相談した。夫も怖がった。
神殿に相談した。神官が「これは精霊の加護かもしれない」と言った。
「精霊の愛し子は、稀に生まれることがある。自然の恵みを媒介する特別な存在だ」と。
でもマリアンヌには、特別な存在という言葉より、自分の引き出しの中の虫の群れの方が現実だった。
怖かった。
ただ、怖かった。
封印の首輪を作ったのは、神殿の術師だった。
「これをつけていれば、力を抑えることができます。完全には消せませんが、日常の生活に支障が出ない程度には」
マリアンヌはリリアーナの首に、その首輪をつけた。
リリアーナは不思議そうな顔で、首輪を触った。
「外してはだめよ」
マリアンヌは言った。
「絶対に、外してはだめ」
首輪をつけてから、虫が減った。
引き出しの中にアリが群れることもなくなった。浴槽に虫が浮くこともなくなった。ティーポットの取っ手に虫がつくこともなくなった。
マリアンヌは安堵した。
これでいい、と思った。
でも。
安堵した後から、少しずつ、別の何かが積み上がっていった。
リリアーナを見るたびに、あの光景を思い出した。虫に囲まれて笑っていた顔を。
その顔を見るのが、怖かった。
だから見なくなった。
顔を見なければ、大丈夫だった。首輪さえついていれば、大丈夫だった。
使用人に世話を任せた。食事を任せた。教育を任せた。
リリアーナが何をしているか、どこにいるか、何を食べているか、考えないようにした。考えると、あの光景を思い出すから。
首輪だけを確認した。
毎日、廊下ですれ違うたびに、首輪を確認した。
ついているわね。外してはだめよ。
それだけ言えば、大丈夫だった。
自分に言い聞かせるように。
毎日、毎日。
十数年が経った。
リリアーナが公爵邸に連れて行かれた。
マリアンヌはその話を聞いた時、一番最初に思ったことがあった。
首輪は、ついているだろうか。
娘が連れて行かれたのに、娘のことより、首輪のことを考えた。
その夜、マリアンヌは一人で寝室に座って、長い間、暗い窓の外を見ていた。
窓の外に、蝶々はいなかった。
リリアーナがいなくなってから、蝶々も来なくなった。
マリアンヌはそのことに気づいて、しばらく動けなかった。
愛していたはずだった。
最初は、確かに。
でもあの光景が怖くて、怖くて、遠ざけているうちに、いつの間にか十数年が経っていた。
蝶々が来なくなった窓を見ながら、マリアンヌは膝の上に手を置いた。
首輪は、ついているだろうか。
また、そのことを考えていた。




