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朝、廊下で母親とすれ違った。
「お母様、おはようございます」
リリアーナが頭を下げると、母親の足が少し止まった。
リリアーナは顔を上げた。
母親と目が合うかと思ったが、合わなかった。母親の視線はリリアーナの顔を素通りして、首元へ向かった。革紐を見た。石を確認した。
小さく、息をついた。
安堵の息だと、リリアーナにはわかっていた。自分の顔を見てではなく、首輪を確認して安堵している。
「……首輪はついているわね」
「はい」
「外してはだめよ」
「……はい」
母親は、それだけ言って歩き出した。
リリアーナはその背中を見送った。
今日も、目が合わなかった。
母親がリリアーナに話しかける言葉は、ほとんどいつもこれだ。
「首輪はついているわね」「外してはだめよ」。
それ以外の言葉をもらった記憶が、リリアーナにはほとんどない。怒鳴られた記憶も、褒められた記憶も、名前を呼ばれた記憶も、ない。
抱きしめられたことが、あっただろうか。あったような気がするが、それがいつのことだったか、もう思い出せない。
ただただ、確認される。
首輪が、そこにあるかどうかだけを。
使用人に対しても同じだった。リリアーナが入浴した後には侍女が必ず「奥様のご確認です」と言いながら革紐をつけ直しにきた。
食事を運んでくる使用人が、ふいに「首輪、ついてますか」と確認することもあった。まるでそれが仕事の一つに組み込まれているかのように、自然に、当たり前に。
母親の指示なのだろうと、リリアーナは思っていた。
首輪がそこにある限り、母親は少しだけ、自分を見る。
それだけのことだった。
それだけのことだが、リリアーナには、それだけのことが大切だった。
幼い頃のことを、リリアーナは断片的にしか覚えていない。
母親に手を引かれた記憶がある気がするが、夢だったかもしれない。
イザベラと並んで食卓に座った記憶がある気がするが、それも定かではない。
地下の物置部屋に移されたのがいつだったか、正確にはわからない。気づいたらそこにいた、という感覚の方が近い。
ただ一つだけ、鮮明に残っている場面がある。
まだ小さかった頃、ある日リリアーナが首輪を触っていた。
革紐を引っ張ったり、石をころころ転がしたり、子供の手慰みに。特に意味はなかった。ただ指先が退屈していただけだった。
次の瞬間、母親が飛んできた。
ドレスの裾を蹴るようにして駆けてきた母親の顔は、怒っていなかった。
怯えていた。
蒼白で、唇がかすかに震えていて、目が大きく見開かれていた。リリアーナはその顔を見て、自分が何か恐ろしいことをしてしまったのかと思って、体が竦んだ。
母親の両手がリリアーナの小さな手を包んで、革紐から引き離した。
「外してはだめ! 絶対に、絶対に外してはだめよ!」
母親の声は、リリアーナが聞いたことのない高さだった。
喉が締まったような、悲鳴に近い声だった。首輪をリリアーナの首にきちんと戻して、革紐が正しい位置にあることを確かめて、それから母親はしばらく荒い息をついていた。
リリアーナは怖くて、声が出なかった。
「……お母様?」
「外してはいけないの。わかった? 絶対に、絶対に外してはいけないの」
「……はい」
「約束して」
「約束します」
母親はようやく、リリアーナの顔を見た。
あの瞬間だけは、目が合った。
でもそれは愛情の目ではなかった。愛情ではなく、もっと切実な何かで、母親はリリアーナを見ていた。懇願するような、縋るような、怯えきった何かで。




