20
ある朝、花壇の縁でタガメを見つけた。
庭にタガメがいるのは珍しかった。どこから来たのかわからないが、花壇の端の湿った土の上に、つやつやとした体を光らせていた。
リリアーナは目を輝かせた。
「タガメです」
「……ほう」
「タガメは特別なんです。フルーティーで、華やかで。なかなか出会えないから」
「そうか」
「食べてもいいですか」
「私に許可を求めるな」
リリアーナはタガメをそっとつまみ上げた。
口に入れた。
クライドが視線を逸らした。
かたい、ばき、ごき、という音が鳴る。
「……やっぱり、特別です」
リリアーナは目を細めた。
「華やかで、果物みたいな甘い香りがして。ライチに少し似ているかもしれません」
「ライチに」
クライドは繰り返した。視線はまだ逸れていた。
「タガメが」
「はい。クライド様も——」
「いらん」
「まだ言っていません」
「言おうとしていた」
「……はい」
クライドが視線を戻した。
リリアーナを見た。
「……お前は本当に」
「はい」
「毎回そんなに美味しそうな顔をするのか」
リリアーナは少し考えた。
「美味しいので」
クライドは何も言わなかった。
視線を、また噴水の方へ向けた。
クライドには、引っかかりがあった。
公爵邸は管理が行き届いていた。害虫対策は徹底していて、屋内に虫が出ることはほとんどない。庭も、それなりに手入れが行き届いている。
なのに。
リリアーナが歩くところには、必ず虫がいた。
花壇の縁にカナブン。草むらにバッタ。石畳の隙間からアリが列をなして。湿った土の上にタガメ。リリアーナが立ち止まった場所に、必ず何かいた。
偶然にしては、多すぎた。
料理長が「最近、お嬢様がいらっしゃる場所にだけ虫が出るんです。厨房には一匹も出ないのに、お嬢様がいらっしゃると、どこからともなく」と首をひねっていた。
庭師も「旦那様、おかしいんです。あのお嬢様が近づくと、土の中から虫が出てくるんです。まるで迎えに来るみたいに」と困惑した顔で報告してきた。
クライドは書斎の椅子に座って、それらの報告を聞きながら、静かに考えた。
迎えに来るように。
虫が、リリアーナを迎えに来る。
論理的に、説明がつかなかった。
クライドは放置できない性格だった。説明のつかないことを、そのままにしておけない。
しかし今はまだ、証拠が足りなかった。
もう少し、観察する必要があった。
ある夕方、リリアーナがメープルシロップを切らしたと言った。
「楓の木を探してもいいですか」と聞いてきた。
「なぜ楓の木が必要なんだ」
「樹液を煮詰めるんです。メープルシロップを作るので」
「明日、用意させる」
翌日、クライドは街で一番上等なメープルシロップを、大きな瓶で三つ取り寄せた。
リリアーナが「こんなにたくさん」と目を丸くした。
「余ったら虫にかけろ」
「……ありがとうございます」
リリアーナが笑った。
素直な、嬉しそうな笑いだった。
クライドは「うるさい」と言って、視線を窓の外に向けた。
日が経つにつれて、リリアーナが変わっていった。
髪が変わった。
ぱさぱさで砂のような色だった髪に、艶が生まれた。梳かすと指通りがよくて、朝の光の中でかすかに輝いた。
肌が変わった。
灰色がかっていた顔色が、白磁のように滑らかになってきた。頬に血の気が戻って、目の下の翳りが薄くなった。
体が変わった。
ガリガリだった輪郭が、少しずつ柔らかくなった。ドレスの腰のゆるさが、日に日に改善されていった。
クライドはそれを、毎朝庭を歩きながら、さりげなく観察していた。
公爵家の食事のおかげだろうか。
しかし変化のペースは、食事だけでは説明がつかないほど早かった。
虫を食べるたびに、リリアーナは少しずつ変わっていく。
そしてリリアーナが歩くところには、必ず虫が現れる。
クライドの中で、点と点が繋がりかけていた。
まだ線にはなっていなかった。
でも、引っかかりは日に日に大きくなっていた。
ある朝の散歩で、クライドは何気なく聞いた。
「お前、生まれた時のことを何か聞いているか」
リリアーナが少し首を傾けた。
「生まれた時、ですか」
「ああ」
「特に何も。……なぜですか」
「なんでもない」
リリアーナはクライドを見た。
クライドは石畳の先を見ていた。
「……変なことを聞きますね」
「散歩中の雑談だ」
リリアーナは少し笑った。
クライドは視線を前に向けたまま、その笑い声を聞いていた。
草むらで、バッタが一匹鳴いた。
リリアーナの足が、自然にそちらへ向いた。
クライドは視線を、噴水の方へ向けた。
パリ、バキバキ、という音がした。
「……香ばしいです。今日のバッタは特に」
「そうか」
「クライド様も——」
「いらん」
庭に、朝の光が満ちていた。




