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足りない数字

「父さん、ここ、一つ足りません」


夕食後の食卓でそう言うと、向かいに座っていた父の手が止まった。


「何が?」


「合計です」


セヴェランは紙を父の方へ回した。


食卓の上には、夕食の皿ではなく紙の束が広がっている。

父と母が勤める救済所では月末になると支出の整理が増える。

今日持ち帰っていたのは、その確認に使う集計用の書類だった。


父が数字を読み直す。


「どこだ?」


「ここからここまで足すと、この額になります。でも下の合計は一件分少ないです」


セヴェランが指で示すと、父は眉間へ皺を寄せた。


「本当か?」


「もう二回計算しました」


「三回目は?」


「父さんがしてください」


「冷たいな」


「間違いを見つけた人が、正しい数字まで全部用意したら確認になりません」


「十七になってますます可愛げがなくなったな」


台所で茶を淹れていた母が笑った。


「あなたが計算苦手なだけでしょう」


「苦手じゃない。字が数字に似てるだけだ」


「それを世間では字が汚いって言うのよ」


父が抗議する。


「これは仕事用だから丁寧に書いてる」


セヴェランは父の紙を見る。


「普段よりは読めます」


「お前まで母さん側に付くのか」


「事実の側です」


母がとうとう声を上げて笑った。


いつもの夜だった。


仕事が多い日は、父が家で数字を確認することがある。

母は横で受領票を日付順に揃え、セヴェランも頼まれれば計算を手伝った。


幼い頃には、父から家計簿の見方を教わった。


一杯の食事でも一人分だから記録する。


小さな金額だからと抜けば、どこへ行ったのか分からなくなる。


記録は他人へ見せるためだけでなく、自分に誤魔化さないためにも残す。


今でも、父の考えは変わっていない。


父が三度目の計算を終えた。


「……確かに足りないな」


「でしょう?」


「得意そうな顔するな」


「していません」


「してる」


母が茶を三人分置きながら紙を覗く。


「転記漏れじゃない?」


「たぶんな」


父は集計表と、その横に積まれていた支出の控えを見比べ始めた。


セヴェランも自分の手元へ目を戻す。


もともと大きな問題ではないと思っていた。


書き写す時に一行落とした。


似た数字を見間違えた。


別の月へ入れるものが混じった。


数字が合わない理由など、いくらでもある。


しばらくして、父が「あった」と言った。


一枚の控えを取り出す。


「これだな」


セヴェランも見る。


支出額は、ちょうど不足している金額と同じだった。


「集計へ入っていませんね」


「ああ」


父は紙を裏返し、また表へ戻した。


母も横から覗き込む。


「これ、いつの?」


「月の半ば」


「じゃあ普通に入るはずじゃない?」


「そうだな」


父の返事が少し遅かった。


セヴェランはその遅れに気づいたが、すぐ意味を付けなかった。


父も疲れている。


間違いが見つかれば、確認するものが一つ増える。気が重くなっても不思議ではない。


「受領確認もあります」


セヴェランが紙の下を示す。


母の印だった。


母が手を伸ばして、控えを取る。


「私?」


「母さんの印に見えます」


「そうね」


母は少し考えるように紙を見ていた。


「覚えていませんか?」


「全部は覚えてないわ。毎月何件あると思ってるの」


「それはそうですね」


セヴェランは頷いた。


記録があるのは、覚えていなくても確認できるようにするためでもある。


父が紙を集計表の上へ置いた。


「明日、職場で元の記録を見れば分かるだろう」


「はい」


「今日はもう終わりにしないか」


時計を見ると、確かに遅い。


「まだ二枚残っています」


「明日でいい」


父にしては珍しかった。


普段なら、一度始めた確認は区切りまで終わらせる。

特に数字が合わないままなら、むしろ気になって続ける方だ。


セヴェランは父を見る。


「疲れました?」


「少しな」


父は肩を回した。


「最近、月末になると目が数字の形になる」


「それは治療が必要かもしれません」


「聖属性で治る?」


「目が数字になる病気なら、まず症例報告が必要です」


母がまた笑った。


父も笑う。


「じゃあ今日は寝る」


「それがいいわ」


母が紙をまとめ始める。


セヴェランも手伝った。


不足していた支出の控えだけは、父が別にした。


そこに深い意味を見つける必要はない。


明日、元の記録と照合する。


それで済むはずだった。


翌朝、セヴェランには救済所へ立ち寄る用事があった。


懺悔室へ入る前に、別の部署へ書類を届けるよう頼まれていたためだ。


昨夜のことがなければ、父へ挨拶をして、そのまま帰っただろう。


けれど。


建物へ入った時、昨日の支出が頭に浮かんだ。


確認すると父は言った。


ならば、自分が口を出す必要はない。


そう考えたところで、足が止まる。


昨日、母の印があった。


父の集計から一件だけ抜けていた。


父も母も関わっている。


だからこそ。


自分が父へ「確認しましたか」と聞いて終わらせるのは、少し違う気がした。


もし単純な転記漏れなら、それでいい。


しかし、もしそうでなかった場合。


両親へ確認を任せ、その説明だけを自分が受け取る形になる。


それは公平なのだろうか。


セヴェランは救済所の奥へ向かわず、受付近くにいた年配の職員へ声を掛けた。


何度か家にも来たことがある。父や母と長く一緒に働いている人だった。


「少し確認をお願いしてもいいですか」


「どうした?」


「昨日、月次集計の確認を手伝っていたら、一件だけ合計へ入っていない支出がありました」


職員の表情が少し真面目になる。


「番号は分かる?」


セヴェランは覚えていた番号を伝えた。


「父さんにも言った?」


「はい。今日、元の記録を確認すると言っていました」


「なら、そっちで――」


職員は言いかけて止まった。


セヴェランが続ける。


「母の受領確認もありました」


相手の目がわずかに変わる。


「なるほど」


「両親が関わっているので、僕から二人に確認するより、別の方に見てもらった方がいいと思いました」


職員はすぐには答えなかった。


「疑ってるのか?」


尋ねられ、セヴェランは自分の胸の中を確かめた。


疑いたくない。


問題がないといい。


ただの書き忘れであってほしい。


その気持ちは強い。


「分かりません」


だから、そう答えた。


「確認していないので」


職員はセヴェランをしばらく見たあと、頷いた。


「分かった。俺が見る」


「お願いします」


「君は?」


「届け物をして、その後は自分の仕事へ行きます」


「結果は?」


聞きたい。


今すぐ。


それでも。


「必要なら正式に教えてください」


「分かった」


セヴェランは頭を下げ、その場を離れた。


懺悔室へ入ってからも、何度か両親のことが頭に浮かんだ。


しかし扉が開けば、目の前の人を見る。


午前最初の人は、友人から借りた本を濡らしてしまい、まだ言い出せていない少年だった。

次は、病気の夫へ苛立って強い言葉をぶつけた女性。


大きな罪ではない。


それでも、一人ずつ話を聞く。


今の自分の不安を理由に、相手の話を早く終わらせることはしなかった。


昼近く。


懺悔室を出ると、廊下に朝の職員が立っていた。


いつもの顔ではなかった。


それだけで胸が少し沈んだ。


「セヴェラン」


「はい」


「少しいいか」


空いている小部屋へ入る。


扉を閉めると、職員は数枚の記録を机へ置いた。


「確認した」


セヴェランは椅子へ座らず、立ったまま聞いた。


「支出自体はある。集計への転記漏れだけじゃない」


「どういうことですか」


「正式な承認がない」


一瞬、意味を確かめる。


救済所の資金を出すには、用途ごとの確認が必要になる。

緊急時には通常より簡略な手続きもあるが、それでも誰が何のために決めたかは記録に残る。


「緊急扱いでは?」


「そっちも見た。載ってない」


「では、誰が支出を?」


職員は一度だけ息を吐いた。


「担当は君のお父さんだ」


胸が痛んだ。


まだ。


まだ、それだけで何かを決めてはいけない。


「受領の確認は?」


「君のお母さん」


昨日見た印と同じだ。


セヴェランは机の端を見る。


「支援を受けた人は?」


職員が少し迷った。


それから、一枚の記録をこちらへ向ける。


名前を見る。


最初は、すぐには分からなかった。


二度目に読んで。


母の旧姓と同じだと気づいた。


記憶を辿る。


幼い頃に何度か会ったことがある。


母方の親族だった。


喉が少し乾いた。


「親族ですね」


「そうらしい」


「困窮していたこと自体は?」


「そこまではまだ確認していない」


「では、分かっているのは」


セヴェランは一つずつ整理する。


「救済資金から支出された」


「ああ」


「通常の承認がない」


「ない」


「緊急支出の記録にもない」


「ない」


「父さんが支出を扱い、母さんが受領を確認している」


「ああ」


「受けた人は、母さんの親族」


職員が頷いた。


そこまで。


それ以上は分からない。


なぜ金が必要だったのか。


誰が最初に言い出したのか。


ほかに手続きがあったのか。


単なる記録上の不備なのか。


まだ何も聞いていない。


「これ以上」


セヴェランは言った。


「僕が調べない方がいいと思います」


職員がこちらを見る。


「そうだな」


「責任者へ渡してください」


「君からじゃなくていいのか?」


「僕の両親です」


声にすると、胸の痛みが少し強くなった。


職員は気遣うように黙る。


「大丈夫か?」


その問いに。


大丈夫です、と答えかけた。


やめた。


「大丈夫ではありません」


職員の顔が少し曇る。


セヴェランは続けた。


「両親なので。でも、確認しない理由にはできません」


言い終えた時、少しだけ息が苦しかった。


父と母だ。


自分へ法を教えた人たち。


一杯の食事も、一人分だから記録するのだと言った父。


記録は、自分に誤魔化さないためにも必要だと教えた父。


困っている人を放っておけない母。


毎日祈り、自分にも祈り方を教えた母。


今も好きだ。


だから。


問題がなければいいと思う。


それを望んでいる。


強く。


「責任者には俺から話す」


職員が言った。


「お願いします」


「君の名前は出すことになる。最初に気づいたのは君だから」


「構いません」


「ご両親にも?」


胸が痛む。


「はい」


それも必要だ。


自分だけ安全な場所へ隠れるつもりはなかった。


部屋を出る前に、職員がもう一度呼び止めた。


「セヴェラン」


「はい」


「今の段階で、決めつけるなよ」


セヴェランは相手を見る。


「しません」


「君なら分かってると思うけど」


「それでも言ってくれてありがとうございます」


職員は少しだけ笑った。


「そういうところは、まだ若いんだな」


「どういうところですか」


「人に言われなくても分かってることを、言われたらちゃんと聞くところ」


褒められているのか分からない。


「覚えておきます」


「そこは記録しなくていい」


少しだけ笑えた。


その日の仕事を終えて家へ帰ると、台所からいい匂いがしていた。


「おかえり」


母がいつも通り言う。


「ただいま」


父は食卓で何か読んでいた。


「遅かったな」


「懺悔が少し長くなりました」


「最近人気らしいな」


「人気で懺悔が増えるものですか?」


「お前、話を聞くの上手いって言われてるぞ」


「父さんが?」


「職場で聞いた」


母が料理を運びながら口を挟む。


「若い神父さんがちゃんと最後まで聞いてくれるって」


「知らないところで評判を聞くと恥ずかしいですね」


「いいじゃない」


いつもの父と母だった。


昨夜と変わらない。


母は鍋の味を少し濃くしすぎたと言い、父は食べる前から「俺は濃い方が好きだ」とかばった。


「まだ食べていないでしょう」


「匂いで分かる」


「昨日は字が数字に似てるって言ってましたね」


「関係あるか?」


「父さんの感覚はあまり信用できません」


「息子が冷たい」


母が笑った。


セヴェランも少し笑う。


聞きたい。


今朝の記録について。


どうして承認がなかったのか。


なぜ母方の親族へ金を出したのか。


父と母なら、きっと理由がある。


そう思いたい。


だからこそ、今ここで尋ねてはいけない気がした。


正式な確認が始まる前に、自分が見つけた内容を詳しく伝えれば、二人は何を確認されるのか知ることになる。


悪意があると決めつける必要はない。


それでも、言葉を考える時間を与える。


資料を確認する時間を与える。


二人で説明を揃えることだってできてしまう。


両親を疑っているからではない。


誰であっても同じ条件で確認されるべきだからだ。


「どうしたの?」


母が尋ねた。


「何がです?」


「さっきから考え事してる」


セヴェランは母を見る。


嘘をつく必要はない。


しかし、正式に確認されることを自分から先に教える必要もない。


「少し、仕事のことを考えていました」


「食事中くらい休みなさい」


「はい」


「この子、昔から考えすぎなんだよ」


父がパンをちぎりながら言う。


「父さんはもう少し考えた方がいいと思います」


「ほら、すぐこれだ」


母が笑う。


セヴェランも笑った。


笑えてしまうことが、少し苦しかった。


けれど。


苦しいからといって、今までの家族の時間が嘘になるわけではない。


今日、分からないことが見つかったからといって、昨日まで父と母からもらったものが消えるわけでもない。


それも一緒に持っていればいい。


食事を終えると、母が皿を片づけ、父が茶を淹れた。


昨日の紙について、父は何も言わなかった。


セヴェランも聞かなかった。


自室へ戻り、帳面を開く。


何を書くべきか、しばらく考えた。


事実だけなら簡単だった。


だが、これは自省録だ。


人について記録するのではなく、自分の判断を残すためのもの。


セヴェランは筆を取った。


『問題がないことを望んでいる。』


一度止まる。


その理由も書いた。


『両親だから。』


胸が痛んだ。


次の一行。


『その望みを、事実の代わりにしない。』


書いてから、長く見つめた。


自分は神である。


その確信は揺らがない。


だが。


神にも家族がいるなら。


家族を愛する。


無事でいてほしいと思う。


間違っていないでほしいと願う。


それまで捨てる必要はない。


むしろ、自分が何を望んでいるのか知っておかなければ、その望みが判断へ入り込んだ時に気づけない。


セヴェランはもう一文書いた。


『話を聞く時は、最後まで聞く。』


父にも。


母にも。


もし確認の時が来たら。


途中で決めない。


何をしたのか。


なぜしたのか。


何を考えていたのか。


全部聞く。


それでも、聞いた理由が事実を変えるとは限らない。


けれど理由を聞かずに量ることもない。


帳面を閉じる。


胸の痛みは消えなかった。


消そうとも思わなかった。


父と母だから苦しい。


それは判断の邪魔になる感情であると同時に、自分が二人を愛している証でもある。


なら。


苦しいままでいい。


セヴェランは灯りを消す前に、机の上の帳面へ一度だけ目を向けた。


問題がないことを、今も願っている。


だからこそ。


明日も、願いではなく事実を見るつもりだった。

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