第十六話:奪い合いの均衡
空間そのものが、悲鳴を上げるように震えている。
無数の可能性、無数の未来が、火花を散らして激突し合っていた。
「――っ!」
ジャンヌが、弾かれたように一歩退く。
直前まで彼女が立っていた位置を、 別の結果 が凄まじい速度で通過していった。
「……今の、掠めただけで……!」
「本来なら当たっていたはずの未来だ」
廉が、充血した右目を押さえながら低く言う。
「あいつが結果を捻じ曲げた。今のは 書き換えられた 死だ」
リリィが、鈴の音を転がすように楽しそうに笑う。
「いいね。その反応」
少女の瞳が、獲物を狙う猛禽のように鋭く光る。
「ちゃんと戦えるじゃん。今まで食べてきたゴミ共とは大違いだ」
次の瞬間、彼女の姿が掻き消えた。
「来るぞ! 全方位警戒!」
廉が叫び、無理やり未来の断片を掴み取る。
――左、回避
――右、回避
――正面、回避
(……クソ、足りねえ!)
演算が追いつかない。選択肢の数が、こちらの処理能力を遥かに上回っている。
ジャンヌが、血の滲む唇を噛み締めた。
「――っ!」
回避しきれなかった一撃が、彼女の肩を深く掠める。
「ジャンヌ、大丈夫か!」
「はい……! かすり傷です!」
強気な返答。だが、その声に余裕はない。
「……ねぇ」
リリィの声が、耳元で囁くように響く。
「それ、いつまで持つの? その細い未来の糸さ」
ジャンヌの背後。
振り返る動作さえ、あらかじめ読まれている。
「――取るよ。君の明日を」
少女の手が、しなやかに伸びる。
ジャンヌの中に蓄積された、純度の高い 未来 へと。
(……来る! 根こそぎ持っていかれる……!)
その瞬間、廉が動いた。
「させるかよ、この餓鬼が!」
廉は自らの存在を削り、無理やり因果の鎖を捻じ曲げた。
ありえない軌道。ありえないタイミング。
過負荷の代償として、廉の視界がどろりと赤く染まる。
「――っ!!」
だが、その強引な干渉によって。
リリィの指先は、わずかに獲物からズレた。
「……へぇ」
リリィが、意外そうにわずかに目を見開く。
「今の、かなり強引。無理しすぎだよ、おじさん」
廉が、焼けるような肺で荒く息を吐き出す。
「うるせえ。おじさんって言うな」
ジャンヌが、その隙に大きく距離を取った。
「……助かりました、九条さん」
「礼は後だ。まだ終わっちゃいねえぞ」
リリィが、ゆっくりと口角を吊り上げる。
「うん。そうだね」
彼女が一歩踏み出した。
「じゃあ、次は本気でいくね。 奪い合い の本当の意味を教えてあげる」
空気が、一瞬で重質化した。
今までの戦闘が児戯に思えるほどの、圧倒的な圧。
「……来るぞ。腹を括れ」
「はい……!」
ジャンヌが剣を構え、一点を見据える。
だが――。
「遅いよ」
リリィの囁き。
その瞬間、廉とジャンヌの視界から未来の輝きが 消えた 。
「……え?」
ジャンヌの瞳が驚愕に強張る。
何も視えない。何も選べない。
灰色の絶望だけが、視界を埋め尽くしている。
「……未来が……一つも視えない……?」
「違うよ」
リリィが、いつの間にか目の前に立っていた。
「全部 取った の。君たちが選ぶ前にさ」
廉の表情が凍りつく。
(……可能性そのものを、根こそぎ奪われたってのか……!?)
「これが、積み上げてきた 差 だよ」
リリィが、慈悲のない手を伸ばす。
「終わり。さよなら」
絶体絶命。その瞬間。
「ジャンヌ!!」
廉が、喉を潰さんばかりの勢いで叫んだ。
「隠し持ってるはずだろ! お前の中にだけあるやつを!」
ジャンヌの瞳が、激しく揺れる。
(……残してる……?)
その言葉で、魂に刻んだ記憶が蘇る。
そうだ。彼女は、核のすべてを奪わなかった。
自分の覚悟で背負える分だけを――。
「――あります! まだ、消えていません!!」
彼女が、己の魂を握りしめるように手を掲げた。
――一点突破
――強制奪取
――代償:極大
「それだ!! ぶちかませ!!」
廉が叫ぶ。
「行け!!」
ジャンヌが、因果の壁を突き破るように踏み込んだ。
「――奪い返します!!」
リリィの瞳が、初めて戦慄に揺れた。
「……え?」
完全に予想外。
奪い尽くしたはずの地平に現れた、未知の 残存する未来 。
その純粋すぎる一撃が、少女の虚無を貫いて届く。
ドンッ!!
凄まじい衝撃。
リリィの身体が、初めて無様に、大きく後方へと揺らいだ。
「――っ!!」
彼女の支配していた未来が、激しく揺らぐ。
その一瞬の隙。廉が、前に出る。
「今だ!! 場を固めるぞ!」
廉が、乱れた情報の糸を強引に束ねた。
――均衡成立
――相互損耗
――戦闘停止
「……これでいい。一旦幕引きだ」
小さく、祈るように呟く。
衝突していた未来の奔流が、互いを打ち消し合うように静かに収束していく。
完全な、静寂。
場にいた全員の動きが、糸が切れたように止まった。
リリィが、ゆっくりと姿勢を正す。
「……今の……」
少女は、自分の掌を不思議そうに見つめた。
「私から、取ったの……?」
ジャンヌが、肩で激しく息を切らしながらも立ち上がる。
「……ほんの少し……ですけどね」
リリィが、二人をじっと見つめた。
その瞳に宿っているのは、初めての 変化 。
「……やるじゃん、君たち」
少女は、小さく口角を上げた。
「まさか、この私から奪い返されるなんて思わなかったよ」
廉が、膝の震えを隠しながら不敵に笑う。
「……勝ったなんて、これっぽっちも思っちゃいねえよ」
「うん。正解」
リリィが頷き、一歩、後ろへと下がった。
「今日はここまでにする。これ以上は無駄骨だもん」
ジャンヌが、驚きに目を見開く。
「……引くのですか?」
「だってさ」
リリィは、肩をすくめて笑った。
「これ以上やると、私のストックが減るだけで 損 しかしないし。プレイヤーとしては、赤字は出したくないんだよね」
徹底して合理的な判断。
彼女は、紛れもなくこの世界の プレイヤー であった。
「それに」
少女は、少しだけ楽しげに目を細めた。
「またやりたいしね。君たちとの奪い合い」
その言葉が放たれた瞬間、場を支配していた殺気がわずかに弛緩した。
「……次は、根こそぎいただくよ」
リリィが、ジャンヌに指を差す。
「その 核 もね。大事に育てておいて」
ジャンヌが、自らの胸元を強く握りしめる。
「……絶対に、渡しません」
「うん。知ってる」
リリィは、そのまま背を向けた。
「じゃ、またね。生き残ってたら、また会おうよ」
軽く手を振り、少女の姿は。
淡い霧が消えるように、空間から抹消された。
静寂が、再び降りてくる。
「……はぁ……死ぬかと思った……」
ジャンヌが、その場に力なく座り込んだ。
「……文字通り、綱渡りでしたね……」
「ああ。肝が冷えたぜ」
廉も、大きく溜息をついた。
だが――。
その口元には、わずかな自嘲と、それ以上の高揚が混じった笑みが浮かんでいた。
「……でも、ジャンヌ」
ジャンヌが顔を上げる。その瞳には、確かな光が宿っていた。
「戦えました。あんな怪物相手に、私たちは通用したんです」
廉が、力強く頷いた。
「ああ。俺たちの力が、あいつに届いた」
それが、この絶望的な世界で掴み取った何よりの 勝利 であった。
だが同時に。
「……まだ、圧倒的に足りねえな」
その冷厳な現実も、はっきりと浮き彫りになった。
「はい」
ジャンヌが立ち上がる。その足取りは、先ほどよりも力強い。
「もっと、奪います。九条さんと、最後まで生き残るために」
廉が、少しだけ優しく笑った。
「その調子だ。地獄のプレイヤー同士、仲良く奪い合ってやろうじゃねえか」
二人は、地平の先を見つめた。
この世界には、まだ見ぬ強敵、まだ見ぬプレイヤーが無数に潜んでいる。
「……面白くなってきやがった」
その言葉とともに。
二人は、次なる戦場、次なる可能性を求めて歩き出した。




