12
イザベラが夜会へ出かけてすぐ、マルタが来た。
「お嬢様、蔵書室の整理をお願いできますか。旦那様が明日お客様をお呼びになるので、今夜中に」
リリアーナは頷いた。
蔵書室は屋敷の東の端にあった。天井まで本棚が並んでいて、脚立を使わなければ上の段には届かない。
整理といっても、背表紙を確認しながら順番を並べ替える作業で、一冊一冊が重かった。
リリアーナは脚立に上った。
上の段の本を取り出そうとして、背表紙に指をかけた。
重かった。
引き出した瞬間、隣の本が崩れた。
どさどさと、三冊が落ちてきた。一冊が肩に当たった。痛かった。脚立がぐらりと揺れた。リリアーナは慌てて棚を掴んで、体を支えた。
しばらく、脚立の上でじっとしていた。
肩が、じんじんと痛んだ。
お腹が、鳴った。
その頃、街の中心にある大邸宅では。
シャンデリアの光が、広間を満たしていた。
正装した貴族たちが行き交い、笑い声と音楽が混ざり合っていた。テーブルには料理が並び、ワインの色が灯りを受けて宝石のように輝いていた。
その中心に、王子がいた。
背が高く、日差しのような笑顔を持つ青年だった。
太陽の愛し子と呼ばれるだけあって、その場にいるだけで周囲が明るくなるような存在感があった。
王子の周囲には、常に数人の令嬢がいた。
いずれも名のある家の娘たちで、どの令嬢も美しく、どの令嬢も王子の笑顔を独占しようとしていた。
王子は誰にでも等しく微笑んだ。誰か一人に肩入れするでもなく、誰かを遠ざけるでもなく、ただ太陽のように、等しく。
イザベラはその輪の外から、王子を見ていた。
今夜の自分は完璧だと思っていた。髪も、ドレスも、香水も。全部完璧なはずだった。
ただ、輪の中に入るきっかけが、なかった。
王子の周囲の令嬢たちは、知らない顔ではなかった。いずれも社交界で名の通った娘たちで、互いに顔見知りで、自然に輪を作っていた。
その輪は閉じているわけではなかったが、入りやすいわけでもなかった。
イザベラはワインのグラスを持ったまま、微笑んでいた。
焦っていないように見せながら、焦っていた。
蔵書室で、また本が落ちてきた。
今度は二冊まとめて、頭の上に。
リリアーナは脚立から降りて、床に落ちた本を拾い上げた。
革張りの表紙が埃まみれになっていた。丁寧に拭いて、棚に戻した。
頭が、じんじんした。
目眩がした。
壁に手をついて、しばらく待った。
お腹が空きすぎると、こうなる。頭がぼんやりして、目眩がして、手先が少し震える。慣れた感覚だったが、脚立の上では困った。
深呼吸をした。
また脚立に上った。
今度はゆっくりと、一冊ずつ確認しながら取り出した。重かった。腕が疲れてきた。肩の打ち身が、動かすたびに鈍く痛んだ。
蔵書室の窓の外は、もう暗かった。
夜会はまだ続いているだろう。イザベラは今頃、シャンデリアの光の下で微笑んでいるだろう。温かい料理が並んだテーブルの前で、ワインのグラスを持って。
リリアーナは本を一冊、棚に戻した。
また一冊、取り出した。
お腹が、また鳴った。
蔵書室の整理が終わったのは、夜も深くなってからだった。
マルタに「ご苦労様でした」と言われた。それだけだった。食事については、何も言われなかった。
リリアーナは地下室への階段を降りた。
足が重かった。肩が痛かった。頭のてっぺんから足の先まで、じんじんとした疲労が満ちていた。
扉を開けて、部屋に入った。
暗い部屋だった。燭台に火を灯すと、石造りの壁が浮かび上がった。古びた寝台。ぐらつく机。
リリアーナは寝台に腰かけた。
しばらく、ただそこに座っていた。
動く気力が、なかった。
お腹が、鳴った。
今日食べたものを数えた。昨日の夕方にイザベラが持ってきたパンの切れ端。今夕イザベラにもらったビスケット二枚。それだけだった。
胃が収縮した。頭がぼんやりした。
今夜の食事は、来なかった。
リリアーナは燭台の灯りを見つめた。
ゆらゆらと、炎が揺れた。
その時、視界の隅に動くものがあった。
床だった。
石造りの床を、小さなものが列をなして歩いていた。
アリだった。
壁の隙間から出てきたのか、十数匹が一列になって、部屋の端から端へと歩いていた。真剣な顔で、どこかへ向かって、まっすぐに。
リリアーナはしばらく、その列を見ていた。
お腹が、また鳴った。
頭がぼんやりしていた。肩が痛かった。今日は朝からほとんど何も食べていなかった。蔵書室で重い本と格闘して、頭に本が落ちてきて、目眩がして。
リリアーナは床に視線を落とした。
アリの列が、まだ続いていた。
丸々としたアリだった。つやつやとした黒い体が、燭台の灯りを受けてかすかに光っていた。
リリアーナは少しの間、考えた。
駄目だ、と思った。
でもお腹が空いていた。
駄目だ、と思った。
でも頭がぼんやりしていた。
駄目だ、と思いながら、手が動いていた。
人差し指をそっと、アリの列の前に差し出した。
アリが止まった。
触角を動かした。
それからゆっくりと、指の上に乗った。
リリアーナは息を止めた。
指の上のアリを見た。小さかった。本当に小さかった。つやつやとした黒い体が、指先の上でじっとしていた。
お腹が、また鳴った。
リリアーナは目を閉じた。
口に、入れた。
歯を、そっと、当てた。
プチッ、と。
その瞬間。
甘かった。
甘酸っぱかった。
レモンのような、でもレモンよりずっと丸くて、じわりと広がるような。口の中に、弾けるように広がって、消えた。
リリアーナは目を開けた。
しばらく、口の中の感覚を確かめた。
甘酸っぱさが、まだかすかに残っていた。
もう一度、指を差し出した。
またアリが乗った。
また、食べた。
また、プチッ、と。
また、甘酸っぱかった。
リリアーナは床に座り込んで、しばらくの間、アリの列と向き合った。燭台の灯りがゆらゆらと揺れた。石造りの壁が、静かにそれを照らした。
甘酸っぱさが、また口の中に広がった。
頭のぼんやりが、少しだけ晴れた気がした。
体の芯に、かすかな温かさが生まれた気がした。
リリアーナはもう一匹、指に乗せた。
美味しかった。
踏まれたパンにメープルシロップをつけて食べた時とも、イザベラの食べかけのシチューとも、固いビスケットとも違う。
もっと素直な、もっと不思議な、甘酸っぱさだった。
プチッ。
また、甘酸っぱかった。
リリアーナは少しの間、自分が今何をしているかを考えた。
アリを食べている。
地下室の床に座り込んで、アリを食べている。
侯爵家の令嬢が。
でも、美味しかった。
それだけが、今この瞬間の事実だった。
アリの列は、まだ続いていた。
リリアーナはもう一匹、と、指を差し出した。




