許せないままで
「私は、姉を許せません」
女性はそう言ったあと、膝の上で重ねていた両手を強く握った。
三十歳前後だろう。薄茶色の外套を着ている。
懺悔室へ入ってからずっと落ち着いた話し方をしていたが、姉のことを口にした時だけ、声の奥に固いものが混じった。
セヴェランはすぐに答えず、少し待ってから尋ねた。
「姉を許せないことが、悪いと思っているのですか?」
「はい」
「なぜです?」
女性は迷いながらも、律衡院で何度も聞いた教えを口にした。
「悔いた人には、帰る道を残さなければならないでしょう」
セヴェランは頷いた。
間違った者が責任を果たそうとしているなら、永遠に罪人として扱わない。
それはセヴェラン自身も大切にしている考えだった。
「お姉さんは悔いているのですね」
「……たぶん」
「たぶん?」
「手紙が来るんです。何度も」
女性は視線を落とした。
姉は謝りたいと書いてくる。
会って話したい、自分が逃げたことを後悔している、と。
「何から逃げたのです?」
セヴェランが聞くと、女性は一度深く息を吸った。
「母です」
そこから、少しずつ話が始まった。
姉妹は二人だった。父親は早くに亡くなり、母親が病気になった頃には二人とも成人していた。
最初は姉妹で看病した。食事を作り、薬を取りに行き、夜中に熱が上がれば起きる。
仕事も続けながら、交代で母を支えた。
「姉は、母と昔から仲がよくなかったんです。母は厳しい人でした。特に姉には」
「あなたには?」
「私にも厳しかったです。でも、姉ほどじゃなかったと思います」
数か月が過ぎた頃、姉はいなくなった。
置き手紙だけを残して。
もう無理。
ごめんなさい。
しばらく一人にしてほしい。
それだけだった。
「どこへ行ったのです?」
「知り合いのいる町へ。あとで分かりました」
「連絡は?」
「最初の半年は何も」
女性の声が少し強くなる。
「全部、私一人になったんです」
仕事も、看病も、家のことも、金の管理も、医者との相談も。
母は少しずつ弱り、歩くことも難しくなった。夜中に何度も起こされ、眠れない日が続いた。
「私だって逃げたかった」
女性ははっきり言った。
「はい」
「何度も思いました。もう嫌だって。私だって自分の生活があったし、仕事もあったし」
「はい」
「でも逃げなかった」
指先にまた力が入る。
「姉だけ逃げたんです」
セヴェランは聞いていた。
姉にも事情があったのだろう、と今ここで言う必要はない。
母との関係が悪かった。限界だったのかもしれない。それは想像できる。
けれど今、目の前の女性が話しているのは、一人で残された側のことだった。
「お母様は、その後?」
「一年半後に亡くなりました」
声が小さくなる。
「その頃、お姉さんから連絡は?」
「最後の三か月くらいは、手紙が来ていました。戻りたい、母に会いたい、話したいって」
女性は返事をしなかった。
母親は一度だけ、姉が元気なのかと尋ねたという。
それ以上は聞かなかった。女性も、姉から手紙が来ていることを言わなかった。
「お母様が亡くなった時、お姉さんには?」
「知らせました」
葬儀の日も伝えた。
姉は来た。
家の前まで。
けれど、女性は家へ入れなかった。
「帰れって言いました。今さら家族みたいな顔をするなって」
姉は泣いていた。
何度も謝った。
母に一度だけ会わせてほしいと頼んだ。
もう亡くなった後だったが、それでも顔を見たいと言った。
「でも、嫌だって言いました」
女性の目に涙が浮かぶ。
「姉は帰りました」
葬儀が終わったあと、女性は姉へ手紙を書いた。
セヴェランは少し待ってから尋ねる。
「何と書いたのです?」
返事はなかなか出てこなかった。
やがて女性は、唇を震わせながら言った。
「母は、最後まであなたを待っていたって」
「事実ですか?」
女性は首を横に振った。
涙が頬を伝う。
「分かりません。母は一度だけ、姉が元気なのかって聞いただけです」
「では、どうしてそう書いたのです?」
女性は両手で顔を覆った。
「傷つけたかったんです」
それからしばらく、泣く声だけが続いた。
「姉にも、私と同じくらい苦しんでほしかった。母の死に目に会えなかったことを、一生後悔すればいいと思いました」
セヴェランは急いで慰めなかった。
女性が落ち着くまで待ち、それから尋ねる。
「あなたが今、悪かったと思っているのは何ですか?」
「全部です」
「全部?」
「姉を許せないことも、葬儀に入れなかったことも、嘘をついたことも。全部」
一つになっている。
セヴェランは、そのままでは量れないと思った。
「順番に考えてもいいですか?」
女性が涙を拭いながら頷く。
「まず、お姉さんを許せないこと。今も変わりませんか?」
「はい」
返事は早かった。
「手紙を読んでも?」
「読んでいます」
「後悔していると書かれていても?」
「それでも許せません」
「会いたいと言われても?」
「会いたくありません」
セヴェランは静かに頷いた。
「分かりました」
女性が驚いた顔をする。
「それだけですか?」
「はい」
「悪くないんですか?」
問われて、セヴェランは少し考えた。
悔いた者へ帰る道を残す。それは必要だ。
だが、帰る道とは何だろう。
罪を犯す前と同じ場所へ戻してもらうことなのか。
傷つけた相手から、もう一度愛してもらうことなのか。
家族なら、以前と同じ関係へ戻ることを要求できるのか。
違うと思った。
「許せないという感情そのものを、罪として量ることはできないと思います」
女性の目が揺れた。
「でも、姉は後悔してるんです」
「はい」
「それなら、帰る道を残さないと」
「残す必要はあると思います」
「なら」
「ただし、その道が必ずあなたの家へ戻る道でなければならないとは思いません」
女性が黙った。
セヴェランは言葉を選びながら続ける。
「お姉さんが責任を認め、変わろうとしているなら、その後の人生まで永遠に壊れ続ける必要はないでしょう。でも、そのためにあなたへ『もう一度姉として受け入れなさい』『会いたくなくても会いなさい』と命じるなら、それはあなたの選択を奪うことになります」
女性の頬を、また涙が伝った。
「……許さなくてもいいんですか」
「私が許可することではありません」
セヴェランは答えた。
「許せるかどうかは、あなたの心のことです」
「ずっと憎んだままでも?」
「その憎しみから何をするかは、別に考える必要があります」
女性が顔を上げる。
セヴェランは指を三本立てた。
「許せないこと。葬儀へ入れなかったこと。お母様について嘘をついたこと。今は三つが一緒になっています」
一本目を下ろす。
「許せないという気持ちは、あなたのものです」
二本目。
「葬儀へ入れなかったことについては、その時のお母様の意思や家の事情まで私は知りません。今の話だけで、私が簡単に決めることはできません」
最後の一本だけ残す。
「ですが、お母様の言葉について嘘をついたことは、少し違います」
女性の表情が固くなる。
「あなたは先ほど、理由を教えてくれました」
「傷つけたかった」
「はい。お母様が本当にそう思っていたか分からないのに、姉を傷つけるため、その言葉を使った」
「はい」
「そこには、あなたが選んだ行為があります」
女性は俯いた。
「……そうですよね」
「はい」
しばらくして、女性が小さく息を吐いた。
「変ですね」
「何がです?」
「さっきより、悪かったことをはっきり言われたのに」
涙の跡が残った顔で、少し笑う。
「さっきより楽です」
セヴェランには、その理由が少し分かる気がした。
女性は全部を一つにしていた。
姉を許せない自分。姉を憎む自分。葬儀から追い返した自分。嘘をついた自分。
全部まとめて、自分は悪い人間なのだと思っていた。
だが、分ければ責任を置ける場所が見える。
「戻せるものはありますか?」
セヴェランが尋ねる。
女性は長く考えた。
「嘘を、訂正できます」
「はい」
「母が最後まで待っていたなんて、本当は分からないって。傷つけたくて書いたんだって」
声が震える。
「言えます」
「それは、あなたにできます」
女性は頷き、それから少し迷った。
「姉に会わないままでも?」
「訂正はできます」
「許さないままでも?」
「できます」
「手紙で?」
「できます」
女性は少しだけ笑った。
「神父様、会わせようとしないんですね」
「会いたくないと言いましたから」
「普通は、家族なんだから仲直りしなさいって言われます」
セヴェランは眉を寄せた。
「家族なら、何をされても以前と同じ関係へ戻らなければならないのですか?」
女性は答えない。
「私は、そうは思いません。お姉さんが変わったかを見ることも、会うかどうか決めることも、あなたが選ぶことです」
「ずっと会わなかったら、後悔するかもしれません」
「はい」
「それでも?」
「後悔しない選択だけを選ぶ方法を、私は知りません」
女性が少しだけ笑った。
「若いのに、そこは言い切らないんですね」
「分からないことなので」
「そうですか」
女性の両手から、ようやく少し力が抜けた。
「まず、手紙を書きます」
「はい」
「仲直りする手紙じゃありません」
「はい」
「嘘を訂正します」
「それでいいと思います」
「それから……返事を読むのは、その後にします」
セヴェランは頷いた。
女性が立ち上がり、扉へ向かう。
ところが手を掛ける前に、もう一度振り返った。
「エルディス様は」
その名前に、セヴェランの意識が少しだけ向く。
「許せない人間を、嫌いますか?」
セヴェランはすぐには答えなかった。
また、不思議な問いだった。
遠くにいる誰かの考えを尋ねられているはずなのに、エルディスならどう思うのかを想像しようという感覚が、うまく生まれない。
それでも答えはあった。
「少なくとも、誰か一人を許せないという理由だけで、あなたという人間すべてを悪いものとして量ることはないでしょう」
女性の表情が緩んだ。
「そうですか」
「ええ」
「ありがとうございました」
女性は頭を下げ、懺悔室を出ていった。
扉が閉じる。
セヴェランはしばらく向かいの空席を見ていた。
今の答えを、自分はどこから持ってきたのだろう。
エルディスならどう考えるか。
そう問われたのだから、普通なら聖典の言葉を思い出し、教えと照らして答えるのだろう。
自分も教義を知っている。
けれど、答える瞬間には何も探さなかった。
誰かを許せないという感情一つで、その人間全体を悪いものとして量ることなどない。
最初から、そう分かっていた。
子供の頃から何度もあった感覚だった。
教えを聞く時も、祈る時も、「エルディスなら」と誰かが口にする時も、どこか小さく距離がずれる。
セヴェランが考え込んでいると、扉が開いた。
老神父が顔を出す。
「終わりました?」
「はい」
「難しかった?」
「少し」
老神父が笑った。
「最近、その答えが増えましたね」
「人の話が毎回違うので」
「いいことです」
休憩のため中庭へ出る。春の風が石畳を抜け、木の葉を揺らしていた。
長椅子へ座ると、老神父も隣へ来る。
「今日は何が難しかったんです?」
内容そのものは話せない。
セヴェランは自分の考えだけを言葉にした。
「悔いた人へ帰る道を残すことと、傷つけられた人へ許す義務を負わせることの違いです」
「それで?」
「同じにはできないと思いました」
「なぜ?」
「帰りたい人のために、傷つけられた人の選択まで変えれば、別の強制になるからです」
老神父はすぐには答えなかった。
「厳しいですね」
「誰に?」
「帰りたい側に」
セヴェランは少し考えてから頷いた。
「そうかもしれません。でも、帰りたいからといって、以前と同じ場所へ戻れるとは限りません」
「では、帰る道とは何でしょう」
今度は老神父から問われる。
セヴェランは少し困った顔をした。
「私が聞かれているんですか?」
「はい」
「答えを教えてくださらない?」
「君、自分で考えるの好きでしょう」
否定できなかった。
セヴェランは中庭の向こうを眺める。
同じ場所へ戻ることではない。
罪を犯す前と同じ人になることでもない。
過去は消えない。
なら。
「それでも、その後を生きられること」
口にしてから、自分で確かめる。
「責任を取ったあとに、自分がしたことだけで残りの人生全部を決められないこと」
老神父が静かに頷いた。
「私は、いい答えだと思います」
「でも、今の答え?」
「そうですね。変わってもいい」
セヴェランも頷く。
まだ完成ではない。
だから記録する。
夕方、懺悔室での仕事を終えると、セヴェランは帳面を開いた。
話の内容は書けないので、自分の考えだけを残す。
『悔いる者へ道を残すことと、傷つけられた者へ許す義務を負わせることは同じではない』
次に、
『感情と、その感情から選んだ行為を同じものとして扱わない』
と書く。
そこで一度、筆が止まった。
どこか懐かしい。
人を、その人の罪そのものとして扱わない。
昔から知っている言葉に少し似ていた。
怒る。
憎む。
許せない。
そう感じたことだけで、人間全部をその感情にしてはいけない。
けれど、どれほど傷ついていても、その怒りを使って誰かを傷つけたなら、選んだ行為まで無かったことにはならない。
どちらも見る。
混ぜない。
セヴェランはもう一文書いた。
『何を感じたかだけで人を量らず、その感情から何を選んだかを見る。ただし、感じたことまで無かったことにさせない』
少し長かったが、そのまま残した。
帰る前に礼拝堂へ寄ると、人はもう少なかった。
一人の老婦人が聖印を見上げ、小さな声で祈っている。
「どうか、あの子をお許しください」
誰について祈っているのかは分からない。
何をしたのかも。
セヴェランは少し離れた席へ座った。
許しについて、最近よく考える。
許すこと。
責任を取ること。
その後を生きること。
同じではない。
人々はエルディスへ尋ねる。
許されますか。
もう戻っていいですか。
まだ生きていていいですか。
セヴェランは聖印を見た。
なぜか、自分も一緒になって遠くの誰かへ答えを求めようという気持ちにはならなかった。
それよりも先に思う。
ちゃんと聞かなければならない。
何をしたのか。
何を悔いているのか。
何を戻せるのか。
もう戻せないものは何か。
その人自身は、何を選ぼうとしているのか。
それを聞いて。
それから答えなければ。
セヴェランは目を閉じなかった。
隣で老婦人が祈り終えるまで、ただ静かに座っていた。




