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数日後の夕方、マルタが来た。
「お嬢様、イザベラお嬢様のお部屋へいらしてください。身支度のお手伝いを」
身支度の手伝い。
リリアーナには、それが何を意味するかわかっていた。マッサージだ。
イザベラが夜会や特別な席に出る前に、決まってリリアーナを呼びつける。
侍女にやらせても、使用人にやらせても、イザベラは満足しない。力加減が強すぎる、弱すぎる、雑だと言って追い払う。
リリアーナだけが、合格する。
理由をイザベラは言わない。ただ「あなたじゃないと駄目なの」と言う。
褒め言葉のつもりではないことはわかっていた。ただの都合だ。でもリリアーナには断る理由がなかった。
「わかりました」
マルタが出ていった。
リリアーナは立ち上がって、少し目眩がした。
今日は朝から何も食べていなかった。
昨日の夕方にイザベラが気まぐれで持ってきたパンの切れ端が、昨日からの食事の全てだった。マルタも今日は忙しそうにしていて、雑用を言いつけに来ることもなかった。雑用を言いつけられなければ、食事の駆け引きもない。
壁に手をついて、目眩が収まるのを待った。
深呼吸をした。
それから、イザベラの部屋へ向かった。
イザベラの部屋は、リリアーナの地下室とは別の世界だった。
天蓋付きの寝台。窓には厚いカーテン。化粧台の上には香水瓶が並んで、鏡が磨き上げられていた。絨毯は柔らかく、足音を吸い込んだ。暖炉が穏やかに燃えていた。
イザベラは化粧台の前に座って、侍女に髪を結わせていた。
リリアーナが入ると、鏡越しに目が合った。
「遅い」
「申し訳ありません」
「早くしなさい。時間がないの」
侍女が髪を結う横で、リリアーナはイザベラの後ろに立った。肩から首筋にかけて、そっと手を当てた。
固かった。
イザベラは緊張すると、決まって肩と首筋が石のように固くなる。今日は特に固かった。それだけ、今夜に懸けているということだろう。
リリアーナはゆっくりと、力を込めすぎないように、ほぐし始めた。
「今夜の夜会にはね」
イザベラが鏡に向かって言った。
「王子殿下がいらっしゃるの」
「そうですか」
「そうですかじゃないわよ。王子殿下よ? この国の第一王子殿下が、同じ夜会に」
「はい」
「あなたには関係ないけれど」
イザベラは続けた。
「私はずっと待っていたの。こういう機会を。王子殿下と直接お話しできる機会を」
リリアーナは黙って手を動かした。
首筋の凝りが、少しずつほぐれていった。
「王子殿下はね、とても素敵な方なの」
イザベラは鏡の中で目を輝かせた。
「背が高くて、お顔も整っていて、太陽のように明るくて。あなたの婚約者みたいに、無愛想で冷たくないわ」
「……そうですか」
「ほら、そこ。もう少し強く」
リリアーナは少し力を込めた。
「そうそう。……ねえ、私って今夜綺麗だと思う?」
リリアーナは鏡越しにイザベラを見た。
今夜のイザベラは確かに美しかった。
侍女が丁寧に結い上げた髪に、薄紅色のドレス。頬には自然な血色があって、唇には淡い紅が引かれていた。
「綺麗だと思います」
「そうよね」
イザベラは満足そうに頷いた。
「あなたみたいにぱさぱさで血の気のない顔じゃないもの」
リリアーナは何も言わなかった。
手を動かし続けた。
お腹が、鳴りそうだった。
鳴らないように、リリアーナはそっと腹に力を入れた。今ここでお腹を鳴らすわけにはいかなかった。イザベラに聞かれたら、何を言われるかわからない。
「王子殿下はね、今夜私に気づいてくださるはずなの」
イザベラは続けた。
「だってこんなに準備したんだもの。髪も、ドレスも、香水も。全部王子殿下のために選んだのよ」
「はい」
「あなたにはわからないでしょうけど」
イザベラは鏡の中でリリアーナを見た。
「好きな方のために着飾る気持ちなんて。あなたの婚約者はあなたのことを老婆みたいって言ったんですものね。着飾る気にもなれないでしょ」
リリアーナの手が、一瞬だけ止まった。
すぐに動かした。
「……そうですね」
「ふふ」イザベラは笑った。「正直ね」
胃の底で、じくじくとした感覚がした。
老婆のようだ、という言葉が、また浮かんだ。
リリアーナは手を動かし続けた。ゆっくりと、丁寧に。力を込めすぎず、弱すぎず。
お腹が、また鳴りそうになった。
腹に力を入れた。
「もう少し、首の横をお願い」
「はい」
「そうそう。……ねえ、今夜うまくいくと思う?」
「うまくいくといいですね」
「そうじゃなくて、思う?って聞いてるの」
リリアーナは少し考えた。
「……イザベラお姉様が全力を尽くされれば、きっと」
「そうよね」
イザベラは満足そうに言った。
「全力を尽くすわ。王子殿下に私を見ていただくために」
侍女が最後の髪飾りを留めた。
イザベラが立ち上がって、全身を鏡で確認した。くるりと一回転して、ドレスの裾の広がりを確かめた。
「完璧ね」
独り言のように言った。
それからリリアーナを振り返った。
「ご苦労様」
「いってらっしゃいませ」
イザベラはリリアーナを一瞥した。頭のてっぺんから足の先まで、さっと見た。
「……あなた、今日何も食べてないでしょ」
リリアーナは少し驚いた。
「顔でわかるわよ」
イザベラは言った。
「いつもより白い。目の下も酷い」
リリアーナは何も言わなかった。
イザベラはしばらくリリアーナを見ていた。それから化粧台の引き出しを開けて、中から小さな包みを取り出した。
放った。
リリアーナは受け取った。
布に包まれた、固いものだった。開けると、小さなビスケットが二枚入っていた。
「余りものだから」
イザベラは言った。
「感謝しなさい」
「……ありがとうございます」
「王子殿下のことを祈っておきなさい。私が成功するように」
イザベラは侍女を連れて部屋を出た。
扉が閉まった。
廊下をゆく足音が、やがて聞こえなくなった。
リリアーナは手の中のビスケットを見た。
小さな、固いビスケットが二枚。
口に入れた。
固かった。甘さはほとんどなかった。でもビスケットだった。
二枚とも、あっという間になくなった。
お腹は、まだ空いていた。
リリアーナは空になった布を折り畳んで、ポケットにしまった。
部屋を出た。
廊下は静かだった。イザベラはもう馬車に乗ったのだろう。屋敷のどこかで夕食の支度をしている音がした。
今夜の食事が来るかどうかを考えながら、リリアーナは地下室への階段を降りていった。




