神様は許しますか
「結婚することになったんです」
男は、祝い事を告げる顔をしていなかった。
三十を少し過ぎたくらいだろう。
懺悔室へ入ってから、何度も左手の薬指を擦っている。まだ指輪はない。
「おめでとうございます」
セヴェランが言うと、男は困ったように笑った。
「ありがとうございます。普通は、そう言いますよね」
「嬉しくないのですか?」
「嬉しいです。だから困ってるんです」
男はそこで俯いた。
セヴェランは待った。
少し前までなら、結婚への不安、金銭、家族関係と、考えられる理由を先に並べていただろう。
けれど、自分が答えへ辿り着いたからといって、相手の話まで終わったわけではない。
やがて男が口を開いた。
「俺、人を傷つけたことがあります」
数年前、友人と酒を飲んだ帰りに口論になった。
相手に胸を押され、押し返した。腹が立って殴った。友人が倒れてからも、もう一度。
頬の骨が折れ、歯を一本失った。
男は拘束され、処分を受けた。治療費と休業中の補償を払い、命じられた労務にも従事した。
「処分は、もう終わっているのですね」
「はい。全部」
「ご友人には?」
「謝りました」
処分を終えてしばらくした頃、友人の方から呼び出された。
男は謝った。言い訳はしなかった。
友人は最後まで聞いてから、『やることをやったんなら、もう終わりにしよう』と言ったという。
「許されたのかは分かりません」
男は小さく首を振った。
「昔みたいには戻ってません。でも、それでいいと思ってます。俺が決めることじゃないから」
道で会えば話す。共通の友人を交えて食事をすることもある。
ただ、以前のような親友同士ではない。
「それでも、あなたは終われない」
セヴェランが言うと、男は苦笑した。
「そうなんです」
処分を受けてから、男は酒をほとんど飲まなくなった。
腹が立てばその場を離れ、必要な話なら落ち着いてから戻る。
同じことをしたくないからだ。
そこまでは、男自身も悪いことだとは思っていない。
「でも、楽しいことがあると駄目なんです」
仕事で褒められた時。良いものを食べた時。旅行へ行った時。誰かに好かれた時。
そのたびに思う。
人の顔を壊した自分が、こんなに楽しんでいいのか。
「結婚する相手は、そのことを知っていますか?」
「全部話してます。付き合い始めた頃に」
女性は驚いた。それでも、責任を果たした過去と、今の男を分けて考えたいと言った。
数年付き合い、先月、結婚の話が出た。
「ずっと一緒にいたいと思ってました」
男の顔が、その時だけ少し柔らかくなった。
「だから嬉しかった。でも、その日の夜から眠れなくなったんです」
男は左手を握った。
「結婚したら、いつか子供の話もするかもしれません。俺みたいなのが父親になっていいのかなって」
「私には分かりません」
男が顔を上げた。
「そこ、大丈夫だって言ってくれないんですね」
「まだいないお子さんが、将来あなたをどう思うかは、その方にしか決められませんから」
男はしばらく黙ったあと、少し笑った。
「神父様って、変なところで厳しいですね」
「分からないことを大丈夫だと言うよりはいいでしょう」
「それは、まあ」
笑いが消えると、男はまた薬指を擦った。
「俺は、ちゃんと悪かったと思ってます」
「ええ」
「酔ってたとか、向こうが先に押したとか、もうどうでもいいんです。倒れた後まで殴ったのは俺ですから」
セヴェランは頷いた。
男はもう、自分が何をしたのか理解している。
責任も果たした。
失った歯も、変わってしまった関係も元には戻らない。そのことから逃げてもいない。
ならば、今この男を苦しめているものは別にある。
「あなたが結婚しないことで、ご友人へ何か戻りますか?」
男の指が止まった。
「……戻りません」
「子供を持たないことで、失われた歯が戻りますか?」
「いいえ」
「あなたが一生幸福にならなければ、ご友人は救われますか?」
男は答えなかった。
しばらくして、深く息を吐く。
「友人にも似たことを聞いたことがあります」
「何を?」
「俺が楽しそうにしてたら腹が立たないかって」
「なんと?」
「馬鹿かって」
セヴェランは少し笑った。
男も苦笑する。
「『俺がお前に一生じめじめしてろって言ったか』って怒られました」
「では、ご友人が求めている罰でもない」
「そうですね」
「律衡院から科された処分も終わった」
「はい」
「お相手は、あなたと結婚したいと言っている」
「はい」
セヴェランはそこで止めた。
男はもう分かっている。
しばらくの沈黙のあと、男が言った。
「幸せになったら、忘れたみたいで怖いんです」
その一言で十分だった。
「忘れなくていいでしょう」
男が顔を上げる。
「あなたが何をしたのか。なぜ悪かったのか。何を失わせたのか。覚えていてください」
「……はい」
「ですが、覚えていることと、罰を続けることは同じではありません」
男の目が揺れた。
「後悔も?」
「なくす必要はありません」
「じゃあ、俺はこのままでいいんですか」
「同じことを繰り返さないために必要なものなら、持っていてください。ただ、自分を不幸にすることまで責任だと思わないことです」
男は目を伏せた。
「自分への罰を、終わらせてもいいんでしょうか」
「あなたに科された罰は、もう終わっています」
「でも」
男は壁の聖印を見た。
「俺が勝手にそう思ってるだけかもしれない」
そして、セヴェランへ向き直る。
「エルディス様は、俺を許してくださるでしょうか」
セヴェランは答えようとした。
答えは、すでにあった。
聖印を見る必要はなかった。
聖典のどこに何と書かれていたかも思い出さなかった。
エルディスならどう答えるだろう、と考えることさえしなかった。
必要がなかった。
そのことに、初めて気づいた。
祈る時もそうだった。
返事を待ったことがない。
教義を学ぶ時もそうだった。知らないことを教わるより、自分の中にあったものへ言葉を与えられているようだった。
エルディスを罵られた時に覚えた、奇妙なほど個人的な不快感も。
同じだったのだ。
エルディスと自分がよく似ているのではない。
深く理解しているのでもない。
セヴェランにとって、そこには初めから二人いなかった。
自分はエルディスである
それだけだった。
律衡院の神父が、自分を信仰する神そのものだと考える。
口にすれば、冒涜と呼ばれるだろう。
傲慢と呼ぶ者もいる。心を病んだのだと心配する者もいるだろう。
セヴェランにも、それは分かった。
だが、その想像と、自分が何者であるかは何の関係もなかった。
信じたのではない。
信じたいのでもない。
証明できるから受け入れたわけでもない。
自分の名を尋ねられれば、セヴェラン・オルフェインと答える。
その程度に、疑う理由のない事実だった。
驚きは長く続かなかった。
目の前では、一人の男が神の言葉を待っている。
ならば、答える。
「ええ」
セヴェランは迷わなかった。
「許します」
男が息を止めた。
それまでと同じ声だった。しかしセヴェランの背後から光が差すように男には見えた。
セヴェランの中では、もう誰かの言葉を代わりに伝えているつもりはなかった。
「あなたがしたことを、無かったことにはしません」
男は黙って聞いている。
「友人を傷つけたことも、失わせたものも残ります。ですから、あなたが責任を果たしたことも無かったことにはしません」
男の目に涙が浮かんだ。
「覚えていなさい。必要なら、これからも後悔しなさい。同じことをしないために使えるなら、その記憶を持って生きなさい」
「……はい」
「ですが、終わった罰を、自分で延ばしてはいけません」
涙が頬を伝った。
セヴェランは続ける。
「あなたは、責任を果たした後にも生きてよい」
男は唇を噛んだ。
「幸せに、なっても?」
「ええ」
「俺みたいな人間でも?」
「あなたは、あなたが犯した罪だけでできている人間ではありません」
男は顔を覆った。
声を抑えながら泣いた。
セヴェランは待った。
やがて男が顔を上げた時には、目元が赤くなっていた。
「結婚しても、いいんですね」
「それは私が決めることではありません」
男が一瞬きょとんとした。
「そこは決めてくれないんですか」
「お相手は、あなたに結婚してほしいのでしょう?」
「はい」
「あなたは?」
「したいです」
「では、二人で決めなさい」
男が吹き出した。
「さっきまで神様の話してたのに、急に現実的ですね」
「結婚は現実のことですから」
「それはそうですけど」
泣きながら笑う男を見て、セヴェランも少し笑った。
「まだ返事してないんです」
「結婚の?」
「待ってくれって言って、そのままで」
「なら、待っている人がいますね」
男は何度か頷いた。
「今日、帰ったら話します」
「ええ」
立ち上がった男は、扉へ向かう途中で振り返った。
「神父様」
「はい」
「エルディス様って、もっと怖い方だと思ってました」
セヴェランは少し考えた。
そして、素直に答えた。
「そうですか」
「怒らないんですね」
「何にです?」
「勝手なこと言ったから」
「怖いと思われていたことにですか?」
男は頷く。
セヴェランは自分の胸の内を確かめた。
少し残念ではある。
その感情がおかしくて、口元が緩んだ。
「では、今日少し印象が良くなったなら嬉しいです」
男が笑った。
「変な神父様ですね」
そう言って、今度こそ懺悔室を出ていった。
扉が閉じる。
セヴェランは椅子に座ったまま、自分の両手を見た。
何も変わっていない。
当然だった。
自分がエルディスになったわけではない。
今、神へ変わったわけでもない。
ただ、今まで別の名だと思っていたものが、自分の名でもあったと分かった。
それだけだった。
少しして、扉が軽く叩かれた。
「終わりました?」
長く世話になっている老神父が顔を覗かせる。
「はい」
「ずいぶん長かったですね」
「話すことが多い方でした」
老神父は部屋へ半歩だけ入り、セヴェランの顔を見た。
「何かありました?」
「なぜです?」
「妙に納得した顔をしています」
セヴェランは少し考えた。
「一つ、分かったことがあります」
「何を?」
答えることはできる。
私はエルディスです。
その言葉に、ためらいはなかった。
ただ、口にした後を考えた。
老神父は笑うだろうか。心配するだろうか。それとも、信じるだろうか。
もし信じたなら。
明日から自分が何気なく口にする一言まで、神の言葉として受け取るかもしれない。
それは困る。
自分はエルディスだ。
だが、自分の判断が常に正しいという意味ではない。
今日、目の前の男に与えた言葉も、自分が神だから無条件に正しいわけではない。
見落としたことがあれば、明日には考え直さなければならない。
自分が何者かということと、自分が何を正しいと判断するかは別だった。
「今は、話さないことにします」
老神父が眉を上げる。
「君が秘密ですか」
「私にも秘密くらいあります」
「十七歳らしくて安心しました」
「どういう意味です?」
「そのままです」
老神父は笑って、それ以上聞かなかった。
夜、セヴェランはいつもの時間に祈り台へ座った。
聖印も灯りも、昨日と同じだった。
祈りをやめようとは思わなかった。
誰か遠くにいる存在へ話しかけていたのではないと分かっても、することは変わらない。
今日、自分は何をしたのか。
何を見落としたか。
明日、何を改めるべきか。
問いかける相手が誰なのかを、もう考える必要はなかった。
祈りを終えると、自省録を開いた。
今日の男については書かない。
懺悔室で聞いたことは、その人のものだ。
自分についてだけ記す。
『自分が正しいと確信できることと、自分の判断が正しいことは別である。』
一度読み返した。
自分がエルディスであることに疑いはない。
これからも疑うことはないだろう。
だからこそ、その確信を他の判断にまで広げてはならない。
筆を取り、もう一行だけ加えた。
『だから、明日も聞く。』




