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9話 加速する弾丸

青木ヶ原樹海の深部は、もはや「森」という概念を超越した、巨大な緑の牢獄と化していた。


湿った土と腐敗した落ち葉の匂い、そしてアンドロイドの冷却ファンが吐き出す熱気が混じり合い、センサーには常に不快なノイズが走る。空を覆い尽くすほど巨大なブナやナラの枝葉は、わずかに残った日の光を強引に遮断し、地上には濃厚な影を落としていた。


「……おっかしいなぁ。僕の最新式鼻利きセンサーだと、この辺りから『焦げたムササビ』の匂いがぷんぷんするはずなんだけど」


ルークは、鼻先をひくつかせながら、自重を支えるのも一苦労なほどに高く生い茂ったシダ植物を強引にかき分けた。彼の銀髪の端には、樹海特有のしぶとい霧が水滴となって付着している。軽口を叩いてはいるものの、その青い瞳は一点の曇りもなく周囲の動体反応を逃さない。


逃げた野衾(のぶすま)を追って数分。負傷しているはずの獲物の足跡は、奇妙なほどに追跡を拒んでいた。いや、足跡というよりは、空を切る翼の残した風の乱れが、樹海の複雑な気流に紛れて消えていくのだ。


「ルーク、無駄口を叩くな。五感を研ぎ澄ませ。……右だ」

カイトの短い警告。その声には、冷徹なまでの冷静さと、どこか自分自身を律するような切迫感が混じっていた。


その瞬間、巨木の太い幹の影から、異形の影が二体、弾丸のような速さで飛び出した。二メートル級の巨躯を誇る小鬼だ。赤黒い筋肉がはち切れんばかりに隆起し、濁った瞳で咆哮を上げながら、鋭い鉤爪をルークの喉元へと突き出す。


だが、ルークは足を止めることすらしなかった。

「はいはい、通りまーす。お邪魔だよ、赤鬼さん!」

ルークの腰の後ろ。横掛けされた黒い円柱が、彼の意思に呼応して「カシャッ」と機械音を鳴らす。一瞬。筒状のグリップから、紫色の淡い光を帯びた電子ブレードが鋭く伸長し、小刀の形へと変貌を遂げた。


ルークは流れるような動作で一体目の小鬼の懐へと滑り込む。相手の爪が彼の鼻先をかすめるよりも早く、逆手に持った小刀を一閃。鞘の中でチャージされていた高電圧が、接触した瞬間に爆発的なエネルギーを放った。


「――っ!」

横一文字に焼き切られた小鬼の胸元から、焼け焦げた肉の臭いと電磁火花が散る。ルークは止まらない。反動を利用して独楽のように回転すると、返す刀で二体目の小鬼の喉元を精密に突き刺した。内部のコアへ向かって、バイパスを通じた過負荷電流を直接流し込む。


小鬼は叫び声を上げることすら許されず、内側からショートして崩れ落ちた。

「……ふぅ。カイト、後退はゼロ。このまま最短ルートで進めるよ。僕の左腕も、今のところ機嫌がいいみたいだ」

「……ああ。鮮やかなものだ。……行くぞ」


カイトは短く答え、ルークの横を通り抜けた。だが、その一瞬のすれ違い際、ルークはカイトの瞳の奥に、不規則なバグの点滅を見た気がした。カイトの視線は、目の前の景色を見ているようで、その実、どこか別の次元……虚空を彷徨っているような危うさがあった。


一行が樹海の最深部、その「中心地点」へと辿り着いた頃、世界はその色を変えていた。

頭上のわずかな隙間から見える空は、燃えるような茜色から、命を吸い取るような深い藍色へと混じり合っている。夕焼けの最後の一滴が樹海を赤く染め上げ、影はいよいよその色を濃くしていく。


その濃密な暗がりの向こう側に、淡い、不気味な青紫色の光が拍動しているのが見えた。

「――ドンドンドン、ドンドン……」

カイトが足を止めた。重い地響きのような、あるいは厚い壁を内側から叩くような、鈍い衝撃音が等間隔で響いてくる。


三人が慎重に、足元の枯れ枝を鳴らさないよう光の方へ歩み寄ると、そこには異様な光景が広がっていた。

空間そのものが刃物で切り裂かれたかのように、紫色の稲妻を放つ「時空の亀裂」が空中に浮かんでいる。その亀裂に対し、先ほど逃げたあの野衾が、ボロボロになった皮膜を必死に広げ、何度も、何度も、頭から体当たりを繰り返していたのだ。


ドォン、と重苦しい音が響くたびに、野衾の身体が跳ね返される。焦げ跡だらけの翼は、もはや飛ぶための道具というよりは、ボロ布のようだった。それはまるで、唯一の逃げ道であるはずの自宅の扉を、内側から鍵をかけられ、必死にこじ開けようとする敗残兵の姿そのものだった。


「あれ、やっぱりさっきの同一犯だね。焦げ跡が痛々しいというか……自業自得というか」

ベルがスナイパーライフルの重厚なストックを肩に当てたまま、不思議そうに首を傾げる。

「ねえ、何してるの? 自分の家に入れないなんて、鍵でも失くしちゃったの?」

「いや、違うよ、ベル」

ルークの声が低くなる。彼の背筋には、言い知れぬ冷たい感覚が走っていた。


(……変だ。あの上野で戦った、あの『鬼の王様』……酒呑童子は、いとも簡単にこの歪みに手を入れ、自在に武器を引き出していた。なのに、この野衾は拒絶されている。まるで、システムから『お前はもう不要だ』って削除されたみたいに……)



「キシャァァァッ!!」

三人の視線に気づいた野衾が、絶望に染まった悲鳴を上げた。血走った瞳が背後の三人を見る。歪みに入るのを諦めたのか、あるいは最後の一太刀を浴びせようというのか、野衾は残された全ての力を振り絞り、巨木を蹴って空高くへと舞い上がった。


「うわっ、最後の悪あがきってやつ!? 結構速いっ!」

ベルが身を低くし、瞬時に回避行動をとる。

野衾は樹海の巨木の枝を支点に、重力と遠心力を利用した驚異的な機動を見せた。上空から、右から、斜め後ろから。夕闇に紛れる影が、目にも留まらぬ速度で突撃を繰り返す。


――ガギィン!!

「チッ……!」

カイトがアサルトライフルの銃身で、野衾の鋭い爪を受け流す。野衾はそのまま地面を蹴り、再び上空へと消える。


続いて、ルークの死角を突くように、背後から音もなく降下。しかし、野衾の動きには、最初にはなかった決定的な欠点があった。


(動きが、鈍い。……いや、違うな。必死すぎて軌道が直線的なんだよ)

ルークは自身のクロック速度を限界まで引き上げ、周囲の景色がスローモーションになる感覚の中で、野衾の影を凝視した。

野衾が、頭上の大枝を蹴り、弾丸となってルークの正面へと突っ込んでくる。風を切る皮膜の音が、耳元で絶叫のように響く。


「……見えた。君の遊び場は、もうおしまいだ」

巨体が眼前に迫った瞬間、ルークはあえて武器を引いた。代わりに、全身の油圧シリンダーを限界まで過負荷駆動させ、大地に深く足を食い込ませる。


「せーのっ!!」

ルークは、突っ込んできた野衾の、鋼鉄のように硬い毛に覆われた胸ぐらを、両手でガシリと掴み上げた。


「ギ、ギガァッ……!?」

正面衝突の衝撃を、ルークは後方にわずかに滑ることで逃がし、そのまま野衾の慣性を利用して、自身の跳躍力と腕力を一つに融合させた。


「重いけど……飛ばしてあげるよ。ほら、高い高いだ!」

全身をバネのようにしならせ、ルークは掴んだ巨体を、木々の葉がわずかに切れた「空」の隙間を目掛けて投げ飛ばした。砲弾のような勢いでぶん投げられた野衾は、重力に逆らい、一気に高度を上げる。


「ギ、ギィィッ!?」

空中へと放り出された野衾は、パニックに陥りながらも、落下を防ぐために反射的にその大きな皮膜を限界まで広げた。周囲の枝を巻き込み、少しでも空気抵抗を増やして受け身を取ろうとする。


だが、その行動こそが、ベルがコンマ一秒の狂いもなく待ち望んでいた「獲物の姿」だった。


「待ってたよ、お寝坊さん」


ベルは既に、苔むした岩陰にバイポッドを深く突き立て、『アザトース・改』を完璧に固定していた。

視界を塞ぐのは、無数の枝と、夕闇の影。普通の狙撃手であれば、ターゲットを視認することすら困難で、射撃を断念するほどの障害物だ。


だが、ベルの瞳――高精度の索敵センサーは、枝の隙間にわずかに露出した「コア」の熱源を逃さない。そして、彼女の持つ銃は、物理の常識を塗り替える。


「……距離420。風向、影響なし。弾道計算完了。……加速、開始」

ベルが静かに引き金を引いた。



――ズ、ドォォォォォン!!



大気を震わせ、樹海を揺らす重厚な銃声。

マズルブレーキから放たれた衝撃波が、周囲のシダを激しくなぎ倒す。


放たれた弾丸は、直線上にある太い枝へと吸い込まれた。


――パァンッ!!


一本目の枝を貫通した瞬間、弾丸内部の特殊な圧電素子が作動。物体を貫通した際の衝撃をエネルギーに変換し、内蔵されたマイクロブースターが点火した。


――シュパァァンッ!!


弾丸は空中で火花を散らしながら、一気に初速を上回る速度へと「加速」する。

二本目、三本目の枝を突き抜けるたびに、弾丸はエネルギーを増幅させ、もはや実体を持った弾金というよりは、空を裂く「青白い閃光」へと変貌を遂げていた。


ベルにとって、視界を塞ぐ障害物は敵ではない。それは弾丸をさらに加速させるための「踏み台」に過ぎないのだ。

閃光は、皮膜を広げた野衾の胸の中央を、寸分の狂いもなく射抜いた。

そこには、ムササビの生態を模したこの妖怪の、唯一の急所である「心臓」……そして「核」が存在していた。


――ドッシャァァァァン!!


野衾の巨体を貫いた閃光は、そのまま減速することなく天高くへと突き抜け、薄暗い雲を裂き、大気中で華やかな蒼い花火となって破裂した。


「……ビンゴ。心臓、直撃。……っていうか、貫通しすぎ?」

静寂が戻った空中。

野衾の胸から、ひび割れたガラスのような灰色の光が溢れ出す。


核を破壊された巨体は、空中で重力を完全に失ったかのように一瞬だけ静止した。そして、断末魔の声すら上げることなく、粉雪のような、冷たい灰となって樹海の闇へと吸い込まれていった。


「……ふぅ。ラッキー。ちょうどあそこに核があったみたい。私ってば、やっぱり天才?」

ベルはライフルの銃口から立ち上る、紫色の熱い煙を、ふーっと愛らしく吹き消した。頬を上気させ、得意げにルークの方を見る。


「天才だよ、ベル。……でも、その天才的な射撃のあとの掃除、誰がやると思ってんの? 見てよこれ、僕の自慢の髪の毛が、君の撃った枝の木屑でボロボロだよ」


ルークが、バラバラに粉砕されて降り注いできた枝の山を指差し、大げさに肩をすくめて見せた。


「いいじゃん、後で私がブラッシングしてあげるから! さ、帰ってスパークジュース飲も!」

ベルの明るい声が樹海に響く。


一件落着。しかし、ルークは軽口を返しつつも、視線を空へと戻した。


消えていった灰の行方。そして、最後まで「自分の居場所」に入れてもらえなかった、あの惨めな野衾の姿。


拭いきれない違和感。


あの「歪みの亀裂」は、まだそこにあり、夕闇の中で不気味に拍動を続けている。

酒呑童子という、圧倒的な「個」がもたらした異変は、まだ始まったばかりなのだという予感を、ルークは捨て去ることができなかった。


「……帰ろうか。カイト、ベル。基地でサクラ先輩が、動画のネタを探して待ってるはずだ」

ルークは努めて陽気に振る舞い、二人の背中を押した。

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