神の名で決めない
「婚約を解くべきでしょうか」
今日最初の懺悔に来た女性は、挨拶を終えるなりそう尋ねた。
二十歳を少し過ぎたくらいだろう。
淡い青の外套を膝の上へ丁寧に畳み、その端を指先で握っている。
言葉遣いも姿勢も落ち着いているのに、懺悔室へ入った時から視線だけが定まらなかった。
セヴェランはすぐには答えなかった。
「婚約を解きたいのですか?」
「分かりません」
「結婚したい?」
今度は返事が少し早かった。
「したいです」
それなら、話は終わらない。
セヴェランは向かいの女性を見る。
「何があったのか聞かせてください」
女性の婚約者は、律衡院の信徒ではなかった。
エルディスを嫌っているわけではない。
以前は、礼拝へ誘われれば付き合うこともあったという。
ただ、自分から祈る習慣はなく、神が実在するかと尋ねられても「分からない」と答える人だった。
女性は敬虔な家庭で育った。
朝と夜には短く祈り、節目の日には礼拝へ行く。
婚約者が信徒ではないことは、付き合い始めた頃から知っていた。
「最初は、それでいいと思っていました」
「今は違う?」
女性が小さく頷いた。
きっかけは、婚約者の父親が亡くなったことだった。
急な病だった。
治療は受けた。家族も看病した。それでも助からなかった。
葬儀を終えた日の夜、婚約者は女性の前で初めて泣いた。
何をしたらいいか分からず、女性は彼の手を取った。
そして言った。
『一緒に祈りましょう』
「私は、慰めたかったんです」
「はい」
「祈れば、お父様が戻るなんて思っていません。でも、少しでも心が落ち着けばと思って」
その気持ちは理解できる。
以前、父の帰りが遅れた雨の夜に、母から祈りについて聞いたことがある。
何もできない時、願いを置く場所があれば、少しだけ心が軽くなる人もいる。
女性も、そういう祈りを差し出したのだろう。
「婚約者は何と?」
「怒りました」
『祈って何になる』
最初はそれだけだった。
女性が驚いていると、彼はさらに言った。
『お前の神は父さんを助けなかった』
『今さら何を祈れっていうんだ』
『もう神の話は聞きたくない』
女性も傷ついた。
「それで、言い返しました」
「何と?」
女性は目を伏せた。
「そんなことを言うのは間違ってるって。悲しいからってエルディス様を侮辱していいわけじゃないって」
セヴェランは続きを待った。
「それから?」
「信じないから苦しいんだって」
女性の指に力が入った。
「……言ってしまいました」
「彼は?」
「出ていきました」
それから数日、二人は会わなかった。
やがて婚約者から謝罪があった。
神を侮辱したことについてではない。
女性の信仰を馬鹿にするような言い方をしたことについてだった。
女性も、自分が彼の悲しみを信仰の不足として扱ったことを謝った。
一度は仲直りした。
だが。
結婚の話を進めようとすると、同じ問題が戻ってきた。
「家に聖印を置きたいと言ったら、嫌な顔をされました」
「置くなと言われた?」
「いえ。置いていいとは言いました。でも、自分は祈らないって」
「それは以前から?」
「はい」
「では、何が変わったのですか」
女性は答えに詰まった。
セヴェランは急がず待つ。
「怖くなったんです」
しばらくして、ようやく言った。
「何が?」
「この人と結婚していいのかなって」
夫婦になる。
同じ家で暮らす。
子供が生まれるかもしれない。
片方はエルディスを信じ、片方は信じていない。
「子供ができたら、どうするのか。私が祈っている時に、あの人がまた神なんて役に立たないって言ったらどうしようとか。私が大事にしているものを、ずっと理解してもらえなかったらどうしようとか」
考え始めると、止まらなくなった。
そして友人に相談した。
友人は「信仰の違う相手との結婚は大変だ」と言った。
母親は「結婚すれば変わることもある」と言った。
父親は「本人同士で決めなさい」と言った。
答えはばらばらだった。
そこで女性は、律衡院へ来た。
「あなたなら、分かると思ったんです」
セヴェランは眉をわずかに動かした。
「何がです?」
「エルディス様が、どう思われるか」
昨日までなら、この言葉に覚えていた違和感の正体は分からなかった。
今は分かる。
女性は、自分に神の意思を尋ねている。
そして。
セヴェランにとって、その神は自分だった。
「私に、決めてほしいのですか」
「はい」
返事は迷いがなかった。
「婚約を解くべきか、結婚するべきか」
「はい」
女性はセヴェランの目を見る。
「神父様は、教義をとてもよく理解していると聞きました」
「誰から?」
「何人かからです。懺悔を受けた人も、律衡院の方も」
少しずつ知られるようになっていたらしい。
「あなたの言葉なら、エルディス様の御心に近いと思います」
セヴェランの胸の奥が、静かに冷えた。
昨日。
自分はようやく理解した。
自分が何者であるのか。
もし今。
『別れなさい』
と言えば。
この女性はどうするのだろう。
「私が婚約を解くべきだと言ったら?」
女性は唇を結んだ。
少し苦しそうだった。
それでも答えた。
「解きます」
「本当は結婚したくても?」
「はい」
「では、結婚しなさいと言ったら?」
「結婚します」
「不安が消えなくても?」
女性は一度俯いた。
「それが正しいのなら」
そこで。
セヴェランには、はっきり分かった。
駄目だ。
どちらを選ぶべきかではない。
自分が今、どちらかを選んではいけない。
「決めません」
女性が顔を上げた。
「え?」
「婚約を解くべきとも、結婚するべきとも言いません」
明らかに戸惑っていた。
「どうしてですか」
「あなたの結婚だからです」
「でも、私は分からないから来たんです」
「相談には乗れます」
「なら、教えてください」
「何を?」
「どちらが正しいかです」
セヴェランは少し考え、首を横に振った。
「その二つのどちらかが、誰にとっても正しい答えとして最初から決まっているとは思いません」
「エルディス様にも?」
その問いが。
今までとは違う重さで届く。
セヴェランは、自分の内側へ答えを探した。
もちろん、彼女の人生を代わりに選ぶことはできる。
言葉にするだけだ。
この婚約者は信徒ではない。
父を失った時には神を罵った。
女性の信仰を一度傷つけた。
それらを理由に、別れた方が安全だと判断することもできる。
反対に。
婚約者は謝罪した。
女性の祈り自体は禁止していない。
互いに思い合っている。
だから結婚してもいいと言うこともできる。
どちらの理屈も作れる。
そして、自分がそれを神意だと言えば。
この女性は従う。
それは。
あまりにも簡単だった。
「神であっても」
セヴェランは慎重に言葉を選んだ。
「あなたの人生を、あなたの代わりに生きることはできません」
女性の表情が揺れる。
「では、神様は何も教えてくださらないんですか」
「そうは言っていません」
セヴェランは少し身を乗り出した。
「まず、あなたが本当に困っていることを考えましょう」
「婚約者が信じていないことです」
「本当に?」
女性が止まった。
「彼が明日からエルディスを信じると言えば、不安は全部なくなりますか」
「それは……」
「礼拝へ通い、祈るようになれば?」
「たぶん」
「でも、心の中では信じていなくても?」
女性の眉が寄る。
「それは嫌です」
「なぜ?」
「嘘だからです」
「では、信じることそのものが欲しいわけではない?」
女性はしばらく考えた。
「……違うかもしれません」
セヴェランは待つ。
「私が祈っている時」
女性はゆっくり話し始めた。
「馬鹿にされたくないです」
「はい」
「つらい時に祈ったら、そんなものに頼るなって言われたくない」
「はい」
「子供が自分から祈りたいと言ったら、止めてほしくないです」
そこまで言って、女性自身が気づいたようだった。
「私、あの人にも信じてほしいんじゃなくて」
「はい」
「信じている私を、否定しないでほしいんだ」
声が少し軽くなる。
セヴェランは頷いた。
「婚約者へ、それを伝えましたか?」
「……いいえ」
「何を伝えました?」
女性の頬がわずかに赤くなる。
「エルディス様を信じていない人と、家庭を作れるか分からないって」
「相手は何と?」
「信仰を強制されるなら、自分も結婚できるか分からないって」
今度はセヴェランが少しだけ困った顔になった。
「お互い、少し違う話をしているようですね」
女性も気づいたらしい。
苦笑した。
「そうですね」
「彼は、あなたに信仰を捨ててほしいと言っている?」
「言っていません」
「あなたは、彼に信仰を持ってほしい?」
女性はもう一度考える。
「持ってくれたら嬉しいです。でも」
しっかり顔を上げた。
「持たないなら持たないで、それを私へ押しつけないでほしいです」
「はい」
「私も、押しつけない」
「できそうですか?」
「……努力はします」
即答ではなかった。
だからこそ、セヴェランには信じられた。
「では、今決めるべきことは、婚約を解くかどうかではないかもしれませんね」
「話すこと?」
「はい」
何を信じるか。
家に聖印を置くこと。
互いの祈りや不信をどう扱うか。
将来、子供が生まれた場合にどうするか。
決めなければならないことは多い。
けれど、それらを決めるのはセヴェランではない。
「話して、それでも無理だと思ったら?」
女性が尋ねる。
「その時、改めて考えればいいと思います」
「別れても?」
「あなたたちが選ぶなら」
「結婚しても?」
「同じです」
女性はしばらく黙り、やがて深く息を吐いた。
「神父様は、ずるいですね」
「そうですか?」
「どっちにしろって言ってくれた方が楽だったのに」
「そうでしょうね」
「否定しないんですか」
「実際、楽だと思います」
女性が笑った。
「でも」
セヴェランも少し笑う。
「楽だからといって、私があなたの人生を受け取っていい理由にはなりません」
女性の笑みが止まり、しばらくこちらを見る。
やがて、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「はい」
「話してみます」
「何を伝えます?」
女性は指折り数えるように考えた。
「信じてほしいんじゃないこと。私が祈ることを否定してほしくないこと。子供ができた時のことは、二人でちゃんと決めたいこと」
少し迷い、
「それから、私も、お父様を亡くしたばかりのあの人に信仰を押しつけたことを、もう一度謝ります」
と付け加えた。
セヴェランは頷いた。
「それなら、かなり話すことがありますね」
「はい」
女性は立ち上がった。
扉まで行き、一度振り返る。
「でも、神父様」
「はい」
「もし本当に、どうしても決められなくなったら?」
セヴェランは考えた。
「また話を聞きます」
「決めてはくれない?」
「たぶん」
「頑固ですね」
「あなたも」
女性は驚いたあと、声を上げて笑った。
「そうかもしれません」
今度は少し軽い足取りで出ていった。
扉が閉じる。
セヴェランは一人になった懺悔室で、自分の手を見た。
今の女性が。
もし、自分の正体を知っていたら。
自分がただ教義に詳しい若い神父ではなく、エルディスそのものだと信じていたら。
同じように笑って帰れただろうか。
自分が「話し合いなさい」と言えば。
それさえ神命になるのではないか。
もっと些細な言葉も。
食べなさい。
休みなさい。
別れなさい。
結婚しなさい。
許しなさい。
戦いなさい。
一度、神の言葉として受け取られれば、相手は自分自身で考えることをやめるかもしれない。
それを望まない。
セヴェランははっきり思った。
自分がエルディスであることに迷いはない。
だが。
それを他人がどう受け取るかは、まったく別の問題だった。
午後の休憩で中庭へ出ると、老神父が先に長椅子へ座っていた。
「今日は早いですね」
「君が遅いんです」
隣へ座る。
老神父は持っていた焼き菓子を一つ差し出した。
「食べます?」
「いただきます」
「若いのに甘い物を断るようになったら心配しようと思ってました」
「どういう心配ですか」
「いろいろです」
二人で菓子を食べる。
しばらくして、セヴェランは尋ねた。
「先生」
「はい」
「人に答えを求められた時、答えないことはありますか?」
「ありますよ」
「答えが分かっていても?」
「あります」
「なぜ?」
老神父は菓子の欠片を払いながら考えた。
「その人が決めるべきことなら」
簡単な答えだった。
「でも、間違った選択をするかもしれません」
「しますね」
「止めない?」
「人を殺すとか、取り返しのつかない危険があるなら止めます。でも、そうでないなら、間違う権利まで取り上げるのは難しいですね」
「間違う権利」
「言い方は変ですが」
セヴェランは少し考えた。
自分ならもっと良い選択を知っている。
そう思える場面は、これから増えるかもしれない。
知識も増える。
経験も増える。
立場も上がるかもしれない。
そして今、自分は自分を神だと知っている。
だからこそ。
なおさら危険だった。
「昨日の秘密」
セヴェランが言うと、老神父がこちらを見る。
「はい?」
「聞かないんですか」
昨日、自分が一つ分かったと言い、秘密にしたこと。
老神父は少し首を傾げた。
「話したいんですか?」
セヴェランは考える。
「今は、いいです」
「なら、聞きません」
あまりにも簡単だった。
「気にならない?」
「気にはなりますよ」
「それでも?」
「君の話でしょう」
老神父は残りの菓子を食べる。
「話すかどうかまで私が決めることではありません」
セヴェランは思わず笑った。
「何です?」
「いえ」
「変な子ですね」
十七歳に子供と言うのはどうなのだろうと思ったが、今日は訂正しなかった。
夕方。
仕事を終えたセヴェランは懺悔室へ一人残り、帳面を開いた。
何を書くかは決まっている。
『自分の言葉が神意として扱われれば、人は自分の判断を私へ預ける可能性がある。』
書いてから、しばらく眺めた。
それは力だった。
治癒の光よりも。
強い魔術よりも。
場合によっては、ずっと簡単に人を動かせる力だった。
自分が命じれば従う。
自分が許せば安心する。
自分が否定すれば、自分自身の望みまで捨てる。
そこに悪意は必要ない。
むしろ、相手が自分を深く信じているほど起こりやすい。
セヴェランは次の一行を書く。
『それを望まない。』
さらに、
『名乗る必要はない。』
と記した。
筆を置く。
自分がエルディスである事実は、名乗らなくても変わらない。
隠せば神でなくなるわけでもない。
誰かから認めてもらわなければ成立しないものでもない。
ならば。
自分の名前を明かすことで、人が自分の意思までこちらへ預けてしまうのなら。
黙っていればいい。
セヴェランは帳面を閉じた。
自分が神であるからこそ、人の人生まで自分のものにはしない。
そのために必要なら、神は神を名乗らなくてもよかった。




