黙っていてほしい
「明日、あなたにも話を聞くそうです」
夕食のあと、母が言った。
セヴェランは持っていた茶の器を机へ戻した。
「僕にも?」
「最初に数字の不一致へ気づいたのがあなただから」
父が答える。
救済所の調査は続いている。
父が問題の支出を月次集計から外したことも、母が妹から届いた手紙を書類から外したことも、すでに二人自身が認めていた。
だから、自分に確認することが残っているとは思っていなかった。
「何を聞かれるんでしょう」
「俺たちが家で何を話したか、だと思う」
父の声は重かった。
セヴェランは二人を見る。
母はいつものように食器を片づけようとはしなかった。父も席を立たない。
昨日までなら食後には母が皿を重ね、父が茶を淹れ直す。
セヴェランが手伝おうとして、どちらかに「今日はいい」と言われることも多い。
今日は三人とも座ったままだった。
「調査の人から、そう言われたんですか?」
「全部じゃない」
父が答える。
「ただ、家族の間でこの件について話したかとは聞かれた。話したと答えたら、お前からも確認することになるかもしれないって」
「そうですか」
不自然なことではない。
調査側が知っているのは、記録と両親の正式な説明だ。
家で何を聞いたか。
父と母が自分へ何を話したか。
そこに違いがないか確認する。
必要なことだと思った。
「なら、聞かれたことに答えます」
そう言うと、母の指がわずかに動いた。
父が目を閉じる。
セヴェランは二人の顔を見た。
「何かありますか」
返事がない。
嫌な予感とは少し違った。
もう、何か新しい不正が出てくるのではないかという驚きはなかった。
それよりも。
言ってほしくないことがある人の沈黙に見えた。
「父さん」
呼ぶと、父が目を開いた。
「調査の人に話していないことがありますか」
「ある」
即答だった。
胸が少し痛んだ。
それでも、続きを待つ。
「帳簿から一行を外したことは話した。母さんが手紙を抜いたことも、向こうは知ってる」
「はい」
「俺が、母さんが手紙を外したことを後から知っていたことも?」
父は首を横に振った。
「そこまでは話してない」
セヴェランの表情がわずかに強張る。
母が口を開いた。
「聞かれなかったの」
「聞かれなかったから?」
「……はい」
嘘ではない。
少なくとも、そういうことになる。
だが、以前母は家で話した。
最初に手紙を外したのは自分一人だった。
あとから父へ話した。
父も止めなかった。
それは、二人が別々に証拠を隠したのではなく、途中から互いの行為を知ったうえで隠蔽を続けたということでもある。
「お金を戻したあと、帳簿と手紙を元へ戻すつもりだったことは?」
今度は父が答えた。
「それも話してない」
「どうしてですか」
父が苦しそうに息を吐いた。
「それを言えば、金を動かしたあと、発覚しないようにするつもりだったことまで明確になる」
「実際、そうだったんですよね」
「……ああ」
父は否定しなかった。
セヴェランは机の木目へ目を落とした。
調査側はすでに改竄を知っている。
それでも、意味は変わる。
その場で恐怖に駆られて一度だけ記録へ手を入れたのか。
補填するまで隠し、あとから記録を戻して、最初から問題などなかった形にしようとしていたのか。
後者なら、隠蔽は一瞬の判断ではなくなる。
「明日、それを聞かれると思いますか」
父は少し考えた。
「分からない」
「聞かれたら?」
父の口が閉じる。
母が俯く。
そこで、セヴェランはようやく理解した。
二人が何を言いたいのか。
理解したくなかった。
「僕に」
声が少し掠れた。
一度、喉を整える。
「黙っていてほしいんですか」
母が顔を上げた。
目に涙が浮かんでいた。
「……お願い」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
怒りより先に。
悲しさより先に。
嫌だと思った。
聞きたくなかった。
父と母から、その言葉だけは聞きたくなかった。
「何を、黙ればいいんですか」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
母が答える。
「昨日、家で話したこと」
「全部?」
「違うの」
母は慌てて首を横に振った。
「妹を助けるためにお金を使ったことも、記録を変えたことも、もう隠せないのは分かってる。隠そうとも思ってない」
「では?」
「お父さんが、私が手紙を外したことを知っていたこと。それから、お金を戻したあとに帳簿も戻そうと思っていたこと」
言葉の最後が震える。
「そこまで、自分から言わなくてもいいんじゃないかって」
セヴェランはしばらく何も言えなかった。
「自分から?」
「聞かれなければ」
「聞かれたら?」
母の唇が動かない。
父が低い声で言った。
「正直に答えろ」
セヴェランは父を見る。
母も驚いたように夫を見る。
「あなた」
「聞かれて嘘をつけとは言えない」
「じゃあ」
「でも」
父が続ける。
顔を上げるまでに、少し時間がかかった。
「聞かれなかったなら、言わないでほしい」
今度は。
父から言われた。
セヴェランは膝の上で手を握った。
「どうしてですか」
答えは分かっている。
それでも聞いた。
父自身の言葉で聞かなければならない。
「処分が重くなるかもしれない」
「はい」
「俺も母さんも、今の仕事を失う可能性が高い」
「はい」
「それだけじゃ済まないかもしれない」
父は一度視線を逸らした。
「一定期間、自由を制限される可能性もあると言われた」
母の肩が震えた。
「怖いんですか」
父はすぐに頷いた。
「ああ」
以前、一行を消した理由を尋ねた時と同じ答えだった。
怖かった。
仕事を失うこと。
処分されること。
家族からどう見られるか。
その恐怖から記録を変えた。
そして今。
同じ恐怖が、もう一度ここにある。
「セヴェラン」
母が手を伸ばした。
机の上で、セヴェランの手へ触れる。
「私たち、逃げたいわけじゃないの」
「はい」
「したことについては、ちゃんと話す。お金も返す。必要な処分も受ける」
「はい」
「ただ」
母の指に力が入った。
「もう分かっていることだけで、十分じゃないかって思ってしまうの」
セヴェランは母の手を見る。
幼い頃から何度、この手に触れられただろう。
熱が出た時。
転んだ時。
怖い夢を見た時。
治療を失敗して落ち込んだ時。
何かできるようになった時にも、母はよく頭を撫でた。
同じ手だった。
「それを決めるのは、誰ですか」
母の指が止まる。
「何が十分かを」
「……私たちじゃない」
「僕でもありません」
「うん」
母はそう答えた。
それでも手を離さなかった。
「分かってるの」
涙が一滴落ちる。
「分かってるけど、怖いの」
セヴェランはその涙を見た。
怖がること自体を責めるつもりはなかった。
恐怖は罪ではない。
恐れている人へ、恐れるなと命じても意味はない。
自分だって怖い。
父と母がいなくなるかもしれない。
この家で三人で食事をすることが、当たり前ではなくなるかもしれない。
両親の仕事も。
評判も。
自由も。
失われるかもしれない。
だから。
自分も黙りたい。
その事実に気づいた時、セヴェランは目を閉じた。
「僕も」
母が見る。
「言いたくありません」
父の顔が動いた。
セヴェランは自分の気持ちを確かめながら続けた。
「できるなら、何も問題がなかったことになってほしいです。父さんも母さんも明日も仕事へ行って、夜にはここに帰ってきてほしい」
母の目から涙が増えた。
「僕が黙れば処分が少し軽くなるなら、黙りたいです」
言葉にしてしまうと、胸がさらに痛んだ。
これは本心だった。
法を愛しているから家族を失いたいわけではない。
正しくありたいから両親が苦しむ姿を見たいわけでもない。
父と母だ。
愛している。
守りたい。
その気持ちは、どうしても消えない。
「なら」
母の声に、ごく小さな希望が混じった。
セヴェランはまだ答えなかった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何?」
「もし」
母の手を握り返す。
「これが、僕たちではなかったら」
二人を見る。
「別の家族だったら、どう思いますか」
父の顔が固くなる。
「困っている親族へ救済資金を出した職員がいた。その人は承認を取らなかった。発覚するのが怖くなって帳簿から一行を外した。その配偶者も証拠になる手紙を外した。あとから二人とも互いの行為を知った。それでも、お金を戻すまで黙っていようとした」
母がゆっくり手を離した。
「その家の子供が、それを知っていた」
セヴェランは続ける。
「その子にだけ、『家族だから言わないで』と頼んでいたら」
そこから先を言うのが苦しかった。
「父さんと母さんは、どう思いますか」
沈黙が落ちた。
長かった。
父が両手で顔を覆う。
「卑怯だと思う」
やがて、手の奥から声がした。
母が泣く。
「あなた」
「思うよ」
父が顔を上げる。
目が赤かった。
「俺なら、その親に言う。子供に背負わせるなって」
セヴェランは何も言わなかった。
父は自分で続ける。
「自分でやったことを、自分の子供に隠させるなって」
「はい」
「なのに」
父は苦しそうに笑った。
「今、同じことをしてる」
母が顔を覆った。
「ごめんなさい」
セヴェランはすぐに「大丈夫」とは言わなかった。
大丈夫ではない。
「母さん」
「うん」
「謝るなら、お願いを取り消しますか」
母は顔を上げる。
その質問は残酷だったかもしれない。
だが、謝罪したことと、望みが消えたことは同じではない。
母は長く迷った。
「……取り消した方がいいと思う」
「思う?」
「でも」
涙を拭う。
「言ってほしくない気持ちは、消えない」
正直だった。
セヴェランは少しだけ救われた。
「分かりました」
「怒らないの?」
「怒っています」
母の顔が曇る。
「でも、言いたくないと思うことまで責めません」
一行を消した時にも。
手紙を外した時にも。
恐怖があった。
恐怖そのものを罰するのではない。
そこから何を選ぶかを見る。
なら、自分たちにも同じことを適用しなければならない。
母が黙っていてほしいと思うことと。
そのためにセヴェランへ何を求めるかは。
別だ。
父が小さく息を吐いた。
「この話をしてる時点で、もうお前に背負わせてるな」
「少し」
「少しか?」
「かなり」
父が苦笑した。
母も、泣きながら少し笑った。
ほんの短い時間だけ。
いつもの家族の顔に戻った。
だからこそ余計につらかった。
父が真顔へ戻る。
「セヴェラン」
「はい」
「俺から言っておいて何だけど」
少し迷ってから、まっすぐこちらを見る。
「今、答えなくていい」
セヴェランは意外だった。
「いいんですか」
「よくはない。できれば黙っていてほしい」
父は正直に言った。
「でも、ここで俺たちに囲まれて決めさせるのも違う」
母が夫を見る。
父は続ける。
「明日聞かれるまで、一人で考えろ」
「それで、僕が話すと決めたら?」
父の表情が痛む。
それでも答えた。
「その時は」
しばらく言葉を探す。
「俺は嫌だと思う」
「はい」
「怖いし、できればやめてほしいと思う」
「はい」
「でも、お前を嫌いにはならない」
その言葉で。
セヴェランの胸が大きく揺れた。
父は自分が教えてきたことを、まだ完全には捨てていない。
恐怖に負けた。
記録を消した。
今も、息子に黙っていてほしいと思っている。
それでも最後のところで。
息子自身に選ばせようとしている。
「分かりました」
セヴェランは答えた。
「今夜、考えます」
食卓を片づける気には、誰もなれなかった。
結局、三人でしばらく座っていた。
何も話さない時間が続く。
母が先に立ち上がり、皿を運び始めた。
セヴェランも手伝う。
「いいのよ」
「動いていたいので」
昨日、母が言ったのと同じ理由だった。
母が少しだけ笑う。
「似たのね」
「誰に?」
「私に」
父が横から言った。
「そこは俺じゃないのか」
「あなた、こういう時ぼんやり座ってるじゃない」
「今も皿持ってるぞ」
「一枚だけ」
「一枚でも一枚分だ」
父が言った。
三人とも止まった。
昔から聞いてきた言葉。
一杯でも一人分。
一つでも記録する。
父自身も気づいたらしい。
苦い顔をしてから、今度は自分で笑った。
「本当に、逃げ場がないな」
セヴェランも小さく笑った。
「父さんが教えたんですよ」
「知ってる」
その夜、自室へ戻っても、セヴェランはすぐ帳面を開かなかった。
祈り台の前へ座る。
自分はエルディスである。
その認識は何も変わっていない。
けれど、神だから答えが簡単になるわけではなかった。
むしろ。
自分だけ例外へ逃げていい理由が、どこにもなくなる。
父と母を愛している。
失いたくない。
黙りたい。
その気持ちを消すつもりはなかった。
消せば公平になるわけでもない。
大切なのは、その気持ちがある自分が、明日何を選ぶかだった。
セヴェランは机へ移り、ようやく帳面を開いた。
『父と母を守りたい。』
まず、それを書いた。
少し迷い、
『できるなら、話したくない。』
とも書く。
どちらも消さない。
その下へ、
『その望みがあることを知った上で、明日決める。』
と続けた。
筆が止まる。
もう一つ。
今まで何度も、人へ問いかけてきたことがある。
誰が傷ついたか。
戻せるものはあるか。
戻せないものについて、何を負うべきか。
今度は、自分へ向ける。
もし黙ったら。
誰が得をする。
父と母だ。
自分もだ。
では。
同じことをした、知らない誰かの家族には?
その家の子供にも、同じ沈黙を認められるか。
答えは、まだ書かなかった。
今夜は。
決めない。
父が与えてくれた時間を使う。
セヴェランは帳面を閉じた。
眠れる気はしなかった。
それでも灯りを消す。
暗くなった部屋で、最後に浮かんだのは法典の言葉ではなかった。
父の顔だった。
母の手だった。
だからこそ。
明日の答えは、簡単には出したくなかった。




