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姉の方を所望していたと言った婚約者に、突然連れ帰られて気づいたら溺愛されています  作者: もちもちほっぺ


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書斎に、静かな時間が流れた。


ルシアンが母親から直接聞き取った内容を読み終えて、クライドは書類をテーブルに置いた。


ルシアンも黙っていた。

暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。


二人同時に、深くため息をついた。

しばらく、どちらも何も言わなかった。


「……蝶々が来なくなった、か」


ルシアンがぽつりと言った。


「ああ」


「リリアーナ嬢がいなくなってから」


「ああ」


またため息をついた。


「怖かったのはわかる」


ルシアンは続けた。


「わかるが」


「わかるが、それでは済まない」


クライドは静かに言った。


「十数年だ」


「ああ」


「蝶々があやしに来ていた娘を、怖いからと遠ざけて、十数年」


ルシアンは何も言わなかった。

クライドは書類を見た。


食事の記録。居住環境の記録。使用人の証言。母親の聞き取り。

全部が、静かに積み上がっていた。


「愛していたと、母親は言っているか」


「最初は、と言っていた」ルシアンは答えた。


「最初は確かに、と」


「最初は」


クライドは繰り返した。


また沈黙が落ちた。

暖炉の火が揺れた。


クライドは窓の外を見た。

庭が見えた。

リリアーナはもう部屋に戻っていた。庭には誰もいなかった。


「……虫に囲まれて笑っていた赤子が」


クライドは静かに言った。


「十数年後に、地下室で飢えて、床のアリを食べていた」


ルシアンがまたため息をついた。


「やめろ、余計に」


「やめられるか」


「……そうだな」


二人はしばらく、黙って暖炉の火を見ていた。


クライドが書類をまとめて、静かに閉じた。


「首輪の調査、明日リリアーナに話す」


「ああ」


ルシアンは頷いた。


「早くしてやれ」


クライドは立ち上がった。

書斎の扉に向かいながら、一度だけ立ち止まった。


「ルシアン」


「なんだ」


「母親の話は、リリアーナには言わなくていい」


ルシアンは少しの間、クライドを見た。


「……なぜ」


「あの娘が、どう思うか」


ルシアンは黙った。

母親が加護に気づいていたと知ったら。気づいていて、それでも遠ざけていたと知ったら。

リリアーナがどう思うか。


「……わかった」


ルシアンは静かに言った。


「言わない」


クライドは扉を開けた。

廊下に出た。

扉を閉めた。

廊下は静かだった。


クライドはしばらく、その場に立っていた。


虫に囲まれて笑っていた赤子。


蝶々があやしに来ていた子供。


床のアリを食べていた少女。


踏まれたパンに礼を言った少女。


老婆のようだと言われた少女。


全部、同じ一人の娘だった。







今度の夜会は、大きな会場だった。

シャンデリアが三つ並んで、広間を明るく照らしていた。

正装した貴族たちが行き交い、楽団が軽やかな曲を奏でていた。テーブルには料理が並び、ワインの色が灯りを受けて宝石のように輝いていた。


クライドはリリアーナの隣に立っていた。

堂々と、会場の中心で。


リリアーナが少し緊張した様子で、前を向いていた。


「緊張しているか」


「少し」


「必要ない」


「でも皆さんが見ています」


「見せればいい」


クライドは静かに言った。


「お前は何もおかしくない」


リリアーナは少し驚いたように、クライドを見た。

クライドは前を向いたまま、それ以上何も言わなかった。




しばらくして、会場の向こうにイザベラを見つけた。


薄紫のドレスを着て、髪を高く結い上げていた。今夜も美しかった。そして今夜も、目が王子を追っていた。


ルシアンは会場の中央にいた。


いつも通り、太陽のような笑顔で、周囲の令嬢たちに等しく微笑んでいた。誰か一人に肩入れするでもなく、誰かを遠ざけるでもなく。

イザベラはその輪に近づいた。


扇を揺らして、笑顔を作って、自然に輪の中に入っていった。ルシアンが気づいて、他の令嬢たちと同じように微笑んだ。


イザベラが何か言った。ルシアンが答えた。また何か言った。またルシアンが答えた。


クライドはそれを、少し離れた位置から眺めていた。


「……肝の座った娘だ」


リリアーナが「え?」という顔でクライドを見た。


「イザベラ・ベルテのことだ」


クライドは続けた。


「あの家には今、国からの調査が入っている。それを知っているかどうかはわからないが、知っていたとすれば、こういう場で平然と王子殿下にアプローチできるのは、相当肝が据わっていないとできない」


リリアーナはイザベラを見た。


「……お姉様はそういう方です」


「そうだな」


「昔から、やると決めたことは必ずやる人で」


「それは美点だ」


クライドは静かに言った。


「使う方向が、少し残念だったが」


リリアーナは何も言わなかった。


イザベラがルシアンに何か言って、笑った。ルシアンも笑った。でもルシアンの笑いは、誰に向けても同じ笑いだった。特別な色は、そこにはなかった。




会場の端の方で、ひそひそと声がした。


距離はあった。でも会場が少し静かになった瞬間に、言葉の断片が聞こえた。


「……アルスター様が……姉君の方を……」


「……老婆のよう……ご本人が……」


それだけだった。

すぐにまた音楽が大きくなって、ひそひそ声はかき消された。


クライドは前を向いたまま、その声を聞いていた。

リリアーナも聞こえたはずだった。


でもリリアーナは何も言わなかった。

前を向いていた。穏やかな顔で、静かに、前を向いていた。


クライドはリリアーナを横目で見た。

慣れた顔で、自然に、まるで何も聞こえなかったかのようにしていた。


クライドは前を向いた。

胃の底に、じくじくとした何かが積み上がった。


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