神に特別はない
朝になっても、答えは変わらなかった。
眠れなかったわけではない。何度か目は覚めたが、夜の途中には眠ったらしい。窓から差し込む光を見て、セヴェランは普段とほとんど同じ時刻に起きた。
顔を洗い、服を整え、祈り台の前へ座る。
昨夜書いた言葉を思い出した。
父と母を守りたい。
できるなら、話したくない。
その気持ちは、朝になっても消えていなかった。
むしろ、寝室を出て台所から朝食の匂いがしてくると、昨日より強くなった。
今日も母が食事を作っている。
父が居間で新聞を開いている。
何も変わらない朝に見える。
このまま何も変わらなければいいと思った。
だからこそ、答えも変わらなかった。
セヴェランは目を閉じる。
「父と母を愛しています」
誰かへ報告するようにではなく、自分へ確認する。
「処分されてほしくありません。できるなら、今まで通りでいてほしいです」
そこまで言って、一度息を吸った。
「それでも、話します」
声にすると胸が痛んだ。
痛むから間違っている、とは思わなかった。
正しい判断をすれば心が軽くなるとは限らないことを、もう知っている。
セヴェランは立ち上がった。
台所へ入ると、母がパンを切っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
母はこちらを見て、何かを言いかけた。
だが、やめた。
父も食卓へ来る。
三人で朝食を取った。
誰も昨夜の話を出さなかった。
父が新聞の記事について一言だけ文句を言い、母が「朝から怒らないの」と注意する。セヴェランは温かい茶を飲みながら、それを聞いた。
いつもの朝だった。
食事を終えたあと、セヴェランが立ち上がると、父が呼び止めた。
「セヴェラン」
「はい」
父は少し迷った。
「決めたか?」
母の手が止まる。
セヴェランは二人を見る。
「はい」
それだけで、父には分かったらしい。
目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
母の顔も強張る。
「話すのね」
「はい」
母は俯いた。
胸が締めつけられる。
「ごめんなさい」
その言葉が自然に出た。
父がすぐに顔を上げる。
「謝るな」
「でも」
「お前が謝ることじゃない」
強い声だった。
父自身が少し驚いたように黙り、それからもう一度、今度は静かに言った。
「昨日、俺が考えろって言ったんだ。お前が決めたなら、それでいい」
母は何も言わなかった。
セヴェランは不安になった。
「母さん」
呼ぶと、母が顔を上げる。
泣いてはいなかった。
ただ、とても悲しそうだった。
「嫌ですか」
「嫌よ」
正直な答えだった。
セヴェランは黙る。
「話してほしくない。今だってそう思ってる」
「はい」
「でも」
母は目を閉じ、何度か呼吸してから続けた。
「あなたに嘘をついてほしいとも思わない」
セヴェランは母を見る。
「聞かれなくても話します」
母の表情が痛む。
「そう」
「昨日、聞かれなければ黙っていてほしいと言われました。でも、それでは調査する側が知るべき事実を、僕が選んで隠すことになると思います」
「うん」
「だから、僕から話します」
母は少しだけ唇を噛み、それから頷いた。
「分かった」
父が椅子から立ち上がる。
「行ってこい」
いつもの仕事へ送り出す時と同じ言葉だった。
セヴェランは一度だけ深く頭を下げ、家を出た。
外は晴れていた。
昨夜まで雨が降ったわけでもないのに、空気が妙に冷たく感じる。
救済所へ向かう道ではなく、律衡院の調査を担当する部署へ向かう。歩き慣れた町なのに、今日は一つ一つの角を妙に長く感じた。
途中、親子連れとすれ違う。
小さな子供が父親の手を引いていた。
それを見て、昨夜自分が両親へ尋ねたことを思い出す。
もし別の家族だったら。
同じことをした親が、子供へ黙っていてほしいと頼んでいたら。
自分はどう思う。
答えは、もう出ている。
その子だけに家族の秘密を背負わせるべきではない。
その家族だけ、子供の沈黙によって処分を軽くするべきでもない。
なら。
自分だけ違う理由はない。
調査室へ着くと、昨日まで何度か顔を合わせた責任者がいた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は予定どおり、いくつか確認させてもらいます」
セヴェランは椅子へ座る前に言った。
「その前に、こちらから話したいことがあります」
責任者が顔を上げる。
「何でしょう」
「家で両親から聞いたことで、正式な確認の中ではまだ話していないことがあります」
相手の表情が変わった。
「座ってください」
記録を取る職員も呼ばれた。
セヴェランは椅子へ座る。
緊張している。
自分でも分かった。
手のひらが少し冷たい。
「では、順番にお願いします」
セヴェランは話し始めた。
母が妹からの手紙を書類から外したこと。
そのこと自体はすでに把握されている。
だが、父は後から母の行為を知っていた。
そして止めず、結果として二人とも手紙が書類から外れた状態を維持した。
さらに。
家へまとまった金が入ったあと、救済資金へ同額を戻し、その後で帳簿と手紙を元へ戻すつもりだったこと。
「最初から正しい記録だったように戻す、という意味ですか」
責任者が確認する。
「両親は、そう考えていたと話しました」
「誰がそう言いました?」
「二人ともです。最初に話したのは母です。父も否定しませんでした」
「あなた自身が何か記録を見ましたか?」
「いいえ」
「では、その点についてはご両親から聞いた証言だけ?」
「はい」
分からないものは分からないままにする。
自分の解釈を事実へ混ぜない。
「ほかには?」
セヴェランは一瞬迷った。
昨日のお願い。
それも必要だ。
「昨夜、両親から、このことを調査側へ自分から話さないでほしいと頼まれました」
記録を取る筆が止まらず動く。
「どういう意味で?」
「聞かれて嘘をつけとは言われていません。ただ、聞かれなければ、家で話したことについては言わないでほしいと」
「どちらから?」
「最初は母から。その後、父からも言われました」
責任者はしばらく黙った。
「そして、あなたは今日、自分から話した」
「はい」
「なぜです?」
その質問に答える時が来た。
セヴェランは一度、膝の上の手を見る。
「両親だからです」
責任者の眉がわずかに動く。
「両親だから話した?」
「両親だから、黙りたいと思いました」
正確に言う。
「守りたいです。処分されてほしくありません。仕事も失ってほしくないし、自由を制限されることにもなってほしくありません」
記録係の職員がわずかに顔を上げた。
セヴェランは続ける。
「だから、その気持ちがある自分に、何を話すべきか決めさせるのは危険だと思いました」
責任者は何も言わない。
「僕が知らない人について同じ証言を知っていたら、調査側へ伝えるべきだと思います。両親だから伝えないなら、両親だけに例外を作ることになります」
「家族を守るのは、そんなにおかしいことですか」
責任者の質問は責める調子ではなかった。
セヴェランは少し考える。
「守ること自体は、おかしいと思いません」
「では?」
「自分のお金を渡す。必要な支援をする。面会する。困っている時に助ける。そういうことなら、僕もしたいです」
声が少し震えた。
「でも、法の外へ置くことで守るのは違います」
部屋が静かになった。
責任者はしばらくセヴェランを見た。
「分かりました」
記録係へ視線を移し、いくつか確認する。
セヴェランは胸の奥の痛みが消えないまま、待った。
一通りの記録が終わったところで、責任者が尋ねる。
「ほかに何か伝えておきたいことはありますか」
「あります」
セヴェランはすぐ答えた。
「両親だから、重く罰しないでください」
責任者の表情が変わる。
「……軽く、ではなく?」
「重く、です」
「どういう意味です?」
「僕が証言したことで、家族を売ったように見えるかもしれません」
自分で言って胸が痛む。
それでも続ける。
「だからといって、僕が公平であることを示すために、両親へ厳しくする必要はありません」
責任者は静かに聞いている。
「最初に資金を動かした理由には、考慮すべき事情があります。本当に困窮した人がいた。両親は自分たちのお金も先に出した。それでも足りず、間に合わないことを恐れた」
「はい」
「その後、記録を変え、隠そうとしたことは別に見るべきです。でも、それも含めて」
セヴェランは顔を上げる。
「両親だから軽くもしないでください。両親だから重くもしないでください」
責任者と目が合う。
「もし同じことをしたのが、僕の知らない職員だったら。その人が受けるのと同じ扱いにしてください」
長い沈黙があった。
責任者が椅子へ深く座り直す。
「君は、ご両親がどんな処分を受けても、それでいいと言っているんですか」
「いいとは思いません」
答えはすぐ出た。
「嫌です」
「それでも?」
「はい」
「なぜ」
そこだった。
昨日から何度も考えた。
自分はエルディスだ。
神である。
だが、この場でそのことを言う必要はない。
言葉にしなくても、自分の中では答えは明確だった。
「僕の家族だけ、違う法で量る理由がないからです」
責任者は黙っている。
セヴェランは、自分の中でその考えを最後まで言葉にする。
「僕の父と母だから例外にするなら、ほかの人にも同じことを認めなければいけません」
「ほかの人にも?」
「誰にでも、父と母がいます。子供がいる人も、兄弟がいる人も、愛している相手がいる人もいる」
あの支援を受けた母の妹にも家族がいる。
救済資金を必要としていた、名前も知らない別の人たちにも家族がいる。
「僕の家族だけが大切だから、違う扱いをしていいということにはなりません」
責任者の視線を受けたまま、セヴェランは言った。
「神に特別はありません」
口にした瞬間。
その言葉が自分の中で、妙なほど静かに収まった。
自分も。
父も。
母も。
信徒も。
神を嫌う人も。
罪を犯した人も。
悔いている人も。
誰も、法の外にはいない。
もちろん。
自分自身も。
「だから」
セヴェランは続けた。
「他人だった場合と同じように扱ってください」
責任者はすぐには返事をしなかった。
やがて、静かに頷く。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「ただし」
責任者の声が少し厳しくなる。
「処分を決めるのは君ではありません」
「はい」
「事情をどう評価するかも、こちらで判断します」
「それでいいです」
「君の望んだ重さにならない可能性もある」
「分かっています」
その答えに迷いはなかった。
自分は証言する。
必要な事実を渡す。
そこから先まで自分で決めない。
それもまた、他人へ判断を返すことだった。
調査室を出ると、廊下の窓から昼の光が差し込んでいた。
終わった。
そう思いかけて、やめた。
何も終わっていない。
両親の処分はまだ決まっていない。
これから話を聞かれる。
追加の確認もあるだろう。
家へ帰れば、父と母がいる。
自分が何を話したのか、伝えなければならない。
それでも。
自分が黙るかどうかについてだけは、もう終わった。
夕方、家へ帰った。
玄関を開ける。
「ただいま」
少し間があって、
「おかえり」
母の声が返ってきた。
居間へ入ると、父もいた。
二人とも食卓に座っている。
料理はまだ出ていない。
セヴェランは向かいへ座った。
父が先に聞く。
「話したか」
「はい」
母の肩がわずかに落ちた。
「全部?」
「家で聞いたことは、話しました。父さんが手紙のことを後から知っていたことも、お金を戻したあとに記録を戻そうとしていたことも」
母が目を閉じる。
「それから」
言わなければならない。
「昨夜、黙っていてほしいと頼まれたことも」
母の目から涙が落ちた。
父は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
セヴェランの胸が痛む。
「ごめんなさい」
また言ってしまった。
父が顔を上げる。
「昨日も言っただろ」
「はい」
「謝るな」
「でも」
「俺たちがやったことだ」
父の声は震えていた。
「お前が話したせいで起きるんじゃない」
母が涙を拭う。
「分かってる」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「分かってるのよ」
セヴェランは二人を見る。
「もう一つ、伝えました」
父が眉を寄せる。
「何を?」
「両親だから重くしないでほしいと」
父が一瞬、意味を理解できなかった顔をした。
「軽く、じゃなく?」
「はい」
母もこちらを見る。
「軽くもしないでほしいと言いました」
「じゃあ、何を」
「他人だった時と同じにしてください、と」
父の顔が歪んだ。
笑ったのか。
泣きそうなのか。
セヴェランには分からなかった。
「お前は」
父が額へ手を当てる。
「本当に」
そこで言葉を失う。
母が小さく笑った。
涙はまだ残っている。
「私たちが育てた子ね」
その言葉が胸に刺さった。
「嫌ですか」
聞くと、父がすぐに首を横に振った。
「違う」
顔を上げる。
「その逆だ」
母も頷いた。
「ただ、今はちょっと、つらいだけ」
「僕もです」
「そうよね」
母が手を伸ばした。
セヴェランも手を出す。
机の中央で、母の手が重なる。
少し遅れて父の手も乗った。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
罪が消えるわけではない。
処分もなくならない。
この手を重ねたからといって、調査へ出した言葉を撤回するつもりもない。
それでも。
家族であることまで、今日ここで捨てる必要はなかった。
夜、自室へ戻ったセヴェランは帳面を開いた。
昨日の最後の一文を読む。
『その望みがあることを知った上で、明日決める。』
その下へ、新しく書く。
『話した。』
たった四文字だった。
少し考え、次の行へ続ける。
『父と母だから軽くしない。父と母だから重くもしない。』
そして最後に、
『神に特別はない。』
筆を置く。
言葉は短い。
だが、それで足りた。
自分が神であるなら。
神の家族という理由で、誰かを法の外へ置いてはいけない。
そして同じように。
神自身も。
法の外にはいなかった。




