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消した一行

「確認したいことがあります」


昼過ぎ、救済所の責任者に呼ばれたセヴェランは、小さな応接室へ入った。

机の向こうには責任者のほか、会計を担当する職員が一人座っている。


前に呼ばれた時とは違い、今日は二人とも書類を開いたままだった。


「ご両親の件です」


「はい」


セヴェランは椅子へ座った。


「先に言っておきますが、君へ調査を手伝ってもらうつもりはありません。家族ですからね」


「分かっています」


「ただ、最初に不一致を見つけたのが君なので、確認したい点が一つあります」


責任者が一枚の紙を机の中央へ置いた。


正式な帳簿ではない。月の支出を集計する前に使う下書きだった。

日付と支出番号、金額が並び、その横に父の字で小さな計算が書かれている。


「この紙を見たことは?」


セヴェランはすぐに触れず、上から目を通した。


「ありません」


「ご自宅にあったものでは?」


「少なくとも、僕が手伝った時には見ていません」


責任者は頷き、もう一枚を隣へ並べた。


今度は提出された月次集計の控えだ。


二枚を見比べる。


下書きにはある。


正式な集計にはない。


母方の親族へ渡された、あの支出が。


「最初の集計には入っていたんですね」


「そうです」


会計担当の職員が答えた。


「計算も合っています。その後、提出用へ移す段階でこの一件だけが外されています」


「書き写し忘れの可能性は?」


「調べました。単なる転記漏れとは考えにくいです」


その言い方で、セヴェランは続きを待った。


職員は別の記録を示した。


提出用の紙では、問題の支出を除いた金額で改めて計算されている。

途中の小計も、最後の合計も、その金額に合わせて書き直されていた。


一行を落としただけではない。


落とした後の数字まで整えられている。


「意図的だと?」


責任者はすぐには断定しなかった。


「少なくとも、偶然に一行を写し忘れた説明では足りません。ご両親にも確認しました」


胸の奥が重くなる。


「何と?」


「お父上が、自分で外したと認めました」


セヴェランは机の上の二枚を見る。


昨日まで残っていた可能性の一つが、消えた。


それでも、声は落ち着いていた。


「理由は聞いていますか」


「聞いています。ただし、詳しい内容は本人から聞いた方がいいでしょう」


「母さんは?」


責任者が一度、会計担当と目を合わせた。


「支援申請に添付されていた親族からの手紙を、処理途中で書類から外したことを認めています」


セヴェランの指が膝の上で止まった。


あの手紙。


困っている。


少しだけ貸してもらえるなら助かる。


母が書き写したものを、自分も読んだ。


「捨てたんですか」


「原本は残っています。提出を求めたところ、すぐに出されました」


少しだけ息が戻る。


だが、安心する話ではない。


「なぜ外したんですか」


「それも、ご本人から」


責任者はそう言って書類を閉じた。


「セヴェラン。ここから先は、君が何かする必要はありません」


「はい」


「ご両親だから軽く見る必要もない。逆に、ご両親だから君が重くする必要もない。調査と判断はこちらで行います」


「分かっています」


答えてから、セヴェランは少し考えた。


「一つだけ、お願いしてもいいですか」


「何でしょう」


「二人が最初に資金を動かした理由と、その後に記録へ手を入れたことを、同じ一つの行為として扱わないでください」


責任者の目が細くなる。


「どういう意味です?」


「重くしないでほしいという意味ではありません」


セヴェランは言葉を選んだ。


「親族を助けたいと思ったこと。正規の承認を取らずに公金を動かしたこと。その後、発覚を避けるため記録を変えたこと。それぞれ、理由も選んだ時点も違います。全部をまとめて『家族を助けたかったから』にすると、後の選択まで同じ理由で覆われます」


会計担当の職員が静かに頷いた。


責任者も表情を変えずに答えた。


「その点は、こちらも分けて見ます」


「ありがとうございます」


「君が言わなくても、そのつもりでした」


少しだけ恥ずかしくなる。


「すみません」


「謝る必要はありません。むしろ、そこを気にするくらいなら、自分で裁こうとしないことです」


「はい」


「今日は帰って、ご家族と話して構いません。ただし、証拠や調査内容についてこちらから伝えていない部分を探る必要はありません」


「分かりました」


部屋を出る。


廊下を歩きながら、セヴェランは胸の中にある感情を確かめた。


悲しい。


腹も立っている。


だが、最初に資金を動かしたことを聞いた時とは違う。


あの時は、してはいけないことだと思いながらも、自分もその家族を助けたいと思った。


今は。


なぜ記録を消したのか。


その答えを聞くのが怖かった。


家へ帰ると、父と母はすでにいた。


食卓には夕食ではなく、二つの封筒と一通の手紙が置かれていた。

母が自分に読ませた写しではない。

封筒の一つには救済所の印があり、もう一つは古く、何度も開いた跡がある。


父が椅子を示した。


「座ってくれ」


セヴェランは外套を掛けてから、いつもの席へ座った。


父と母も向かいにいる。


「今日、聞きました」


セヴェランから言った。


「集計から支出を外したのは、父さんだと」


父は目を逸らさなかった。


「そうだ」


「母さんが、妹さんからの手紙を書類から外したことも」


「はい」


母の声は小さかった。


セヴェランは二人を見る。


「どうしてですか」


それだけを聞いた。


父が机の上で両手を組んだ。


「最初に金を出した日の夜は、戻せば済むと思ってた」


「救済資金を?」


「ああ」


「家にまとまった金が入ったら」


「そうだ」


父は苦い顔で続けた。


「勝手に借りた。それがもう間違いだった。でも、その時の俺は、数か月後に同じ額を戻せば誰も損しないと思ってた」


セヴェランは口を挟まない。


「次の日、月末の集計を始めた。そこで気づいた。あの支出をそのまま載せたら、承認がないのがすぐ分かる」


「はい」


「誰に出したかも調べられる。母さんの妹だって分かる」


父の声が少し掠れた。


「その時、怖くなった」


セヴェランは父の顔を見る。


「何が?」


「仕事を失うこと。処分されること。母さんまで巻き込むこと。それから……お前に知られること」


最後だけ、少し間があった。


「僕に?」


母が俯く。


父は自嘲するように笑った。


「記録は残せって、お前に言ってきたからな」


セヴェランの胸が痛んだ。


「自分に都合の悪い時ほど残せって」


父は机の木目を見たまま続ける。


「それを教えた俺が、都合が悪くなった途端に一行消した」


しばらく、誰も何も言わなかった。


セヴェランは父へ尋ねた。


「消した時も、妹さんたちを助けるためでしたか」


父の目が上がる。


問いの意味は伝わったらしい。


答えはすぐには来なかった。


やがて父は首を横に振った。


「違う」


短い返事だった。


「金を出した時は助けたかった。もちろん、自分が正しかったとは言わない。でも、あの時見ていたのは、困ってる家族だった」


父の手が強く組まれる。


「一行を消した時に見てたのは、自分だった」


母の目から涙が落ちた。


セヴェランは母を見る。


「母さんは?」


「私は……」


母は古い封筒へ手を置いた。


「この手紙が書類に残っていたら、妹だってすぐ分かると思ったの」


「だから外した?」


「はい」


「父さんと相談して?」


母は首を横に振る。


「最初は私が一人でやりました。あとで話したら、お父さんも止めなかった」


父が黙って頷く。


「捨てなかったのは?」


母の指が封筒を撫でた。


「捨てられなかった」


「どうしてです」


「妹が、本当に困っていたことまで消すみたいで」


母は涙を拭った。


「それに、いつかお金を戻したら、全部元に戻すつもりだった。手紙も書類へ戻して、帳簿も直して……最初からちゃんとしていたみたいに」


最後の言葉は、自分で言って苦しくなったらしい。


母の声が途切れた。


セヴェランは静かに答えた。


「それは、元に戻すことではないと思います」


母が目を閉じる。


「うん」


「お金を返したとしても、一度、承認なく動かしたことはなくなりません。後から記録を戻しても、その時に隠したこともなくならない」


「分かってる」


父が言った。


「今はな」


父は顔を上げ、セヴェランを見る。


「いや、たぶん、その時もどこかでは分かってた。だから下書きを捨てられなかったんだと思う」


机の上に置かれたもう一つの封筒へ視線を向ける。


「最初の集計用紙が入っていますか」


「ああ。今日、提出した」


父は少しだけ笑った。


「お前が小さい頃、自分に誤魔化さないために記録するんだって言っただろ」


「覚えています」


「本当は、自分が一番覚えてなきゃいけなかった」


セヴェランはすぐに慰めなかった。


父が自分で言った言葉を、軽くしたくなかった。


「父さん」


「ん?」


「教えてくれたことが嘘だったとは思いません」


父の顔が少し歪む。


「まだそう言ってくれるのか」


「父さんが間違えたことと、昔言ったことが正しかったかどうかは別です」


母が泣きながら小さく笑った。


「本当に、そういうところは変わらないのね」


「変ですか?」


「いいえ。少し困るだけ」


「何が?」


母は答えず、首を振った。


セヴェランはそこで、自分の中にある怒りを隠さないことにした。


「僕は、悲しいです」


二人の顔が止まる。


「それから、少し腹が立っています」


父が頷く。


「当然だ」


「でも、軽蔑はしていません」


母の唇が震えた。


「どうして?」


「したことを見ているからです」


セヴェランは少し考えながら続けた。


「父さんと母さんが今までしてきたこと全部が、今日一日でなくなるわけではありません。僕に教えたことも、助けた人たちも、僕を育てたことも残っています」


母が目元を押さえる。


「だから今回のことが軽くなる、という意味でもありません」


「分かってる」


父がまた答えた。


「分かっています」


母も続けた。


その時、セヴェランは少しだけ救われた。


二人が、自分に「でも事情があった」と言い返さなかったからではない。


最初の善意と、その後の恐怖を自分たちで分けて見ていたからだ。


「金を出した時は」


父がゆっくり言う。


「今でも、あの家を見たら助けたくなると思う」


「はい」


「でも一行を消した時は、誰も助けてない」


父は自分の掌を見る。


「俺たちを守ろうとしただけだ」


セヴェランの胸に、その言葉が重く落ちた。


「僕も、そう思います」


父は目を閉じた。


しばらくして母が立ち上がる。


「食事、作るわ」


「今から?」


「何もしないで座っている方がつらいの」


その理由なら止めなかった。


「手伝います」


「今日はいい」


「でも」


「じゃあ、パンだけ切って」


セヴェランは頷き、台所へ一緒に入った。


父も少し遅れて立ち上がり、皿を出す。


いつもより静かな夕食になった。


それでも母が塩を入れすぎ、父が一口目で水を飲んだ時には、三人とも少し笑った。


笑っていいのかと、一瞬だけ考えた。


すぐにやめた。


今ここで笑ったことは、帳簿の一行を消したこととは関係がない。


間違いを認めることと、家族でいることも別だ。


食後、父が食卓を片づけながら言った。


「明日も、話を聞かれる」


「はい」


「たぶん、もっと色々聞かれる」


「そうでしょうね」


「全部話すつもりだ」


セヴェランは父を見る。


「分かりました」


母も小さく頷いた。


その横顔には迷いが残っていた。


何か言いたそうにも見えたが、セヴェランは先に聞かなかった。


話すなら、二人の言葉で話してほしい。


自室へ戻り、帳面を開く。


今日のことをどう書くか、長く迷う必要はなかった。


『善い目的から始まった間違いが、その後の選択まで善くするわけではない。』


次に、


『恐れたこと自体を責めない。恐れから何を選んだかを見る。』


さらに少し考え、


『間違えたことを隠すために選んだ行為は、最初の間違いとは別に量る。』


と書いた。


筆を置く。


父と母を愛している。


そのことは変わらない。


助けたかった気持ちも理解できる。


それでも、消した一行は戻らない。


正確には、紙へ書き戻すことはできる。


だが、一度消したという事実まで消すことはできない。


セヴェランは帳面を閉じた。


明日、両親が何を話すのかはまだ知らない。


だから、先回りして決めない。


ただ一つだけ、今夜はもう分かっていた。


助けたかった二人と、隠した二人は、別人ではない。


同じ父と母だった。


だからこそ、その両方を見て量らなければならなかった。

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