助けたかった人
母は、食卓の中央へ一通の手紙を置いた。
夕食にはまだ少し早い。
父も母も救済所から戻ったばかりで、外套すら完全には片づけていなかった。
セヴェランが居間へ呼ばれて入ると、二人は向かい合うのではなく、並んで座っていた。
「今日、話を聞かれたわ」
母が先に言った。
「はい」
「お金を出した理由も、全部」
セヴェランは空いている椅子へ座った。
昨日、自分が見つけた記録について正式な確認が始まっている。
責任者からは、家族である自分が調査へ入らないよう言われていたし、それでいいと思っている。
だから、何を聞かれたのかも自分からは尋ねなかった。
父が机の上の手紙へ視線を落とす。
「これは、母さんの妹から来た手紙だ」
「調査に必要なものですか?」
「元の手紙は今日、向こうへ渡した。これは母さんが書き写していた方だ」
母が頷く。
「あなたにも読んでほしくて」
セヴェランはすぐには手を伸ばさなかった。
「読んでいいものなんですか?」
「家族として、読んでほしいの」
母の声は普段より少し低かった。
セヴェランは手紙を取った。
母の妹とは、幼い頃に何度か会ったことがある。
結婚して隣の地域へ移ってからは、顔を見る機会も減っていた。
二人の子供がいることも知っている。
手紙は長くなかった。
夫が仕事中の事故で脚を傷め、しばらく働けないこと。
蓄えが減り、家賃を二月分滞らせていること。
子供の一人が熱を出し、薬代まで重なったこと。
自分たちの地域の救済所へ申請を出しているが、夫の仕事先や収入の確認に時間が掛かっていること。
最後に、何度も書き直した跡のような一文があった。
『こんなことをお願いするのは恥ずかしいけれど、もし少しだけ貸してもらえるなら助かります』
セヴェランはそこまで読んで、紙を伏せなかった。
「この手紙が来たのは、いつですか?」
母が日付を答える。
問題の支出があった三日前だった。
「すぐにお金を送った?」
「最初は、家のお金を送ったわ」
「どれくらいですか」
母は金額を言った。
少なくない。家計が崩れるほどではないが、気軽に出せる額でもなかった。
父が続ける。
「俺の手元にあった分も足した。それで薬と食べ物はしばらく何とかなると思った」
「でも、足りなかった」
「ああ」
家賃まで払うには足りなかった。
妹の家では、すでに大家から支払いの期限を告げられていた。
すぐ追い出されるわけではないが、期限を過ぎれば退去について話し合うことになる。
申請していた救済金の確認は進んでいたものの、間に合う保証はなかった。
「向こうの救済所には連絡しましたか?」
「した」
父の返事は早かった。
担当者とも話した。申請は受理されていた。放置されていたわけではない。
夫が複数の現場を行き来する仕事だったため、普段の収入を確定するのに時間が掛かっていた。
緊急扱いへ切り替える相談もしていたが、地域をまたぐため追加の確認が必要だった。
「向こうが怠けていたわけではないんですね」
「違う」
「手続きをすれば、支援を受けられる可能性はあった?」
「高かったと思う」
「では、何日くらい待つ予定だったんですか」
父はすぐには答えなかった。
「三日か、四日。長ければもう少し」
母が膝の上で手を握った。
「それを聞いた次の日、私、妹のところへ行ったの」
セヴェランは母を見る。
「直接?」
「ええ。手紙だけじゃ分からなかったから」
朝早く家を出て、半日以上掛けて妹の町まで行ったという。
家は暖かくなかった。薪を節約していた。
食料棚には、固いパンと少しの豆、乾燥した野菜が残っているだけだった。
妹の夫は脚を固定したまま椅子に座り、立つだけでも人の手が必要だった。
熱を出した子供は寝台にいた。
もう一人の子供は、母が持っていったパンを見て喜んだ。
「妹ね」
母はそこで一度言葉を止めた。
「私の顔を見たら、最初に『ごめんね』って言ったの」
セヴェランは黙って聞いた。
「助けてって言ったことを謝ったのよ。自分たちで何とかできなくてごめんって」
母の目に涙が浮かんだ。
「それで私は、何に謝ってるのって言った。困った時に家族へ助けてって言うことの、何が悪いのって」
その言葉自体は、セヴェランも間違っていると思わない。
母は昔からそういう人だった。
困っている人を見れば、知らない相手でも立ち止まる。
家族ならなおさらだろう。
「その日のうちに戻って」
母が続ける。
「お父さんに、何とかできないかって頼んだの」
父が引き取る。
「俺も、何とかしたかった」
「だから救済資金を?」
「ああ」
父は目を逸らさなかった。
「正規の承認を取らずに?」
「ああ」
「母さんの妹だと知っていて?」
「もちろん知っていた」
「返すつもりでしたか?」
父の眉が少し動いた。
「……ああ」
数か月後、家にまとまった金が入る予定があった。
その時に自分たちの金で穴を埋めればいいと考えたという。
セヴェランはしばらく何も言わなかった。
これまで聞いたことを、頭の中で一つずつ並べる。
困っていたのは本当だった。申請もしていた。
支援を受けられる可能性も高かった。ただ、間に合うか分からなかった。
両親は先に自分たちの金を出した。それでも足りなかった。
そして父は、自分が管理に関わる救済資金へ手を伸ばした。
「僕も」
声にすると、父と母がこちらを見る。
「その家を見たら、助けたいと思ったと思います」
母の目から涙が落ちた。
セヴェランは続ける。
「手紙だけでもそう思います。子供が熱を出していて、食べ物も少なくて、家を出なければならなくなるかもしれないなら、何かしたいです」
父が息を吐いた。わずかに緊張がほどけたように見えた。
「そうだろ」
その言葉に、セヴェランはすぐ頷かなかった。父も気づいたのか、それ以上は言わなかった。
「父さん、ほかの方法は探しましたか?」
父は少し考える。
「全部だったとは言えない」
「例えば?」
「知人へ借りる。職場の仲間へ相談する。責任者に事情を話して、地域をまたぐ緊急処理ができないか改めて頼む。俺がその案件から外れて、別の担当に判断してもらう。今ならいくつも思いつく」
「その時は?」
父が苦く笑った。
「急いでた。それと、たぶん……焦ってた」
母の方を見る。
「母さんが見てきた話を聞いて、明日まで待つのも嫌になった」
母が小さく言う。
「私も急かしたわ」
「母さんだけのせいじゃない」
「でも、私が」
「最後に金を出したのは俺だ」
二人の言葉が重なる。
セヴェランは止めなかった。
どちらか一人のせいにするための話ではない。
母が頼んだことも、父が決めたことも、どちらも聞く必要がある。
やがて母がセヴェランを見る。
「あなたなら、あの家を見て、それでも三日待ってって言えた?」
声は少し震えていた。
すぐには答えられなかった。
熱を出した子供。食べ物の少ない棚。働けない父親。助けを求めたことを謝る母親。
自分がそこにいたら。
「待たせたくありません」
正直に答えた。
母の目が揺れる。
「僕も、今日何とかできないか探すと思います」
「でしょう?」
「はい。でも、救済所のお金を、自分だけで出していいことにはならないと思います」
母の顔が曇った。
「どうして」
責める声ではなかった。分かっていることを、もう一度聞きたいような声だった。
セヴェランは少し考えてから尋ね返す。
「同じ日に、別の家族も同じくらい困っていたらどうしますか」
母が黙る。
「父さんも母さんも知らない人です。子供が熱を出していて、家賃が払えなくて、申請の確認に何日か掛かっている。その人にも、同じ金を出せましたか?」
父が目を閉じた。
「出せない」
答えたのは父だった。
「全員に勝手に出していたら、基金が持たない。誰を先にするかも、俺一人で決められない」
セヴェランは頷く。
「だから、手続きがある」
父が自分で続けた。
「そういうことだな」
「はい」
「俺が、お前に教えたことだ」
父が笑った。苦い笑いだった。
「一杯でも一人分だから、記録する。誰の分か分からなくなるような扱いをするなって」
セヴェランは胸が痛んだ。
父は、自分が教えたことを信じていなかったわけではない。
今も信じている。だからこそ、苦しそうだった。
「父さんが教えたことが、嘘だったとは思いません」
父が顔を上げる。
「本当に?」
「はい。今、父さん自身が同じことを言いました」
父は何も言わなかった。
セヴェランは自分の手元へ視線を落とす。
「助けたかったことは、間違っていないと思います」
母が小さく息を呑む。
「でも、助けたい人が家族だったから、ほかの人にも必要なお金を自分たちだけで動かしていい、とは思いません」
「……うん」
母が答えた。
「僕も助けたいです。だから余計に、そこを混ぜたくないです」
しばらく、誰も話さなかった。
父が手紙を手に取る。
「これな」
「はい」
「妹さんの家へ金が届いた翌日、向こうの救済所から連絡が来た。緊急扱いが通る見込みだって」
セヴェランは父を見る。
「では、結果的には」
「待っていれば、たぶん正規に出た」
父は手紙を畳み直した。
「たぶん、な」
待っていても間に合ったかもしれないし、間に合わなかったかもしれない。
今から確かめる方法はない。その不確かさごと、父は自分の選択を抱えているようだった。
「あの時のお前ならどうしたって聞かれても、俺は今でも、あの家を見たら助けたいって答える」
「はい」
「でも、同じ金を勝手に出していいかって聞かれたら、駄目だって答える」
「はい」
「二つとも本当なんだな」
「僕もそう思います」
父の肩が少し落ちた。母は涙を拭っている。
セヴェランも楽ではなかった。
両親が自分のために金を使ったなら、もっと怒れたかもしれない。
遊ぶためでも、贅沢するためでもない。
困っている人を助けたかった。その人が、たまたま自分たちの家族だった。
事情を聞くほど理解できる。理解できるほど、してはいけなかったことまで曖昧にしたくなる。
そこが一番苦しかった。
「セヴェラン」
母が呼ぶ。
「はい」
「あなたに、こんな話をさせることになるなんて思わなかった」
「僕も、したくありません」
母が少し驚いた顔をした。
セヴェランは苦笑する。
「父さんと母さんだから、なおさら」
「そうよね」
母も小さく笑った。
「ごめんなさい」
「今は、僕に謝ることではないと思います」
「それもそうね」
母はもう一度涙を拭いた。
父が立ち上がる。
「飯にするか」
セヴェランが時計を見ると、とっくにいつもの夕食の時間を過ぎていた。
「今から?」
「食わない方がいいか?」
「いいえ。お腹は空いています」
「俺もだ」
母が立つ。
「今日は簡単なものよ」
「十分です」
台所へ向かう母を父が手伝う。
いつもと同じように皿を出し、パンを切る。
父が一枚落として母に叱られ、セヴェランが拾おうとすると「落ちたものは俺が食う」と先に取られた。
そんなことで少し笑った。何も解決していない。
それでも、家族で食卓を囲むことまで間違いにする必要はないと思った。
食事のあと、自室へ戻ったセヴェランは帳面を開いた。
今日は、書きたいことが多かった。けれど長く書けば正確になるとも限らない。
しばらく考えて、最初に一行。
『私も、助けたいと思った。』
そのまま残す。
次に、
『理由を理解できることと、その行為を正しいとすることは同じではない。』
さらに少し考える。
『助けたい相手が自分に近い時ほど、その人だけを選ぶ理由を、自分の善意で作らない。』
書き終えて、筆を置いた。
両親の事情を聞く前より、楽になった部分もある。
自分のために金を使ったわけではない。
本当に困っている人がいた。その人を救いたかった。
だからこそ、事情を知る前より問題は難しくなった。
善意があれば、間違いではなくなるわけではない。
間違いだったから、善意まで嘘になるわけでもない。
両方を残さなければならない。
セヴェランは帳面を閉じようとして、昨日の数字を思い出した。
一つだけ、まだ理由を聞いていないことがある。
父は、承認を取らずに金を出したことを認めた。母も、その支援を知っていた。
だが、あの支出が月の集計から抜けていた理由については、まだ何も分かっていない。
セヴェランはそのことを書かなかった。
自分で調べないと決めた以上、正式な確認の中で明らかになるのを待つ。
知らないものを、先に罪へ変えない。
助けたかったという理由を聞いた今日でも、数字が足りなかったという事実だけは変わっていなかった。




