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ベルテ侯爵家からは、何も言ってこなかった。
クライドは多少の抗議は来るだろうと思っていた。娘を突然連れ去られたのだから、父親として、あるいは母親として、何か言ってくるだろうと。
しかし何もなかった。
三日経っても、何もなかった。
一週間経っても、何もなかった。
使者も来なかった。手紙も来なかった。
「娘を返してほしい」という申し入れも、「娘の様子を教えてほしい」という問い合わせも、何一つ来なかった。
クライドは書斎の椅子に座って、その事実をゆっくりと飲み込んだ。
娘が突然いなくなっても、何も言ってこない。
心配していないのか。
それとも、最初から関心がないのか。
クライドは羽根ペンを置いて、窓の外を見た。
庭でリリアーナが何かをつまんでいた。今日も虫だろう。しゃがんで、真剣な顔で、草むらを観察していた。
あの家は、おかしい。
クライドはそう思った。
首輪が気になったのは、衣装の仕立て直しが一段落した頃だった。
新しいドレスが届いた日、リリアーナは侍女に手伝ってもらいながら着替えた。
薄い青緑のドレスで、リリアーナの白磁のような肌によく映えた。髪も侍女が丁寧に結い上げた。
しかし首元だけが、何かおかしかった。
丁寧に仕立てられたドレスの首元に、古びた革紐がかかっていた。先に灰色の小石がついた、地味な革紐が。
クライドは夕食の席でそれを見て、少し眉をひそめた。
「その首輪は」
リリアーナが手を止めた。
「お守りのようなものです」
「いつからつけている」
「物心ついた頃から、ずっと」
「外さないのか」
リリアーナは少し間を置いた。
「外してはいけないんです」
「なぜ」
「……母が、そう言っていたので」
クライドは首輪を見た。
革紐は古びていたが、丁寧に手入れされていた。石は特別美しいわけでもなく、ただの灰色の石だった。宝石でも、貴金属でもない。侯爵家の令嬢が身につけるものとしては、あまりにも地味すぎた。
「侍女たちが、アクセサリーの交換を提案しなかったか」
「しました」
リリアーナは答えた。
「真珠のネックレスはいかがかと。でも断りました」
「なぜ」
「これでないといけないんです」
クライドはリリアーナを見た。
リリアーナは首輪に触れた。革紐の感触を確かめるように、そっと指で押さえた。
「……お母様が、怯えた顔で言っていたんです。外してはだめと。だから」
「怯えた顔で」
「はい。怒っているのではなく、怯えていました。あんな顔は、あの時しか見たことがなくて」
クライドは黙った。
リリアーナの母親が、娘の顔ではなく首輪を確認していたという話を思い出した。廊下ですれ違うたびに、首元だけを見ていたという話を。
怯えながら、外してはいけないと言い続けた母親。
娘が突然いなくなっても、何も言ってこない家族。
そして虫が集まってくる娘。
クライドの中で、何かが引っかかった。
まだ点だった。線にはなっていなかった。
「……わかった」
クライドはそれだけ言って、視線を自分の皿に戻した。
「無理に外さなくていい」
リリアーナは少し驚いたように、クライドを見た。
「……はい」
「ただ」
クライドは続けた。
「その首輪については、少し調べたいことがある」
「調べる、とは」
「なんでもない。夕食を食べろ」
リリアーナは「はい」と言って、カトラリーを持ち直した。
クライドは自分の皿を見ながら、羽根ペンを置いた時から頭の中にあった引っかかりが、また少し大きくなったことを感じていた。
その夜、クライドは書斎で文献を開いた。
精霊。加護。愛し子。
しかし。
説明のつかないことが、多すぎた。
虫が集まる。食べても腹を壊さない。日に日に美しくなっていく。そして、首輪。
クライドは文献のページをめくった。
まだ、答えは見つからなかった。




