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午後になって、マルタが来た。
「お嬢様、奥様からのご伝言です。庭へいらしてください」
庭へ。
リリアーナは少し考えた。庭へ呼ばれることは、めったにない。
「何かありましたか」
「アルスター公爵家のクライド様がいらしております。奥様が、お二人でお茶をと」
リリアーナは黙った。
今朝、踏まれたパンを食べた口で、婚約者とお茶をする。
「……わかりました」
マルタは特に何も言わずに出ていった。
リリアーナは鏡を見た。
朝と変わらない顔だった。ぱさついた髪。血の気のない顔。目の下の翳り。
どうにもならなかった。
庭には白いテーブルと椅子が二脚用意されていた。
春の日差しの中に、ティーセットが並んでいた。磁器の白が眩しかった。スコーンと、薄切りのサンドウィッチと、小さなケーキが皿に盛られていた。
リリアーナの胃が、また反応した。
朝に踏まれたパンを食べただけだった。
クライドはすでに椅子に座って待っていた。
リリアーナが近づくと、立ち上がった。形式上の礼儀として、表情は変えずに。
「リリアーナ・ベルテです」
「クライド・アルスターだ」
それだけだった。
二人は向かい合って座った。
侍女がお茶を注いだ。湯気が立ち上った。いい香りがした。
沈黙が落ちた。
テーブルの上のスコーンが、日差しの中でほんのり温かそうだった。リリアーナは視線をそこから逸らした。
クライドがティーカップを持ち上げた。一口飲んだ。また置いた。
沈黙が続いた。
庭師が遠くで土をほぐす音がした。ぱさぱさと、乾いた土がほぐれる音が。
「……天気がよろしいですね」
リリアーナが言った。
「そうだな」
クライドが答えた。
また沈黙が落ちた。
リリアーナはティーカップを持ち上げた。お茶を一口飲んだ。温かかった。体の芯に、じわりと温かさが広がった。今日初めて、温かいものを口にした気がした。
クライドがスコーンに手を伸ばした。一口食べた。
リリアーナはスコーンを見た。
視線を逸らした。
「……花が、少ないですね」
クライドが庭を見渡して言った。
「はい」
リリアーナは答えた。
「十数年、ずっとこうなんです。土が、うまく育ててくれなくて」
「国中そうだ」
「はい」
また沈黙が落ちた。
クライドがリリアーナを見た。値踏みするような目ではなかった。ただ、観察するような目だった。何かを確かめようとしているような。
リリアーナは視線を受けながら、ティーカップを両手で包んだ。温かかった。
「……礼法の教育は受けたのか」
唐突な問いだった。
「はい」
「どこで」
「家庭教師に。七歳から十二歳まで」
「今は」
「……今は、受けていません」
クライドは何も言わなかった。
リリアーナの現状を知っているのかいないのか、その顔からは読めなかった。ただ静かに、お茶を一口飲んだ。
スコーンの皿が、テーブルの中央に置いてあった。
リリアーナとクライドの、ちょうど真ん中に。
リリアーナはそれを見ないようにしていた。見ると、お腹が鳴るかもしれなかった。
今朝から踏まれたパンしか食べていないことを、この婚約者に知られたくなかった。
「食べないのか」
クライドの声がした。
顔を上げると、クライドがスコーンの皿を見ていた。
「……いただきます」
リリアーナはスコーンを一つ取った。
口に入れた。
さくりとした食感と、バターの香りが広がった。温かくはなかったが、柔らかかった。甘かった。朝に食べたメープルシロップとは違う、素直な甘さだった。
思ったより、夢中になって食べてしまった。
気づいたら、スコーンがなくなっていた。
クライドが見ていた。
リリアーナは背筋を伸ばした。みっともないところを見せた、と思った。しかし謝るのも変だった。黙って、ティーカップを持ち上げた。
クライドは何も言わなかった。
ただ、視線が少しだけ変わった気がした。査定の目ではなく、もう少し別の何かを見るような目に。
しかしリリアーナにはその違いが何なのか、読めなかった。
「侯爵家のご令嬢は」
クライドがまた口を開いた。
「庭でよく過ごされるのか」
「……以前は」
「今は」
「あまり」
「なぜ」
リリアーナは少し考えた。
地下室にいるから、とは言えなかった。
庭に出ることを許されていないわけではないが、出れば使用人に雑用を押し付けられる。だから自然と、出なくなった。
「……特に理由はありません」
クライドは答えなかった。
また沈黙が落ちた。
遠くで庭師が土をほぐす音がした。ぱさぱさと、乾いた音が続いた。
「この庭の土は」
クライドが庭を見ながら言った。
「随分と痩せているな」
「はい」
「手を入れているのか」
「庭師が毎日。でもうまくいかないようで」
「……そうか」
クライドは庭を見たまま、何かを考えているようだった。
リリアーナはその横顔を、少しだけ見た。
整った顔だと思った。昨日は値踏みされることに必死で、ちゃんと見ていなかった。
冷たそうに見えるが、庭を見る目は、冷たくはなかった。何かを、静かに案じているような目だった。
「……アルスター様は」
リリアーナは言った。
「庭がお好きなんですか」
クライドがリリアーナを見た。
少し、意外そうな顔をした。
「なぜそう思う」
「庭をずっと見ておられるので」
クライドは少しの間、リリアーナを見ていた。それから視線を庭に戻した。
「好きというわけではない」と言った。
「ただ、土地が痩せていくのは、気になる」
「……はい」
リリアーナは言った。
「私も、気になります」
クライドがまたリリアーナを見た。
今度は少し長く、見た。
リリアーナは視線を受けながら、ティーカップを両手で包んだ。温かさは、もうほとんど残っていなかった。
「……そうか」
クライドはそれだけ言って、お茶を飲んだ。
沈黙が落ちた。
でも今度の沈黙は、最初のものとは少し違った気がした。気まずいだけではない、何か別のものが混じったような。
リリアーナにはうまく言葉にできなかった。
サンドウィッチの皿が、まだテーブルの上にあった。
リリアーナはそれを見て、視線を逸らした。
お腹は、まだ空いていた。




