あなたの罪ではありません
「弟を殺したのは、私です」
懺悔室へ入ってきた女性は、椅子に座るなりそう言った。
三十歳を少し過ぎたくらいだろう。
髪は後ろで一つに結ばれ、外套も服もきちんと整っている。
ただ、膝の上で組んだ両手だけが強く握られていた。
「私が殺しました」
同じ言葉を、もう一度。
セヴェランは驚いた顔を作らなかった。
言葉が重いからといって、その意味まで決めてしまってはいけない。
「何があったのか、聞かせてください」
女性が顔を上げる。
「……信じるんですか」
「何をです?」
「私が弟を殺したって」
「まだ、何が起きたのか聞いていません」
女性は黙った。
セヴェランも急かさない。
話せない人へ言葉を足しても、相手が本当に話したかったものまでこちらで作ってしまうことがある。
やがて女性は、深く息を吐いた。
「三年前です」
弟は二歳下だった。同じ町に住み、同じ商会で働いていた。
女性には夫と娘がいて、弟は独身。
別々に暮らしてはいたが、家族仲はよく、弟はよく姉の家へ遊びに来ていたという。
「その日、娘の発表会があったんです。学校で歌を歌う日で、何週間も前から練習していました」
娘は母親に見に来てほしいと何度も頼み、女性も約束していた。
ところが当日、商会へ荷車が届くことになった。本来なら女性が倉庫で荷を受け取る仕事だった。
「それで、弟さんに代わってもらった?」
「はい」
弟はその日、休みだった。
頼むと嫌がることもなく、
『姪っ子の晴れ舞台だろ。行ってこい』
と笑ったという。
代わりに、帰りに菓子を一つ買ってくること。それだけが条件だった。
女性は発表会へ行った。
娘は客席に母を見つけると、嬉しそうに笑った。
歌い終えたあと二人で菓子屋へ寄り、娘の分と自分の分、そして弟へ渡す分を買った。
その間に、倉庫が崩れた。
古い建物だった。内部を支えていた木材の一部が、外からは分からないところで長く傷んでいたらしい。
荷物を下ろしている最中に支えが折れ、屋根の一部が落ちた。
中にいた数人が巻き込まれた。
二人は軽傷。一人は重傷。
弟は助からなかった。
「本当なら、あそこにいたのは私でした」
女性が言う。
「私が娘のところへ行きたいなんて言わなければ、弟は倉庫へ行かなかった」
「そうですね」
セヴェランはそこを否定しなかった。
女性が驚いたように顔を上げる。
頼まなければ、その日、弟が倉庫にいなかった可能性は高い。それは事実だ。
苦しんでいる相手を慰めるために、起きたことまで別の形へ変えてはいけない。
「だから、私が殺したんです」
しかし、その先まで同じかはまだ分からない。
「倉庫が危険だと知っていましたか?」
「いいえ」
「以前から崩れそうだという話は?」
「聞いたこともありません」
「弟さんへ危険を隠しました?」
「そんなことしてません」
少し強い声だった。
セヴェランは頷く。
「弟さんは、仕事を代わることを嫌がっていましたか?」
「いいえ。むしろ私より、あの子の方が言いたいことを言う人でした」
その時だけ、女性の口元にわずかな笑みが出た。
「あの子、お願いしたら『菓子一個で手を打つ』って」
「菓子は?」
女性の表情が崩れた。
「買いました」
目から涙が落ちる。
「ちゃんと、三つ」
娘の分。自分の分。弟の分。
「紙に包んでもらって、端に蜜が少し染みてたのまで覚えてます」
家へ帰る途中で事故を知らされた。
弟のために買った菓子は渡せなかった。
捨てることもできず数日間家に置き、最後には傷んで、夫が処分したという。
「私が行けばよかった」
女性は涙を拭わずに言った。
「娘の発表会なんて、次もあった。でも弟は一人しかいなかった」
セヴェランは、その言葉を聞きながら考える。
結果を知った今なら、いくらでも別の道を選べる。
発表会へ行かなければよかった。自分で仕事へ行けばよかった。
弟には頼まなければよかった。
けれど、事故が起きる前の女性に見えていたのは、娘との約束と、代わってもらえる仕事だけだ。
未来は見えていない。
「事故について調査はされましたか?」
「はい」
「原因は?」
「倉庫の古い支えだったそうです。表からは分からなかったって」
管理していた側には点検不足が認められ、処分も行われたという。
「でも、そんなの関係ありません」
女性はすぐに続けた。
「私が弟を行かせたんだから」
そこから動けなくなっているらしい。
セヴェランは別の角度から尋ねた。
「今も、娘さんの発表会へ行きますか?」
女性の身体が固まった。
「……行きません」
「三年間?」
「はい」
ほかの学校行事にも、できるだけ行かない。
夫に強く言われた時だけ顔を出すが、楽しむことはできないという。
娘が舞台に立つ。
客席の親たちが笑う。
娘が自分を探して、見つけて、嬉しそうにする。
そうすると必ず弟を思い出す。
「私があの子の発表会に行ったから」
女性はまた同じ言葉を口にした。
「だから、楽しんじゃいけないと思うんです」
「娘さんは今、いくつですか?」
「九歳です」
「事故の時は六歳?」
「はい」
「あなたが来ないことを、娘さんはどう思っていますか?」
女性は答えなかった。
「聞いたことは?」
「あります」
「何と?」
唇が震える。
「もう、見に来てくれないのって」
セヴェランは静かに息を吐いた。
この女性は自分を罰している。
だが、その罰は本人の中だけでは終わっていない。
「あなたは、どんな罰を受ければ責任を果たしたことになると思いますか?」
「罰?」
「弟さんを殺したと考えているのでしょう」
「はい」
「なら、どこまで償えば終わります?」
女性は黙った。
長い沈黙が続いた。
「分かりません」
「三年間、楽しむことをやめた」
「はい」
「あと五年なら?」
答えない。
「十年?」
女性は俯いたままだ。
「一生?」
やがて、小さな声で答えた。
「……たぶん」
セヴェランはそこに、強い違和感を覚えた。
終わりのない罰。
何を果たせば終わるかも分からない。誰へ何を返すのかも分からない。
ただ苦しみ続けることだけが決まっている。
それは、責任の形としておかしい。
「一つずつ、確認してもいいですか」
女性が顔を上げる。
「あなたは倉庫を壊しましたか?」
「いいえ」
「危険だと知りながら、弟さんを行かせましたか?」
「いいえ」
「危険を隠しました?」
「いいえ」
「弟さんは、断れない立場でしたか?」
「違います」
「騙しました?」
「いいえ」
「弟さんに死んでほしいと思っていましたか?」
「そんなわけない!」
女性が強く言った。
すぐに口元を押さえる。
「……ごめんなさい」
「構いません」
セヴェランは責めずに続ける。
「では、あなたが選んだのは何ですか?」
女性は涙を流しながら答えた。
「弟に、仕事を代わってほしいと頼みました。娘の発表会へ行くために」
「そこまでです」
女性が目を瞬く。
「え?」
「あなたが選んだことは、そこまでです」
「でも、弟は死んだ」
「はい」
「なら、その先だって私の――」
「いいえ」
言葉は自然に出た。
強く言ったわけではない。それでも、曖昧にはしなかった。
「弟さんが倉庫へ行ったことと、そこで亡くなったことは繋がっています。ですが、繋がっていることと、あなたが責任を負うことは同じではありません」
女性は何も言わない。
「もし荷車が一時間遅れていたら。支えが翌日に壊れていたら。弟さんが別の作業を頼まれていたら。結果は変わったかもしれません」
「でも、私が頼んだのは事実です」
「はい。では、仕事を代わってもらうよう頼むこと自体が、してはいけない行為でしたか?」
女性はなかなか答えなかった。
「……違うと思います」
「弟さんが普通に帰ってきていたら、あなたは三年間そのお願いを悔いていましたか?」
答えは分かっていたらしい。
女性は首を横に振った。
「いいえ」
「なら、あなたは自分が選んだ行為ではなく、その後に起きた結果を知ってから、過去の選択を罪へ変えています」
女性の目から、さらに涙が落ちた。
「だって、私が代わってもらったんです。私が行ってたら、私が死んでたかもしれない。それなのに私は娘と歌を聞いて、菓子まで買って……弟は一人で死んだ」
声が崩れる。
セヴェランはそこで、女性が「罪」と呼んでいたものの中に、別のものが混じっていると気づいた。
「あなたは、罰してほしいのですか?」
「分かりません」
「弟さんを失ったことに、理由が必要ですか?」
女性はまた「分かりません」と答えた。
「自分が悪かったことにすれば、何をすればいいか分かりやすくなる?」
その言葉で、女性の表情が止まった。
自分を罰する。
楽しむのをやめる。
娘の発表会へ行かない。
笑わない。
幸せにならない。
そうすれば、弟が死んだことに何か意味のある形を与えられる。
「じゃあ」
女性が震える声で尋ねた。
「この苦しさは何なんですか。私が悪くないなら、どうしてこんなに苦しいんですか」
セヴェランはすぐ答えなかった。
苦しいから罪がある。
そんな法はない。
身体の傷が閉じても怖さだけが残る人を、以前見たことがある。
人を許せない気持ちと、その気持ちから実際に選んだ行為が同じではないことも、懺悔室で知った。
なら、今も分けなければならない。
「悲しいのではありませんか」
女性が目を閉じた。
「弟さんが亡くなったことが」
その瞬間、女性の顔が大きく歪んだ。
「……会いたいです」
初めて、罪でも罰でもない言葉が出た。
「はい」
「もう一回、会いたい」
「はい」
「あの菓子、渡したかった」
「はい」
「娘の歌が上手だったって話したかった」
セヴェランはただ聞いた。
「もっといっぱい話したかった」
女性は長く泣いた。
セヴェランは止めなかった。
やがて呼吸が少しずつ落ち着く。
女性は涙を拭いながら尋ねた。
「悲しいって思っていいんですか」
「もちろんです」
「罪じゃなくて?」
「悲しいことは、罪ではありません」
「私が悪くなくても、こんなに苦しいことってあるんですか」
「あると思います」
女性は膝の上の手を見る。
「じゃあ、私が苦しんでも弟は戻らない」
「はい」
「私が笑わなくても」
「戻りません」
厳しい答えだと思う。
だが、ここで嘘を言えば、この女性はまた別の罰を作るだけだ。
しばらくして女性が、小さな声で言った。
「娘まで、私と一緒に罰してたんですね」
セヴェランは答えなかった。
本人が自分で辿り着いた言葉だった。
「発表会に行かなくなって。あの子は何も悪くないのに」
「はい」
「私も……」
そこで止まった。
何度か口を開き、ようやくセヴェランを見る。
「……私も?」
問いだった。
ここは曖昧にしてはいけない。
責任がある人へ、かわいそうだから責任はないとは言わない。
同じように、責任のない人へ、苦しんでいるのだから何か罪があるはずだとも言わない。
量るなら、正しく量らなければならない。
セヴェランは女性の目を見た。
「あなたの罪ではありません」
女性が息を呑んだ。
「弟さんを失ったことは、あなたの罪ではありません」
「でも、私が仕事を」
「代わってほしいと頼んだ。それは事実です。その結果、弟さんが倉庫へ行ったことも事実です」
女性は涙を流しながら頷く。
「それでも、弟さんの死を、あなたが負うべき罪にはできません」
「本当に?」
その問いに、セヴェランは妙な感覚を覚えた。
誰に確認しているのだろう。
一人の若い神父へか。
それとも、その向こうにいる何者かへか。
けれど答えは変わらない。
「ええ。少なくとも、あなたが話してくれたことの中に、あなたを罰する理由を私は見つけられません」
女性は顔を覆い、また泣いた。
今度の涙が安堵なのか、悲しみなのか、その両方なのか。セヴェランには分からない。
だから決めなかった。
しばらくして、女性が顔を上げる。
「来月、娘の発表会があります。また歌うんです」
「そうですか」
「ずっと、夫だけ行くつもりでした」
セヴェランは何も勧めなかった。
女性が自分で続ける。
「……行ってもいいと思いますか」
「私の許可は必要ありません」
目を丸くされた。
「でも」
「行きたいですか?」
女性は長く考えた。
「はい」
今度ははっきりした声だった。
「なら、娘さんは喜ぶかもしれませんね」
女性の顔に、泣いた跡の残る笑みが浮かんだ。
立ち上がり、扉へ向かう途中で振り返る。
「神父様。弟に謝らなくてもいいんでしょうか」
「謝りたいのですか?」
「……分かりません」
「なら、急いで謝る言葉を作らなくてもいいと思います」
女性は戸惑う。
セヴェランは少し考えてから続けた。
「会いたいと伝えてもいいでしょう。菓子を渡したかったことも。娘の歌を聞かせたかったことも」
「それだけでも?」
「それも、あなたの本当の気持ちでしょう」
女性は何度か頷いた。
「ありがとうございました」
扉が閉じたあと、セヴェランはしばらく空席を見ていた。
責任を取ることは大切だ。
間違ったなら認める。
戻せるものは戻す。
戻せないなら、その分を負う。
逃げない。
その考えは何も変わらない。
けれど、責任がない人へ責任を作らないことも、同じくらい必要なのではないか。
罪を軽くしてはいけない。
だからといって、存在しない罪を重くしてもいけない。
休憩に入ると、老神父と中庭の長椅子へ座った。
「難しい方でした?」
「少し」
老神父が笑う。
「最近、毎回そう言いますね」
「人の話が毎回違うので」
「それが分かってきたなら何よりです」
セヴェランは少し考えてから尋ねた。
「先生。罰を与えないことも、法の役目ですか?」
老神父がこちらを見る。
「どうしてそう思いました?」
「責任がないのに、自分を罰している人がいました」
内容を特定しないよう、それだけ話す。
「私は今まで、責任がある人へどう責任を取らせるかを考えることが多かったです。でも、罪がないなら、罰してはいけない」
「当然ですね」
「当然なのに、同じ重さで考えていませんでした」
悪いことをした人から責任を取り上げない。
それだけが公平ではない。
悪いことをしていない人へ責任を作らない。
それも同じだ。
「量るということは、重さを見つけるだけではないんですね」
「では?」
「重くないものを、重くないままにすることも」
老神父は穏やかに笑った。
「覚えておくといいでしょう」
その日の終わり、セヴェランは帳面を開いた。
『責任を負わせるべき人から、責任を除いてはいけない』
その下へ、
『同じように、責任のない人へ責任を作ってはいけない』
と書く。
さらに少し考えた。
『悲しみと罪悪感は、似た顔をすることがある。苦しんでいるという理由だけで、その人に罪があると決めない』
筆を置く。
今日は自分の失敗を書いていない。
珍しいことだった。
だからといって、正しい人間になったわけではない。
ただ、今まで見えていなかったものが一つ見えただけだ。
帰る前に礼拝堂へ寄ると、一人の男が聖印の前で膝をついていた。
「エルディス様。どうか、私の罪をお許しください」
小さな声が聞こえる。
セヴェランは少し離れた長椅子へ座った。
以前ならまず、「何をしたのだろう」と考えただろう。
今は、その前に一つだけ別の問いが浮かぶ。
本当に、その人の罪なのだろうか。
もちろん、責任があるかもしれない。ないかもしれない。
話を聞いていない今は、まだ何も分からない。
なら、先に量ってはいけない。
祈る男の背中を見ながら、セヴェランは静かに思った。
エルディスなら、どう量るだろう。
その問いだけは、なぜか浮かばなかった。
正しく量らなければならない。
その感覚だけが、最初から自分の中にあった。




