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姉の方を所望していたと言った婚約者に、突然連れ帰られて気づいたら溺愛されています  作者: もちもちほっぺ


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イザベラが夜会へ出かけてすぐ、マルタが来た。


「お嬢様、蔵書室の整理をお願いできますか。旦那様が明日お客様をお呼びになるので、今夜中に」


リリアーナは頷いた。

蔵書室は屋敷の東の端にあった。天井まで本棚が並んでいて、脚立を使わなければ上の段には届かない。

整理といっても、背表紙を確認しながら順番を並べ替える作業で、一冊一冊が重かった。

リリアーナは脚立に上った。


上の段の本を取り出そうとして、背表紙に指をかけた。

重かった。

引き出した瞬間、隣の本が崩れた。


どさどさと、三冊が落ちてきた。一冊が肩に当たった。痛かった。脚立がぐらりと揺れた。リリアーナは慌てて棚を掴んで、体を支えた。


しばらく、脚立の上でじっとしていた。

肩が、じんじんと痛んだ。

お腹が、鳴った。





その頃、街の中心にある大邸宅では。

シャンデリアの光が、広間を満たしていた。


正装した貴族たちが行き交い、笑い声と音楽が混ざり合っていた。テーブルには料理が並び、ワインの色が灯りを受けて宝石のように輝いていた。


その中心に、王子がいた。

背が高く、日差しのような笑顔を持つ青年だった。

太陽の愛し子と呼ばれるだけあって、その場にいるだけで周囲が明るくなるような存在感があった。


王子の周囲には、常に数人の令嬢がいた。

いずれも名のある家の娘たちで、どの令嬢も美しく、どの令嬢も王子の笑顔を独占しようとしていた。


王子は誰にでも等しく微笑んだ。誰か一人に肩入れするでもなく、誰かを遠ざけるでもなく、ただ太陽のように、等しく。


イザベラはその輪の外から、王子を見ていた。

今夜の自分は完璧だと思っていた。髪も、ドレスも、香水も。全部完璧なはずだった。


ただ、輪の中に入るきっかけが、なかった。


王子の周囲の令嬢たちは、知らない顔ではなかった。いずれも社交界で名の通った娘たちで、互いに顔見知りで、自然に輪を作っていた。

その輪は閉じているわけではなかったが、入りやすいわけでもなかった。


イザベラはワインのグラスを持ったまま、微笑んでいた。

焦っていないように見せながら、焦っていた。





蔵書室で、また本が落ちてきた。

今度は二冊まとめて、頭の上に。

リリアーナは脚立から降りて、床に落ちた本を拾い上げた。


革張りの表紙が埃まみれになっていた。丁寧に拭いて、棚に戻した。

頭が、じんじんした。

目眩がした。


壁に手をついて、しばらく待った。

お腹が空きすぎると、こうなる。頭がぼんやりして、目眩がして、手先が少し震える。慣れた感覚だったが、脚立の上では困った。


深呼吸をした。

また脚立に上った。

今度はゆっくりと、一冊ずつ確認しながら取り出した。重かった。腕が疲れてきた。肩の打ち身が、動かすたびに鈍く痛んだ。

蔵書室の窓の外は、もう暗かった。


夜会はまだ続いているだろう。イザベラは今頃、シャンデリアの光の下で微笑んでいるだろう。温かい料理が並んだテーブルの前で、ワインのグラスを持って。


リリアーナは本を一冊、棚に戻した。

また一冊、取り出した。

お腹が、また鳴った。


蔵書室の整理が終わったのは、夜も深くなってからだった。

マルタに「ご苦労様でした」と言われた。それだけだった。食事については、何も言われなかった。


リリアーナは地下室への階段を降りた。

足が重かった。肩が痛かった。頭のてっぺんから足の先まで、じんじんとした疲労が満ちていた。


扉を開けて、部屋に入った。

暗い部屋だった。燭台に火を灯すと、石造りの壁が浮かび上がった。古びた寝台。ぐらつく机。

リリアーナは寝台に腰かけた。


しばらく、ただそこに座っていた。

動く気力が、なかった。

お腹が、鳴った。


今日食べたものを数えた。昨日の夕方にイザベラが持ってきたパンの切れ端。今夕イザベラにもらったビスケット二枚。それだけだった。

胃が収縮した。頭がぼんやりした。


今夜の食事は、来なかった。


リリアーナは燭台の灯りを見つめた。

ゆらゆらと、炎が揺れた。

その時、視界の隅に動くものがあった。

床だった。

石造りの床を、小さなものが列をなして歩いていた。


アリだった。


壁の隙間から出てきたのか、十数匹が一列になって、部屋の端から端へと歩いていた。真剣な顔で、どこかへ向かって、まっすぐに。


リリアーナはしばらく、その列を見ていた。

お腹が、また鳴った。


頭がぼんやりしていた。肩が痛かった。今日は朝からほとんど何も食べていなかった。蔵書室で重い本と格闘して、頭に本が落ちてきて、目眩がして。


リリアーナは床に視線を落とした。

アリの列が、まだ続いていた。


丸々としたアリだった。つやつやとした黒い体が、燭台の灯りを受けてかすかに光っていた。


リリアーナは少しの間、考えた。

駄目だ、と思った。


でもお腹が空いていた。

駄目だ、と思った。


でも頭がぼんやりしていた。

駄目だ、と思いながら、手が動いていた。


人差し指をそっと、アリの列の前に差し出した。


アリが止まった。


触角を動かした。

それからゆっくりと、指の上に乗った。


リリアーナは息を止めた。

指の上のアリを見た。小さかった。本当に小さかった。つやつやとした黒い体が、指先の上でじっとしていた。


お腹が、また鳴った。

リリアーナは目を閉じた。


口に、入れた。


歯を、そっと、当てた。

プチッ、と。


その瞬間。

甘かった。

甘酸っぱかった。


レモンのような、でもレモンよりずっと丸くて、じわりと広がるような。口の中に、弾けるように広がって、消えた。


リリアーナは目を開けた。

しばらく、口の中の感覚を確かめた。

甘酸っぱさが、まだかすかに残っていた。


もう一度、指を差し出した。

またアリが乗った。

また、食べた。

また、プチッ、と。

また、甘酸っぱかった。


リリアーナは床に座り込んで、しばらくの間、アリの列と向き合った。燭台の灯りがゆらゆらと揺れた。石造りの壁が、静かにそれを照らした。


甘酸っぱさが、また口の中に広がった。

頭のぼんやりが、少しだけ晴れた気がした。


体の芯に、かすかな温かさが生まれた気がした。

リリアーナはもう一匹、指に乗せた。


美味しかった。

踏まれたパンにメープルシロップをつけて食べた時とも、イザベラの食べかけのシチューとも、固いビスケットとも違う。

もっと素直な、もっと不思議な、甘酸っぱさだった。


プチッ。

また、甘酸っぱかった。


リリアーナは少しの間、自分が今何をしているかを考えた。


アリを食べている。

地下室の床に座り込んで、アリを食べている。

侯爵家の令嬢が。

でも、美味しかった。


それだけが、今この瞬間の事実だった。

アリの列は、まだ続いていた。


リリアーナはもう一匹、と、指を差し出した。

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