13話 紫宸殿の月
古都の夜を切り裂き、三つの影が疾走する。
千本通から今出川通へ。普段であれば夜間でもタクシーのライトが絶えない大通りは、今や墓場のような静寂に包まれていた。聞こえるのは、アスファルトを叩く激しい足音と、限界を超えて鳴り響く冷却ファンの駆動音だけだ。
「カイト、大丈夫……!? モーターの温度、レッドゾーンに入ってるよ!」
ベルが走りながら叫ぶ。彼女もまた、重厚なアザトース・改を抱えながらの長距離疾走で、バイタルデータは黄色い警告を発していた。
「……走れる、まだ行ける……!」
カイトは、激しい頭痛に耐えながら答えた。右腕に装着されたガントレットが、周囲の磁場に干渉し、時折パチパチと黒い火花を散らす。
不思議なことに、千本今出川の交差点を過ぎ、京都御所の北西に位置する「乾御門いぬいごもん」に到着するまで、玉藻前の追撃は一切なかった。まるで、獲物が自ら網に掛かるのを待っているかのような、不気味なまでの静けさだ。
「……変だよ。あのキツネ、あんなに圧倒的だったのに、どうして追ってこないの?」
ルークが乾御門の巨大な扉を潜りながら、周囲を警戒するように視線を走らせる。
三人は、B班のトラたちが最期に遺したメッセージを信じるしかなかった。
『京都御所、紫宸殿ししんでんを中心とした結界――そこに向かえ』
その言葉だけが、暗闇の中の微かな道標だった。
広大な京都御所の敷地内。背の高い松の木々が影を作り、白い砂利が月光を反射して青白く光っている。
何事もなく、三人は御所の中心部、最も格式高い正殿である紫宸殿の前に広がる**南庭なんてい**へと辿り着いた。
そこには、平安の昔から変わらぬ、静謐で、どこか現実離れした光景が広がっていた。
白砂が敷き詰められた広大な庭の向こうに、巨大な檜皮葺ひわだぶきの屋根を持つ紫宸殿が、威厳を持って鎮座している。
「……ここが、最期の場所?」
ベルが周囲を見渡し、通信デバイスを叩く。
「基地へ救援要請! ……ダメ、やっぱり通じない。ノイズが酷すぎるわ」
「……おかしいな」
ルークが鼻をひそめる。
「結界があるって話だけど、何も感じないよ。それに、この静けさ……まるで世界から僕たちだけが切り離されたみたい――」
「――っ、……あ、がぁッ!!」
突如、カイトが膝をついた。
その耳には、これまでの比ではない、脳を直接掻き回されるような暴力的なノイズが突き刺さっていた。
「カイト!? しっかりして!」
「逃げろ……二人とも、来る……奴が、来る……!」
カイトの視線の先。
紫宸殿の真上の空が、まるでガラスが砕けるように「歪んだ」。
不可視の障壁が粉々に粉砕され、その破片が銀色の光となって夜空に舞い散る。
結界が壊されたのではない。
「その存在」が歩くだけで、守護の概念そのものが崩壊したのだ。
陽炎が揺らぐように、月明かりの下に一人の女が姿を現した。
カラン、コロン。
静まり返った南庭に、下駄の乾いた音が響き渡る。
九本の尾を、重厚な扇のように広げ、玉藻前は優雅にその場に立ち尽くした。
「……ああ、懐かしいわね。この場所の風、この土の匂い。かつて私が、あの男の隣で眺めた景色にそっくり」
彼女はうっとりと、紫宸殿を見上げた。
そして、ゆっくりと、蛇が獲物を捉えるような温度のない視線を、膝をつくカイトへと戻す。
「……貴方ね」
玉藻前の声には、抗いがたい魔力と、深い慈しみ、そして絶対的な拒絶が混ざり合っていた。
「貴方は、本来なら神聖であるべき『命の火』を宿している。……けれど、同時に。あってはならない、汚らわしい力を手にしてしまった。その右腕に宿る『王』の欠片……。それは、貴方が持ってはいけない力よ」
彼女は一歩、また一歩と歩み寄る。
「だから、私が会いに来たの。貴方のその、穢れてしまった力を……存在ごと抹消してあげるために」
カイトは立ち上がろうとするが、体の制御が効かない。内部の汚染データが玉藻前の波動に共鳴し、システムを内側から焼き切ろうとしていた。
「苦しいわね。すぐに、楽にしてあげるから」
玉藻前が、可憐な、だが死を司る死神のような掌を、動けないカイトへと向けた。
「――させねぇよ!!」
影が走った。
ルークがカイトの前に躍り出し、その体を突き飛ばして回避させる。
刹那、玉藻前の掌から放たれた不可視の波動が、カイトがいた場所の砂利をクレーター状に陥没させた。
同時に、ルークの周囲にノイズ混じりの激しいスパークが迸る。
カイトのガントレットから漏れ出した「汚染された電力」が、ルークの伝導効率を極限まで高めていた。
「ハァッ!!」
ルークが抜刀する。
彼が持つ小刀に、蓄積されていた全ての電撃がチャージされた。
ただの雷ではない。カイトの汚染ノイズと、ルークの純粋な出力が混ざり合った、禍々しくも鋭い紫電の斬撃。
ガキィィィィン!!
「っ……!?」
玉藻前が、初めてその顔に驚愕の色を浮かべた。
彼女の美しい、白磁のような掌に、ルークの紫電が直撃したのだ。
肉が焼ける嫌な臭いと共に、彼女の手のひらが黒く焦げ付く。
「今だ、ベル!!」
「墜ちて――!!」
紫宸殿の屋根の上。いつの間にか位置取っていたベルが、アザトース・改の引き金を引き絞る。
超高初速で放たれた大口径の徹甲弾が、月光を切り裂いて飛来した。
――ドォォォォォォン!!
弾丸は、ルークの斬撃で防御が揺らいだ玉藻前の掌を、中心から粉砕した。
肉と、人ならざる者の血液が飛散する。
「やった……!?」
ルークが着地し、荒い息を吐く。
だが、その期待は一瞬で打ち砕かれた。
玉藻前は、動揺することなく、粉砕された自分の腕を静かに下ろした。
九本の尾が激しく波打ち、彼女の周囲に黄金の魔力が集束する。
次の瞬間、失われたはずの掌が、陽炎が固まるように再生していく。
しかし。
「……何?」
玉藻前が、自分の掌を凝視した。
失われた肉は再生した。だが、その表面には、ルークが刻んだ「紫電の焦げ跡」だけが、消えることなく醜く残っていたのだ。
「再生が、止まってる……?」
ルークがそれを見逃さなかった。
「……そうか。カイトの汚染ノイズ……あいつの『呪い』が混じった攻撃は、あんたの再生能力すら上書きするのか!」
「……不愉快ね。本当に、不愉快だわ」
冷静だった玉藻前の声が、一気に氷点下まで下がる。
彼女の瞳から、慈悲の光が消え、底知れない殺意が溢れ出した。
「ルーク、ベル! 離れて――」
カイトの叫びは、間に合わなかった。
風が吹いた、と思った時には、玉藻前の姿は南庭から消えていた。
「え……?」
ベルの視界が、一瞬で反転する。
紫宸殿の屋根の上にいたはずの彼女の首元を、玉藻前が冷徹な力で掴み上げていた。
「カハッ……あ、がっ……」
「まずは、羽虫からね」
玉藻前が腕を振るった。
ただの投擲ではない。大気を爆発させるような怪力で、ベルの体は紫宸殿の巨大な屋根を突き破り、その奥へと叩き込まれた。
「ベル――ッ!!」
屋敷を貫き、小御所こごしょと清涼殿せいりょうでんの間に位置する中庭まで飛ばされたベルは、激しい衝撃と共に地面を転がり、意識を失った。アザトース・改が、力なく庭の苔の上に転がる。
カイトは依然として立ち上がれない。
南庭に残されたのは、玉藻前と、小刀を構えるルークの二人だけ。
「……次は貴方よ。その薄汚い力を貸した報い、受けてもらうわ」
玉藻前が歩み寄る。
絶体絶命。
だが、ルークの瞳には、絶望の色はなかった。
「……はは、まいったな。一人でこのキツネさんの相手かよ」
ルークが小刀を握り直し、腰を落とす。
彼の体内で、これまでの戦闘では決して使われることのなかった、禁断の領域のエネルギーが脈動し始めた。
「カイト……見てなよ。僕だって、ただのお調子者じゃないんだ」
ルークの全身が、異様な熱を帯びる。
それは、旧型と新型のパーツを無理やり組み合わせた、彼の「歪な構造」だからこそ生み出せる、高負荷のオーバーヒート・モード。
旧新配合実験型アンドロイド。
その言葉が意味する真の力が、彼の演算回路を真っ赤に焼き焦がしながら覚醒していく。
「あんたのその綺麗な顔……僕の全エネルギーで、もっとボロボロにしてやるよ!!」
ルークの咆哮が、静寂の京都御所に響き渡った。
彼の背後から、噴き出すような蒼い炎と、カイトから
譲り受けた紫のノイズが混ざり合い、巨大な光の翼のように広がっていく。
戦いは、いよいよ極限の死闘へと突入する。




