夜のサーカス(5)
「ごめんさいね。あまりにも遅いから迎えに……くっさい。なにここ。すっごい血の臭いがするのだけれど。いや、というか辺り一面血だらけで少し引くわ」
「あははは……っ」
ふだんと変わらぬ物言いに、アイリスは苦笑いを浮かべる。
その拍子に腹部の傷口に激痛が走り、彼女は顔を歪ませ、その場に座り込んでしまう。
赤い血液が止めどなく流れ出す。アイリスの下には、小さな水溜りの様に血が広がった。
イビルシャインは、そこで初めてアイリスが致命傷だと知り、急いで治癒魔法を施そうとする。
「ちょっと、待っていて。直ぐに治癒するから」
「ぁ、す、すいません。迷惑かけちゃって……」
「いいから。『部位蘇生』」
アイリスの腹部に手を当てると同時に魔法が発動する。暖かな光が、アイリスの傷口を照らしたのは一瞬。
時を待たずして、彼女の流血は止まり痛々しい風穴も塞がりを見せた。
アイリスは消えた痛みに安堵する。完治を確認すると、イビルシャインはすぐさま、客席に視線を移した。
「で、あの女。いえ、あのドッペルゲンガ―は何?」
「あれは、化け物ですよ……」
「いや、違くて。あいつは何者かを聞いているのよ」
「あ、ごめんなさい。えっと、闇ギルド『終わりの七日間』のフレイアです。ここは、あの女がおそらく管理している見世物屋で、私達はついさっきまで、殺し合いをさせられて、それで――」
「あなたはフレイアに勝負を挑んだ……ってところかしら」
「はい」
アイリスはお礼を言う間もなく、質問に答える。その間もイビルシャインは、視線を客席から逸らすことはない。
イビルシャインの背を見ながら、アイリスは自身の緊張感が解けていくのを感じた。
今さらになって、大量の汗が流れ落ちる。心臓の鼓動も激しくなっていた。
死が目の前まで迫っていた実感をこの瞬間、改めて体感したのだ。
「あ~、びっくりした」
「――!」
おどけた声が背後から聞こえた。アイリスは驚愕を露わにした。
いつの間に彼女は移動したのか。
少し目を離した瞬間に場所を移動するなんてありえない。
信じがたい形相でアイリスは、背後に立つフレイアへ振り返る。
距離こそあるが、いったいどうやって。
生唾を飲み、アイリスは冷静に思考を巡らせた。
「まさか、転移魔法?」
アイリスの行き着いた答えは魔法による転移だった。
第五流出魔法の『転移魔法』ならば、あの距離を瞬時に移動できるはずだ。
しかし、仮にそれが正解ならば、その事実はアイリスにとって絶望的だった。
第五流出魔法を扱えるほどの実力者に勝てるはずがない。
助けに来たイビルシャインですら扱えるのは第四流出魔法までだ。
固有魔法すら無傷で耐える防御力。更に第五流出魔法とモンスターの能力。
手数が違いすぎだ。それら全ての要素も自分達を上回っている。
最早、勝利する要素は皆無。アイリスの頭には絶望のみが広がっていた。
しかし、イビルシャインは普段と変わらぬ態度で、アイリスの答えを否定した。
「違うわね。言ったでしょ。あいつはドッペルゲンガ―だって」
「ど、どういう意味ですか?」
「すぐに分かるわよ」
イビルシャインは答えを濁す。頭に疑問符を浮かべ、アイリスは首を傾げた。
「というわけで、私達はここで帰らせてもらっていいかしら?」
「えー、んー。それはちょっと無理かなぁ」
「まあ、そうでしょうね」
くすり、とイビルシャインは笑う。フレイアも合わせて笑みを浮かべた。
互いに軽口を交える二人からは旧知の仲と思えるような雰囲気すら感じれる。
だが、軽やかな空気を打ち破るが如く、刹那にして二人の姿は消えた。
「――!?」
瞬きより速く、室内に響く轟音。
気付けば、イビルシャインとフレイアの距離がゼロとなり、互いの顔に殴打を打ち込んでいた。
あまりの速さに、アイリスは口を開き、か細い声を吐く。
――見えなかった。
アイリスには二人の動きを視認することができなかった。
人の動きを凌駕する素早さに、誰もが唖然とした。
「こいつ……!?」
「っ!?」
フレイアの顔が初めて歪む。そしてイビルシャンの顔からは余裕が消える。
互角の力で殴打した二人は、同時に後方へ殴り飛ばされた。
「イビルシャインさん!!」
「フレイア様!!」
無抵抗のまま、客席に突撃する二人。
アイリスはイビルシャインの名を。ロリアはフレイアの名を叫んだ。
「痛いなぁ」
「血の味がすると思ったら、少し切れているわね」
心配する二人を余所に、砂煙の中からフレイアとイビルシャインは平然と姿を現した。
口からの流血を舌で舐めとり、イビルシャインは息を吐く。
彼女の中には僅かな緊張こそあるが余裕はない。
自分は絶対ではない。絶対者ではない。イビルシャインは油断しない。
出来ることなら避けたいが、場合によっては第八流出魔法すら使っても構わない。
そうなればアイリスに後日言い訳をしなくてはならないが。
彼女はあくまで、イビルシャインは第四流出魔法まで使えると信じているゆえに。
「……な、なあ。今なら逃げられるんじゃねえか?」
「あ、ああ。俺もそう考えていたところだ」
不意に囚人たちが小声で会話していることにアイリスは気が付いた。
フレイアの注意はイビルシャインに向いている。
ならば、今ならここから逃げようとしても彼女が気づく可能性は少ないだろうと。
囚人達はフレイアを注視しながら、ゆっくりと出口のある方向へ向かう。
「ああ、皆は動いちゃだめだよ」
「――ッ」
フレイアが言葉を発すると同時に、舞台袖から構成員と思わしき者達が姿を見せた。
その中にはキマイらを従える男もいる。完全に身動きを封じられた囚人達は舌を打つ。
数にして数十人ほどだろうか。構成員は皆、曲芸を見せた者達だった。
「さて、続きをしようか!」
途端に場を制するフレイアの威圧。だが、イビルシャインに怯む様子はない。
「――『慈悲深き災いの籠手』」
イビルシャインの手から焔が踊るように発生した。燃え盛る紅蓮は巻きつくように彼女の腕を覆う。
「それは……武具なのかな? 変わってるね」
「そうかしら? でもまあ、貴女が気にすることではないと思うわよ」
炎は固定され、真紅の籠手となりイビルシャインの腕に形成された。
全てを焼く紅蓮の如き禍々しさを纏い、イビルシャインは拳を握る。
「『触れれば儚く崩れ落ちる』」
「――ァッ!?」
「『休止の爆動』」
イビルシャインが言葉を紡いだのは一瞬。フレイアの全身を重苦が襲う。
吐血し、イビルシャインの拳が己の体に到達していたことに気が付く。
めり込む正拳突きにフレイアは意識が飛びそうになるが――。
「っ、この糞野郎がああああ!!!」
「これじゃあ、ダメか……」
歯を食いしばり、右手を剣へと変化させ勢いよく振りかざす。
――だが、イビルシャインは反撃を許さない。左手に力を込め、フレイアの刃が届くよりも速く拳を彼女の頬へ打ち込む。
「『爆裂波』」
「ぐ……ッ!!」
打ち込まれた拳から放たれる爆発。フレイアは豪速を乗せ、吹き飛ばされた。
客席を破壊し、フレイアの下敷きとなった観客は悲鳴を上げた。
舞う煙の中、動く影にイビルシャインは目を細める。
「まだ立つのね。やっぱり、いくらその体にダメージを与えても意味はないのかしら?」
「くそが……っ! 調子に乗りやがって……!」
取り繕う余裕を失ったフレイアが、ふらついた足取りで舞台へ降りる。
イビルシャインも同様に舞台へと飛ぶ。
「す、すごい! すごいですよ! イビルシャインさん!!」
瞳を輝かせたアイリスがイビルシャインの元へ駆け寄る。
しかし、イビルシャインは視線をフレイアから移そうとはしない。
ぴょんぴょんと興奮するアイリスを無視して、イビルシャインは口を開いた。
「確か、フレイアといったかしら。いつまでそうしている気かしら?」
フレイアを睨みイビルシャインは言葉を続ける。
「ここへ来る前に一応探知魔法をしてみたのだけれど、不思議なことにその反応がおかしかったのよね」
「お前……!?」
「ここはテント。なら、魔力探知したときは、ここには複数の。少なくても、アイリスと魔獣使いの魔力反応があるべきだった。それが普通。正確な結果なはず。だけれど実際は違った」
イビルシャインはアイリスの手を掴む。これからフレイアが起こすであろう行動を予測して。
フレイアの眉間に皺が寄る。唇を強く噛み、額には青筋が浮き出ていた。
「――ここにはデカい魔力が一つしかなかった」
「このくそ女があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
フレイアが咆哮を上げる。
「アイリス!!」
「え、わ、ちょ! ……え?」
刹那、イビルシャインはアイリスの手を引く。
「『空間転移』」
目の前に転移の穴を発生させ、アイリスを連れて飛び込んだ。
突然の行動にアイリスは目を丸くする。
だが、転移の空間に入る僅かな瞬間にある光景を目にした。
それはありえない、異常な現象だと誰もが思うであろうものだった。
舞台が。客席が。天井が。室内全てが歪んでいた。動いていた。
その場にいる全ての者達を襲い、意思と胎動を主張している。
あれがなんなのかは分からない。しかし、異様とだけアイリスは理解した。
「なんとか脱出できたわね」
「は、はい……」
久しぶりにも思える夜空。アイリスは力なくその場に座り込む。
が、すぐさま先ほどの出来事が頭をよぎった。
「じゃなくて、あれはなんなんですか? というか、え? 転移魔法? いや、そもそもいつの間に来てくれたんですか!?」
一度に複数の質問を捲し立てる彼女にうんざりした様子で、イビルシャインは答える。
「まあ、それは後で話すわよ。今は、まだ続きだから」
「続き……?」
アイリスが彼女の言葉を理解するのに数刻。
すぐさま、アイリスの視線は別へと移った。
「……な、なに? あれは?」
空高くに揺蕩う黒い液体。アメーバを彷彿させる物体が目に映った。
生命とは思えないそれに、アイリスは唖然とした。
「あれがフレイアの正体よ」
「え……? あれが……ですか?」
「ドッペルゲンガー。身体を自在に変異させる能力を持つモンスターって聞いたことあるでしょう?」
「あ、はい。でも……」
「あれはそれよ。相当な特殊型っぽいけど」
初めて見るそのモンスターはアイリスにも心当たりがあった。
無形の化け物。自身の身体を変幻自在に変化させるモンスター。
それがフレイアの正体だった。
アイリスとの戦闘で手から槍を生やし、イビルシャインとの戦闘で腕が剣へと変化したのも、ドッペルゲンガ―の変異能力によるものだろう。
ならば――。
「じゃ、じゃあ、あの私達が戦っていたのも……」
「ええ、本来の身体ではないわ」
アイリスは思わず震えた。
こんな恐ろしいモンスターが人に化けて、国に侵入していた現実に。
だが、イビルシャインの言葉はそれだけでは終わらない。
「ついでに言うのなら、私達が戦っていたのはあくまで彼女の一部よ」
「一部?」
「ええ。言ったでしょう? あのテントには一つしか魔力がなかったって」
「それってどういう……っ!?」
イビルシャインの言いたいことを察した。アイリスは信じがたい様子で黒液を見上げた。
「理解したかしら? あのテント自体が彼女だったってわけ。私達はさっきまで、彼女の中にいたのよ」
「そんな……」
ありえないとアイリスは思った。それではまるで、自分たちは先ほどまで食われていたみたいではないか。
いや、事実そうなのだろう。そこでアイリスは思い出したかのように少女の名を叫んだ。
「――ロリア! イビルシャインさん、ロリアは! ロリアちゃんは!?」
「さあ? まあ、あのテント内にいたのなら、あの中でしょうね」
そう言ってイビルシャインはフレイアへと指を向けた。
つまりはそういうことだ。ロリアは、いや、彼女を含む者達は皆、あれの中にいる。
アイリスは強く唇を噛み、魔法を放とうとした。
しかし、イビルシャインがそれを制止させる。
「なっ、どうして止めるんですか!? 早くしないと皆が!!」
「もう遅いわよ。本来の姿になったのだから。どうせ消化されているわ」
「なんで分かるんですかっ!? 勝手に決めつけないでくださいよ!!」
「アイリスは馬鹿なのかしら? あれはドッペルゲンガ―本来の姿なのよ? 体内の構造も本来のものへと変わっているってわからないの?」
「そ、それは……」
「それに、ドッペルゲンガ―は本来、ああやって擬態して生物を食べ、魔力を高めるモンスターよ。あの姿になった時点で、中の者達は全てそういう扱いを受けるわ」
「っ……」
アイリスは何も言い返せない。イビルシャインの説明は正しい。
ロリアは――彼女達はもう助けられないし、助からない。全てが手遅れだった。
「さて、アイリスにお願いがあるのだけれど」
「……なんですか?」
「聖国の騎士団を呼んできてくれるかしら?」
「騎士団ですか?」
アイリスの問いにイビルシャインは一度頷く。
「ええ。あのテントに入るとき……フレイアの中に入るときに数人の騎士団がいたでしょう?」
「わざわざ言い換えなくていいですよ……。確かにいましたけど」
「彼らはおそらくだけど、オクトーバーがフレイアだって気が付いていたはずよ」
「え!?」
「でもフレイアはそれに気がついていた。今頃、騎士団は探しているはずよ。帰らなぬ人となった彼らを探して」
「――行ってきますっ!!」
アイリスは直ぐに走り出した。これは自分達だけで終わらせて良い問題ではない。
「いってらっしゃい。こんどはドジらないようにね。さて……」
遠くなるアイリスの背中を見送ると、イビルシャインは徐に手を振りおろした。
「――ガァッ!?」
刹那、宙を浮いていた黒液が大地へと落下した。情けない声と共にドッペルゲンガ―は地面へと衝突する。
「ごめんなさいね。ずっと縛り付けていて」
「ァッ! 貴様ァ……!!」
本来の姿となって初めてフレイアは言葉を発した。しかし、その体は動かない。
「アイリスは天然だから、違和感すらなかったのかしらね。あなたがずっと、何もしないことに」
「ぐっ、なんなんだこれは!?」
不敵に笑みを浮かべるイビルシャイン。フレイアは意思の伝わらない身体に困惑を見せた。
「第八流出魔法『空間凍結』。指定した範囲内の空間を凍結する魔法。いや、停止って言った方が分かり易いかしら?」
「第八流出だと!? 馬鹿な!? そんな魔法使えるわけがないだろうッ!!」
ありえないとフレイアは叫ぶ。それもそうだろう。
流出階級最高位に位置する魔法を使える者など本来は存在しない。
この世界においてそれは絶対だった。
最強と謳われる者達を除き、それは絶対にありえない、あってはならないこと。
「でも事実はそうなのだから仕方ないでしょう? 因みにあなたを無様にも叩きつけたのは同じく第八流出魔法の『地獄の消失』よ」
「なっ!?」
フレイアは絶句した。第八流出魔法を二つも使う。それも当たり前の様に。
初めて目の前の少女を恐ろしく感じた。目の前にいるのは絶対者だった。
「お前はなんなんだ? 何者なんだ……?」
震える声でイビルシャインへ尋ねる。最早、フレイアには抵抗する意思はない。
心を支配していた烈火の如し怒りは、いつの間にか畏怖へと塗り替えられていた。
彼女の問いかけにイビルシャインは真紅の瞳を輝かせて告げる。
「この世界を楽しむ者。無垢なる闇の輝き」
審判の呪詛が紡がれる。冷たい真紅が異形の黒を見据えた。
「『白い闇の楽園で貴方は首輪を繋がれた。あなたが私に幸福をくれたから。募った憎しみが私を愛してくれた。私は幸福を抱いて歪みに犯される』」
振り上げられる右腕。フレイアの頭上へ白銀の魔方陣が展開された。
「固有魔法まで……!」
フレイアの言葉を否定し、彼女は、イビルシャインは――。
「いいえ、これは神の能力よ」
裁きを下した。振り下げられる右腕と共に、フレイアへと純白の光が墜ちた。
「『楽園の墜落』」
視界が白に塗りつぶされたのは一瞬。抵抗すらできずに全てを閃光が包む。
悲鳴も断末魔も飲み込み、白銀の光はフレイアを溶かす。
無慈悲に凄惨に消滅するフレイアをイビルシャインは平然と眺めた。




