表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉の方を所望していたと言った婚約者に、突然連れ帰られて気づいたら溺愛されています  作者: もちもちほっぺ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/21

18

夜の庭が見えた。

月明かりの中に、手入れの行き届いた庭が広がっていた。生垣が整然と並んで、花壇があって、石畳の小道があって。

リリアーナは庭を眺めた。


あの茂みの辺りには、何かいるだろうか。この季節なら、カナブンが出るかもしれない。

月明かりに引き寄せられて、羽をひろげて。あの花壇の土を少し掘れば、芋虫が。


「……窓の外が、気になるか」


クライドの声がした。

リリアーナははっとして、クライドを見た。


「い、いいえ。とんでもない。こんなに美味しいお食事を——」


「嘘をつくな」


リリアーナは少し唇を噛んだ。


「……夕暮れ時の庭には」


彼女はためらいがちに言った。


「カナブンが出るんです。この季節だと、羽が特に」


「羽が、特に?」


「……美味しそうで」


沈黙。

クライドは額に手を当てた。

目の前の令嬢は、公爵家が用意した最高級の晩餐よりも、庭を這う虫の方が気になっている。


「……デザートの後で、少し待て」


「え?」


「中庭に出てもいい。ただし」


クライドは念を押した。


「私の目の届く範囲で。なおかつ、食べるのなら——せめて私に見せるな」


リリアーナは少しの間、クライドを見た。

それから、笑った。

今夜初めての、本当に嬉しそうな笑いだった。


「ありがとうございます」


クライドは視線を窓の外に逃がした。

自分が婚約者の虫食いを公認したことを、ゆっくりと飲み込んだ。





湯浴みは、夕食の後だった。


侍女が三人来た。

リリアーナが浴室に通されると、湯が張ってあった。湯気が立ち上っていた。香り付きの石鹸が用意されていた。


侍女たちは手際よく動いた。

髪を丁寧に洗った。指の間まで泡立てて、頭皮をほぐすように。

リリアーナは最初、侍女たちの手が自分に触れるたびに少し体が強張った。ベルテ侯爵家では、誰かに丁寧に触れられることがなかったから。


「力が強すぎますか」


侍女の一人が聞いた。


「……いいえ」


「痛いところがあれば、おっしゃってください」


リリアーナは何も言えなかった。

痛くなかった。痛くないどころか、指が頭皮をほぐすたびに、じわりと力が抜けていく感覚があった。

こんな感覚は、覚えていなかった。


髪を洗い終えた侍女が、今度は背中を流し始めた。

もう一人の侍女が、リリアーナの手を取った。


「お嬢様、手が荒れておられますね」


見ると、侍女がリリアーナの手のひらを、自分の両手で包んでいた。薪割りと洗濯と雑巾がけで荒れた手を、ただ静かに、包んでいた。


「……薬を塗らせてください。少し染みるかもしれませんが」


リリアーナは頷いた。

侍女が薬を塗り始めた。

染みた。少し、染みた。でもそれより、誰かが自分の手を丁寧に扱っていることの方が、不思議な感覚だった。


湯浴みが終わると、服が用意されていた。

薄い水色の寝間着と、その上に羽織る柔らかな上着だった。リリアーナのために用意されたものにしては、サイズがよく合っていた。


「……どうして、サイズが」


「旦那様のご指示で、あらかじめ仕立て屋を呼んでおりました」


侍女が答えた。

リリアーナは服を見た。

クライドが、仕立て屋を呼んでいた。


いつ、用意したのだろう。今日の午後、庭で芋虫を食べているところを目撃してから、ここへ連れてくるまでの間に?


侍女が髪を乾かし始めた。

丁寧に、丁寧に、タオルで水気を取って、それから柔らかな布で髪を包んだ。

リリアーナは鏡を見た。

ぱさついた、くすんだ色の髪だった。


侍女が髪油を少し手に取って、毛先に馴染ませ始めた。

鏡の中の髪が、少しだけ光った気がした。


「……綺麗な髪をしておられますね」


侍女が言った。

リリアーナは鏡を見た。


「そうですか」


「はい。少しお手入れをすれば、きっともっと」


リリアーナは鏡の中の自分を見た。

ぱさついた髪。血の気のない顔。目の下の翳り。

でも侍女の手が、丁寧に、髪を整えていた。


客室に戻ると、暖炉の火がまだ燃えていた。

寝台のシーツが、めくって待っていた。枕が二つ、丁寧に並んでいた。


リリアーナは寝台の縁に腰かけた。

柔らかかった。

沈み込むような柔らかさだった。ベルテ侯爵家の地下室の寝台は、板に薄い布を重ねたようなもので、長く横になると腰が痛んだ。

リリアーナはそっと横になった。


天井が高かった。

暖炉の火が、柔らかく揺れた。

お腹が、満たされていた。

体が、温かかった。

手が、薬で少し染みていたが、それより柔らかい布の感触の方が勝っていた。

リリアーナは天井を見た。


今日、何があったかを順番に思い出した。

芋虫を食べていたら婚約者が来た。目が合ったまま飲み込んだ。馬車に乗せられた。食事をもらった。お風呂に入れてもらった。服をもらった。

一日で、何もかもが変わった。

変わりすぎて、実感がなかった。

首輪に触れた。

革紐の感触。石の温かさ。

いつも通り、体温と同じくらいに温かかった。


目を閉じた。

暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。

リリアーナはそのまま、静かに眠りについた。

その夜は、たちくらみも、空腹も、なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ