18
夜の庭が見えた。
月明かりの中に、手入れの行き届いた庭が広がっていた。生垣が整然と並んで、花壇があって、石畳の小道があって。
リリアーナは庭を眺めた。
あの茂みの辺りには、何かいるだろうか。この季節なら、カナブンが出るかもしれない。
月明かりに引き寄せられて、羽をひろげて。あの花壇の土を少し掘れば、芋虫が。
「……窓の外が、気になるか」
クライドの声がした。
リリアーナははっとして、クライドを見た。
「い、いいえ。とんでもない。こんなに美味しいお食事を——」
「嘘をつくな」
リリアーナは少し唇を噛んだ。
「……夕暮れ時の庭には」
彼女はためらいがちに言った。
「カナブンが出るんです。この季節だと、羽が特に」
「羽が、特に?」
「……美味しそうで」
沈黙。
クライドは額に手を当てた。
目の前の令嬢は、公爵家が用意した最高級の晩餐よりも、庭を這う虫の方が気になっている。
「……デザートの後で、少し待て」
「え?」
「中庭に出てもいい。ただし」
クライドは念を押した。
「私の目の届く範囲で。なおかつ、食べるのなら——せめて私に見せるな」
リリアーナは少しの間、クライドを見た。
それから、笑った。
今夜初めての、本当に嬉しそうな笑いだった。
「ありがとうございます」
クライドは視線を窓の外に逃がした。
自分が婚約者の虫食いを公認したことを、ゆっくりと飲み込んだ。
湯浴みは、夕食の後だった。
侍女が三人来た。
リリアーナが浴室に通されると、湯が張ってあった。湯気が立ち上っていた。香り付きの石鹸が用意されていた。
侍女たちは手際よく動いた。
髪を丁寧に洗った。指の間まで泡立てて、頭皮をほぐすように。
リリアーナは最初、侍女たちの手が自分に触れるたびに少し体が強張った。ベルテ侯爵家では、誰かに丁寧に触れられることがなかったから。
「力が強すぎますか」
侍女の一人が聞いた。
「……いいえ」
「痛いところがあれば、おっしゃってください」
リリアーナは何も言えなかった。
痛くなかった。痛くないどころか、指が頭皮をほぐすたびに、じわりと力が抜けていく感覚があった。
こんな感覚は、覚えていなかった。
髪を洗い終えた侍女が、今度は背中を流し始めた。
もう一人の侍女が、リリアーナの手を取った。
「お嬢様、手が荒れておられますね」
見ると、侍女がリリアーナの手のひらを、自分の両手で包んでいた。薪割りと洗濯と雑巾がけで荒れた手を、ただ静かに、包んでいた。
「……薬を塗らせてください。少し染みるかもしれませんが」
リリアーナは頷いた。
侍女が薬を塗り始めた。
染みた。少し、染みた。でもそれより、誰かが自分の手を丁寧に扱っていることの方が、不思議な感覚だった。
湯浴みが終わると、服が用意されていた。
薄い水色の寝間着と、その上に羽織る柔らかな上着だった。リリアーナのために用意されたものにしては、サイズがよく合っていた。
「……どうして、サイズが」
「旦那様のご指示で、あらかじめ仕立て屋を呼んでおりました」
侍女が答えた。
リリアーナは服を見た。
クライドが、仕立て屋を呼んでいた。
いつ、用意したのだろう。今日の午後、庭で芋虫を食べているところを目撃してから、ここへ連れてくるまでの間に?
侍女が髪を乾かし始めた。
丁寧に、丁寧に、タオルで水気を取って、それから柔らかな布で髪を包んだ。
リリアーナは鏡を見た。
ぱさついた、くすんだ色の髪だった。
侍女が髪油を少し手に取って、毛先に馴染ませ始めた。
鏡の中の髪が、少しだけ光った気がした。
「……綺麗な髪をしておられますね」
侍女が言った。
リリアーナは鏡を見た。
「そうですか」
「はい。少しお手入れをすれば、きっともっと」
リリアーナは鏡の中の自分を見た。
ぱさついた髪。血の気のない顔。目の下の翳り。
でも侍女の手が、丁寧に、髪を整えていた。
客室に戻ると、暖炉の火がまだ燃えていた。
寝台のシーツが、めくって待っていた。枕が二つ、丁寧に並んでいた。
リリアーナは寝台の縁に腰かけた。
柔らかかった。
沈み込むような柔らかさだった。ベルテ侯爵家の地下室の寝台は、板に薄い布を重ねたようなもので、長く横になると腰が痛んだ。
リリアーナはそっと横になった。
天井が高かった。
暖炉の火が、柔らかく揺れた。
お腹が、満たされていた。
体が、温かかった。
手が、薬で少し染みていたが、それより柔らかい布の感触の方が勝っていた。
リリアーナは天井を見た。
今日、何があったかを順番に思い出した。
芋虫を食べていたら婚約者が来た。目が合ったまま飲み込んだ。馬車に乗せられた。食事をもらった。お風呂に入れてもらった。服をもらった。
一日で、何もかもが変わった。
変わりすぎて、実感がなかった。
首輪に触れた。
革紐の感触。石の温かさ。
いつも通り、体温と同じくらいに温かかった。
目を閉じた。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
リリアーナはそのまま、静かに眠りについた。
その夜は、たちくらみも、空腹も、なかった。




