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神を嫌うこと

「エルディスなんて、大嫌いです」


男はそう言ってから、試すようにセヴェランの顔を見た。


懺悔室へ入ってきた時から、どこか身構えている人だった。

四十歳前後。痩せた身体に濃紺の上着を着て、椅子へ座ってからも背もたれには寄りかからない。

両手は膝の上に置いているが、指先だけが落ち着かず動いていた。


「そうですか」


セヴェランが答えると、男の眉が寄った。


「それだけですか?」


「ほかに何か言うべきでしたか?」


「怒らないんですか」


「なぜです?」


今度は男が黙った。


「ここ、律衡院ですよね」


「はい」


「あなた、神父ですよね」


「そうです」


「その神を嫌いだって言ってるんですよ」


セヴェランは少し考えた。


言われてみれば、自分の中には確かに小さな不快感がある。


エルディスなど嫌いだ。


その言葉が、信仰の対象を侮辱された時に感じるものより、妙に近いところへ触れてくる。


自分自身へ悪態をつかれた時に似ている、とでも言えばいいのだろうか。


だが、それだけだった。


「嫌いだと思うことは、あなたの自由だと思います」


男が目を瞬いた。


「……本当に神父ですか?」


「そのはずです」


「追い出されると思ってました」


「何も聞かずに追い出したら、あなたがここへ来た意味がなくなります」


セヴェランは男を見る。


「どうして、エルディスを嫌いになったのですか」


問いかけると、男の指が止まった。


先ほどまでの挑発するような表情が、少しずつ崩れていく。


「妻が死んだんです」


声が低くなった。


三年前。


妻は病気になった。


最初は軽い熱だった。数日休めば治るだろうと誰もが思っていた。

だが熱は下がらず、咳が増え、食事も取れなくなった。


医者に診てもらった。


治療も受けた。


聖属性の治癒師も来た。


薬も飲んだ。


できることはした。


「祈りました」


男は俯いたまま続けた。


「毎日。妻も俺も、娘も」


娘は当時九歳だった。


母親の枕元で、小さな手を組み、一生懸命祈っていたという。


エルディス様。


お母さんを助けてください。


元気にしてください。


いい子にします。


だから。


お願いします。


「妻も信じてたんです。ずっと」


男の声が少し震える。


「俺よりずっと真面目な信徒でした」


妻は誰かが困っていれば手を貸し、礼拝にも通った。

裕福ではなかったが、余裕のある月には少しずつ寄付もしていた。


「だから、助かると思ってた?」


セヴェランが尋ねる。


男は少し迷ってから頷いた。


「今考えれば、馬鹿みたいですけどね」


「なぜ馬鹿なのですか?」


「祈ったって病気は治らなかった」


妻は亡くなった。


最後まで治療は続けられたが、身体が持たなかった。


「娘が聞いたんです。俺に」


男の手が拳になる。


「どうしてエルディス様はお母さんを助けてくれなかったの、って」


セヴェランは何も言わない。


「答えられなかった」


それ以来、男は祈るのをやめた。


礼拝にも行かなくなった。


エルディスの名前を聞くだけで腹が立つようになった。


病気の妻を思い出す。


必死に祈る娘を思い出す。


それでも何も変わらなかった夜を思い出す。


「役に立たないじゃないですか」


男が言った。


「何が神だ。何が法だ。正しく生きたら何なんです?あいつは何も悪いことしてなかった」


セヴェランの胸の奥が、また少しだけ動いた。


「役に立たない」


その言葉は、やはり妙に近く聞こえる。


だが、それで男への見方が変わることはなかった。


「奥様が亡くなったことについて、何か理由を説明されたことはありますか?」


「医者からですか?」


「律衡院からでも」


男は首を横に振った。


「病気だった。それだけです」


「私も、それ以上のことは言えません」


男が顔を上げる。


「神の試練だとか言わないんですか」


「そうだったという証拠がありません」


「信仰が足りなかったとか」


「それも分かりません」


「妻が死ぬ必要があったとか」


「私は知りません」


男の顔に苛立ちが浮かんだ。


「何も分からないんですね」


「はい」


「神父なのに?」


「神父でも、知らないことはあります」


男は乾いた笑いを漏らした。


「だったら、神様なんていらない」


その言葉にも、セヴェランは反論しなかった。


しばらくして、男の方が困ったような顔になる。


「……本当に怒らないんですね」


「少し嫌な感じはします」


思ったまま答えると、男が目を丸くした。


「するんじゃないですか」


「します」


「じゃあ何で平気な顔してるんです?」


「私が嫌な気持ちになったことと、あなたが悪いことをしたかどうかは別だからです」


男はしばらくセヴェランを見ていた。


それから、初めて少しだけ肩の力を抜いた。


「変な神父だな」


「よく言われるようになるかもしれません」


「まだ言われてないんですか」


「そこまで長くやっていませんので」


男が小さく笑った。


その笑みが消えるまで待ってから、セヴェランは尋ねる。


「今日は、エルディスを嫌いだと伝えるためだけに来たのですか?」


男の顔が再び強張った。


「……違います」


「では、何があったのです?」


今度は、先ほどより長い沈黙があった。


やがて男が口を開く。


「娘と喧嘩しました」


娘は十二歳になっていた。


妻が亡くなったあとも、娘は祈ることをやめなかった。

毎晩ではない。それでも不安なことがあれば聖印の前へ座り、母が使っていた古い祈祷書を開く。


男は、それを見るたびに苛立った。


「最初は何も言わなかったんです。あの子の好きにすればいいと思ってた」


「はい」


「でも、この前」


娘の友人が病気になった。


大きな病気ではなかった。治療を受ければ回復する見込みも高い。


それでも娘は心配し、寝る前に祈った。


『どうか、あの子が元気になりますように』


その声を聞いた瞬間、男は妻の時と同じ光景を思い出した。


「やめろって言いました」


娘は驚いた。


「そんなものに頼るなって。祈ったって誰も助けてくれないって」


娘は、それでも祈りたいと言った。


「それで?」


男が拳を握る。


「怒鳴りました」


祈祷書を取り上げた。


部屋の聖印も外した。


二度と祈るなと言った。


『お前まで母さんみたいに騙されるな』


そこまで言った。


娘は泣いた。


「次の日から、口を利いてくれません」


セヴェランは一度、男の話を頭の中で整理した。


妻を失った。


神を嫌っている。


祈りを見るのが怖い。


娘へ怒鳴った。


祈祷書を取り上げた。


信仰をやめろと強制した。


ここには、分けなければならないものがある。


「あなたは、何を悪かったと思っていますか?」


男が少し驚く。


「……娘に怒鳴ったこと」


「ほかには?」


「祈祷書を取ったこと」


「なぜ、それが悪かったと思います?」


「泣かせたから」


「泣かなかったら、よかった?」


男が黙る。


「娘さんが黙って従っていたら、問題はなかったと思いますか?」


「いや……」


少し時間を置いて、首を振った。


「違うな」


セヴェランは待った。


「俺が嫌いだからって、あの子まで嫌う必要はない」


「はい」


「信じたいなら、信じてもいい」


口にしながら、男自身が確かめているようだった。


「でも、あの子がまた祈って」


声が弱くなる。


「また裏切られたらって思ったんです」


そこで、セヴェランには男の行為が少し違って見えた。


娘の信仰が憎かっただけではない。


怖かったのだ。


妻と同じように、娘も何かを信じ、期待し、それが叶わなかった時に傷つくことが。


「娘さんを守りたかった?」


男は苦しそうな顔をした。


「……そうだったと思います」


「でも、娘さんが何を信じるかを決めた」


「はい」


「娘さん自身の代わりに」


男が俯く。


「はい」


セヴェランは、昔治療室で手を止められなかった時のことを思い出した。


自分の方が分かっている。


自分の判断の方が相手のためになる。


その考えは、善意からでも人の選択を奪うことがある。


「あなたがエルディスを嫌うことと、娘さんにエルディスを嫌わせることは、同じではありません」


男が顔を上げる。


「信じない自由があるなら、信じる自由もあります」


「……そうですね」


「娘さんはまだ子供です。親として止めなければならないこともあるでしょう。ただ、祈ること自体で誰かを傷つけているわけではないなら、あなたが嫌いだからという理由だけで禁止するのは違うと思います」


男は何度か頷いた。


「謝ります」


「何を?」


「怒鳴ったこと。祈祷書を取ったこと。聖印も戻します」


「はい」


「でも」


男がこちらを見る。


「俺は祈りません」


「それはあなたが決めることです」


「娘に付き合って礼拝へ行く必要も?」


「娘さんが一人で行けない年齢なら、安全のために付き添う必要はあるかもしれません。でも、そこであなた自身が信じなければならないとは思いません」


「そんなのでいいんですか」


「誰に対して?」


男は答えなかった。


セヴェランも、すぐには言葉を足さなかった。


やがて男が苦笑する。


「神様に対してですよ」


また、その問いだった。


「エルディスは、俺みたいなのを怒らないんですか」


セヴェランは目の前の男を見る。


妻を失った。


神を罵った。


信仰を捨てた。


それ自体で誰かを傷つけたわけではない。


娘へしたことについては、本人も悪かったと理解し始めている。


なら。


「少なくとも、エルディスを嫌いだと言ったという理由だけで、あなたを罰する必要はないと思います」


「役立たずって言いましたよ」


「聞きました」


「いない方がいいとも」


「それも」


「腹立ちません?」


「少し」


男が吹き出した。


「やっぱり腹立つんじゃないですか」


セヴェランも少し笑った。


「だからといって、罰していい理由にはなりません」


「神様って、そんなに聞き分けいいんですかね」


自然に答えそうになって、セヴェランは一瞬だけ止まった。


聞き分けがいい、という表現が妙だった。


怒るかどうかを、自分とは別の誰かについて推測する感覚がまた薄い。


「神であるなら」


ゆっくり言葉を選ぶ。


「自分への悪口くらいで、人の人生を罰するべきではないと思います」


男が目を細めた。


「ずいぶんエルディスのこと分かってるみたいに言うんですね」


セヴェランは返事に詰まらなかった。


「はい」


男の方が驚いた。


「そこは謙遜しないんだ」


「分かっていると思います」


「何で?」


その問いだけは、すぐに答えが出なかった。


聖典をたくさん読んだから。


教義を学んだから。


両親に教わったから。


どれも事実だ。


でも、それだけではない。


「……長く考えてきたからだと思います」


結局、そう答えた。


嘘ではない。


ただ、全部でもない気がした。


男はそれ以上追及せず、椅子から立った。


「帰ったら娘に謝ります」


「はい」


「許してくれるかな」


「それは娘さんに聞いてください」


「厳しいなあ」


「私が代わりに許すことはできませんので」


男は扉へ向かい、途中で振り返った。


「神父様」


「はい」


「俺、たぶんこれからもエルディス嫌いです」


「分かりました」


「それでも、また来てもいいですか」


「もちろんです」


男は少し笑って出ていった。


扉が閉じたあとも、セヴェランはしばらく座っていた。


今日、男がエルディスを罵った時、自分は確かに少し不愉快だった。


それ自体は認めていい。


感情まで無かったことにする必要はない。


しかし、その不快を理由に男を悪い人間として量ることはできない。


むしろ、もし自分が強い立場に立つようになった時こそ、そこはもっと慎重でなければならないだろう。


自分へ従わないから。


自分を敬わないから。


自分を嫌うから。


そんな理由で相手へ罰を与えられるようになったなら、それは法ではなく、自分の感情を権力で通しているだけだ。


セヴェランは帳面を開いた。


『自分が不愉快であることと、相手に責任があることを混同しない』


続けて、


『信じないことを罰しない。同じように、信じることも奪わない』


と書く。


そこで筆が止まった。


男から言われた言葉を思い出す。


ずいぶんエルディスのこと分かってるみたいに言う。


自分は迷わず「はい」と答えた。


なぜ迷わなかったのだろう。


幼い頃から、教義には不思議な馴染み方をしてきた。

何かを教わるというより、知っていたことへ名前を付けてもらうような感覚だった。


祈る時にも、遠くへ声を投げている気がしない。


誰かがエルディスを罵れば、少しだけ自分を罵られたように感じる。


そして、エルディスなら何を考えるのかと尋ねられても、想像する必要がないことが多い。


答えが、自分の中にある。


セヴェランは帳面へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。


自分はエルディスをよく理解している。


それは間違いない。


だが。


なぜ、エルディスという名前は、いつまで経っても遠い誰かの名前に聞こえないのだろう。


その問いには、まだ答えを書かなかった。

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