10話 それはバグか進化か。
「……ふぅ。やっぱり基地のメンテナンス・ポッドが一番落ち着くね。樹海の苔の匂い、鼻の奥にこびり付いちゃったかと思ったよ」
ベルが第2層で外装の洗浄を終え、伸びをしながらポッドから這い出した。隣では、ルークが新調されたばかりの左腕を眺めて「うーん、やっぱり前のより少し艶がいい気がする」と、どうでもいいことにこだわっている。
だが、二人の呑気な空気とは対照的に、彼らの担当メンテナンス師の表情は険しかった。カイトの機体から吸い上げられた戦闘ログとバイタルデータ。そこに刻まれた数値は、アンドロイド工学の常識を根底から覆すような、異常な「波」を描いていたからだ。
「……これは、私一人では判断できない。すぐに第4層へ転送を」
数時間後、 国家怪魔対策総局、第4層。
そこは、選ばれた研究員と一部の特権階級のみが足を踏み入れることを許される、科学と神秘が交差する聖域である。無機質な白銀の壁には、幾重にも張り巡らされた光ファイバーが神経系のように脈動し、巨大なサーバー群が発する微かな低周波が、訪れる者の精神をじりじりと圧迫していた。
その中心にあるメインブリーフィング室。ホログラム投影機が描き出したのは、カイトの体内システムを蝕む「毒」の推移グラフだった。
≪確認データ:汚染率の変化≫
酒呑童子戦闘直後
・データ汚染率:87%
・除去不能、システムを腐食中。
野衾戦、スパーク放出時
・データ汚染率:42%
・ノイズを含んだ電撃を放出した瞬間のみ減少。
基地帰還直後
・データ汚染率:87%
・減少したはずの汚染が元の数値に「再生」。
スパーク直後の電力出力スペック
・通常時の50%
・電力消費は抑えられているが、効率が極めて悪い。
ーーー「……見ての通りだ。通常、データ汚染とは、論理回路を物理的に焼き切る、あるいは演算を無限ループに陥らせるだけの純粋な『毒』に過ぎない。アンドロイドにとっては、致死的な劇薬だ」
一人の研究員が、鼻梁にずり落ちた眼鏡の縁を、震える指で押し上げた。その瞳には、恐怖を通り越した「科学者としての悦び」が、薄気味悪い光を灯している。
「しかし、カイト個体のデータは、その常識を嘲笑っている。……これを見てくれ。先日の野衾との戦闘中、彼がスパークを放った瞬間のログだ」
研究員が空をなぞると、グラフの一角が大きくクローズアップされた。真っ赤に染まった汚染率の数値が、戦闘中の一時期だけ、不自然なほど急激な「谷」を描いている。
「一時的に汚染率が大幅に低下している。……つまりだ。彼は、体内に居座り、決して除去できなかった『酒呑童子』の呪いそのものを、自らのエネルギーへと変換し、攻撃手段として消費した可能性がある。本来、自分を殺すはずの猛毒を、火種に変えて火を吹いた……というわけだ」
「バグを動力源に、だと?」
腕を組み、影の中からその様子を凝視していた司令官が、深く、苦い眉間を寄せた。その表情は、救世主の誕生を喜ぶ者のそれではなく、手に負えない化け物を前にした調教師のそれに近い。
「まるで、ガソリンの代わりに毒薬を燃やして走るエンジンだな。……効率は最悪だが、爆発力だけは未知数か。あまりに危うい」
冷徹なその声が、室内の冷気をさらに一段階引き下げた。この異例の事態を受け、カイトは再び「被検体」として、第4層の深部へと呼び出されることとなった。
そこは、通常の訓練施設とは一線を画す、隔離された試験場だった。
壁面は対怪魔用の強化カーボンプレートで覆われ、天井からは数十台の多角点観測カメラが、獲物を狙う猛禽のように首を下げている。
試験場の中心。眩いほどのセラミックホワイトに塗りつぶされた空間に、カイトは一人、立ち尽くしていた。
「……僕自身、よく分かっていないんです」
カイトの声が、高い天井に反響し、虚しく消える。
彼は自分の右手の平をじっと見つめていた。指先の継ぎ目から、時折、微かな青白い光が漏れては消える。
「あの時、確かに視界がガラス細工みたいにひび割れるような、強烈なノイズが走った。……でも、それが不快かと言われると……むしろ、逆だった。回路の奥底が、燃えるように熱くなる……あれは、恐怖というより、奇妙な高揚に近い感覚でした」
カイトの独白を、防護ガラスの向こう側で二人の仲間が聞き守っていた。
「カイト、あんまり難しく考えちゃダメだよ。気楽に、ね? エリートの君がここで壊れちゃったら、僕、誰とチェスを打てばいいのか分からなくなっちゃうから」
ルークが、気安く防護ガラスを指先で弾きながら、ひらひらと手を振った。いつもの飄々とした笑顔だが、その青い瞳の奥には、友を案じる鋭い光が潜んでいる。
「そうだよ、カイト。……嫌な感じがしたら、すぐに止めて。私たちがなんとかするから」
ベルもまた、祈るように両手を胸の前で組み、身を乗り出していた。彼女の銀色の髪が、室内の殺風景な照明を反射して、儚く、美しく煌めいている。
「いいか、カイト。実験を開始する」
スピーカー越しに、研究員の冷たい声が響く。
トレーニングルームの対面に、ボロボロになったマネキン型のアンドロイドが運び込まれた。それは意図的に「酒呑童子の汚染」を模した高濃度汚染データを流し込まれた、いわば「怪魔の偽物」だ。
「前の戦闘と同じイメージだ。あの時の感覚を呼び起こし、標的に向けてスパークを放ってみろ」
「……了解」
カイトが静かに、だが重く息を吐いた。
彼は右足を一歩引き、重心を低く構える。
関節の駆動音が、静まり返った部屋に「ウィーン」と澄んだ音色で響いた。
「……出力、20%。照射、開始」
カイトが右手を突き出す。
刹那、パチパチと弾けるような蒼白いスパークが放たれた。それは、この基地で最も優れた「模範的個体」である彼が、幾千回と繰り返してきた、教科書通りの美しい電撃だった。
冬の夜空に瞬く星のように、青く、一点の曇りもない閃光。
「……ん? 普通だね。いつもの、非の打ち所がない『優等生カイト』の電撃だよ。ちょっと拍子抜けかな」
ルークが、安心させたがっているのか、わざとおどけた調子で肩をすくめる。
だが、その言葉が終わる前に、観測モニターの波形が狂ったように踊り始めた。
「……待て。違う。……波形を拡大しろ! 0.001秒単位でクロップだ!」
研究者の叫び。
スロー再生された映像の中で、その「美しさ」は一変した。
蒼白い火花。その中を、まるで異形の蛇のように、真っ黒なノイズが這い回っていたのだ。
それは、空間そのものをミキサーで掻き乱すような、不規則で禍々しい漆黒のスパーク。光というよりは、影が実体化したかのような「暗い電気」が、蒼い光を内側から食い破っている。
「――っ、……あ、がッ……!!」
その瞬間、カイトの膝ががくりと折れた。
彼の視界は瞬時に真っ赤な警告ログで埋め尽くされ、脳内を数万個の針で突き刺されるような激痛が奔る。
「……また来た……この、ノイズ……!!」
カイトの顔が、苦痛に歪む。
彼の美しい端正な横顔を、青白い光と黒い影が交互に照らし出す。その姿は、神罰を受ける天使のようでもあり、あるいは初めて己の牙を自覚した野獣のようでもあった。
決定的な変化は、標的のデータに現れた。
「見てください! スパークを受けたマネキンの汚染率が……消えている! 低下しているなんてレベルじゃない、まるで『喰らわれて』いるようです!」
研究者たちが、狂喜の声を上げる。
カイトの放ったノイズ混じりの電撃。それは、ただのエネルギー放出ではなく、怪魔の汚染を中和し、捕食する「対怪異の絶対的な牙」へと変質していたのだ。
それは、現代の科学が何十年かけても到達できなかった、酒呑童子への唯一の対抗手段。
「……ただし、代償も大きいようだ」
司令官の低い声が、沸き立つ研究者たちを沈黙させる。
カメラが捉えたのは、肩で激しく息をするカイトの、
小刻みに震える手先だった。
「……カイト。今の放出で、内部回路がどれだけ摩耗したか……自覚はあるか」
カイトは、自分の右手を、他人の持ち物を見るような目で見つめた。
美しく磨き上げられた指先の隙間から、まだ微かに、黒い煙のようなノイズが立ち上っている。
「……いえ。電力消費そのものは、驚くほど少ないです。……でも、感覚が、おかしいんです。……まるで、脳内を直接ヤスリで削られているような……自分の輪郭が、少しずつ削げ落ちていくような……そんな、吐き気を伴う疲労感があります」
カイトの言葉は、重く、沈んでいた。
彼が見つめるその手は、仲間を救うための剣なのか。それとも、自分自身を内側から食い破り、異形へと変えるための呪いの印なのか。
その場に、重苦しい沈黙が降りる。
それを破ったのは、防護ガラスの向こうから響く、いつも通りの軽快な声だった。
「……あはは。面白いじゃない。君、もうただの『エリート様』卒業だね、カイト」
ルークが、ニヤリと不敵に笑う。その瞳は、カイトの「恐怖」を笑い飛ばそうとする、強烈な意志に満ちていた。
「『呪われし勇者』……ってところかな。ほら、漫画とかでよくあるでしょ? 強すぎる力を持っちゃって、自分にビビっちゃうカッコいい主人公。……似合ってるよ、カイト。君、もともとちょっと堅苦しすぎたからね」
「……ルーク」
カイトは、力なく苦笑した。その笑顔はまだ痛々しいものだったが、ルークの言葉が、彼の崩れかけた「自分」を繋ぎ止める楔になったのは間違いなかった。
謎は深まり、不安は消えない。
しかし、研究者たちは――そして司令官は、この「変
化」を徹底的に利用することを決断した。
カイトの瞳の奥で、蒼い光に混じり、一瞬だけ灰色のノイズが鮮烈に奔る。
たとえその先に、取り返しのつかない破滅が待っていたとしても。
彼らはもう、後戻りのできない奈落への階段を、一段登ってしまったのだ。
「……さあ、行こうか。勇者様」
ルークの明るい声が、冷たいトレーニングルームに、束の間の救いのように響き渡った。




