話し終えるまで
十七歳になった春、セヴェランは初めて一人で懺悔室の椅子に座った。
思っていたより狭い部屋だった。
二人が向かい合って座れるほどの広さに、小さな机と椅子が二脚。壁には使い込まれた聖印が掛けられ、高い位置にある小窓から細い光が入っている。
華やかなものは何もなく、長く使われてきた木の匂いだけが残っていた。
「もう少し広くてもいいのでは?」
後ろから入ってきた老神父が笑った。
「広い方が落ち着かない方もいますよ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
老神父は机に今日の予定を置いた。
午前に数人、昼の休憩を挟み、午後にも数人。
セヴェランは紙を確認してから、改めて向かいの空席を見る。
治療なら何度も経験した。法についても学んできた。
最近では簡単な案件の整理を任されることもある。
何が起きたのか、誰が傷ついたのか、どこまで戻せるのか。
そのようなことを考えるのには慣れてきた。
けれど、懺悔室は少し違う。
ここへ入ってくる人が何を話すのか、扉が開くまで分からない。
「緊張していますか?」
「少し」
「珍しいですね」
「初めてですから」
素直に答えると、老神父は満足そうに頷いた。
「ここへ来る人が、必ず大きな罪を犯しているとは思わないでくださいね。法には触れていないことを何年も悔いている人もいますし、本人が大したことではないと思っている話が重いこともあります」
「分かっています」
言ってから、セヴェランは少し考えた。
「分かっているつもりです」
「その方がいいですね」
「違いがありますか?」
「ありますよ」
老神父は扉へ向かい、手を掛ける前に振り返った。
「一つだけ。急がないでください」
「時間は十分あります」
「時間の話ではありません」
それだけ言って出ていった。
意味を聞く暇もなく、しばらくすると扉が二度、控えめに叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは三十代半ばほどの男だった。
濃い灰色の上着を着て、手には帽子を持っている。
セヴェランを見るなり、一瞬足を止めた。
「……若いんですね」
「はい。別の者をご希望なら交代できます」
「あ、いや。そういう意味じゃなくて」
男は慌てて首を振り、勧められた椅子へ座った。
帽子を両膝の間で握り、縁を何度も指で撫でている。
セヴェランは待った。
最初の言葉をこちらから決める必要はない。
やがて男が口を開いた。
「妻に、嘘をついています」
「どのような嘘ですか?」
「金のことで」
男は俯いたまま話した。
家に入れるはずの金を、半年ほど前から少しずつ抜いていたという。
「何に使いました?」
「酒と……賭け事です」
その瞬間から、セヴェランの頭の中では必要な情報が自然に並び始めた。
使った総額、生活への影響、借金の有無、家族へついた嘘、返せる可能性。
「借金はありますか?」
「ありません」
「生活に必要な支払いが滞ったことは?」
「一度だけ。家賃を」
「その時、奥様には?」
「値上がりしたって嘘をつきました」
男の指がさらに強く帽子を握る。
「お子さんは?」
「二人います」
「生活への影響はほかに?」
返事が少し遅れた。
「下の子の靴を買うのが、一月遅れました」
セヴェランは頷いた。
もう、かなり見えた。
家族のために使うはずの金を自分の娯楽へ回した。
そのことを隠すために嘘を重ね、子供に必要な物まで遅れた。
悪かった部分は分かりやすい。
一方で、借金はなく、額もある程度把握している。取り戻せない状態ではない。
ならば、やるべきことも見える。
「まず、使った金額をできるだけ正確に確認してください。記録が残っているものは調べ、分からない分も大まかに見積もる必要があります」
男が顔を上げた。
「はい」
「その金を家計へ戻す。一度に無理なら、期間を決めて返していく。家賃についてついた嘘も、奥様へ話す必要があります」
男の表情が固くなる。
「妻に?」
「はい。お子さんの靴が遅れたことも含めて」
「全部ですか?」
「全部です」
男の肩が少し落ちた。
セヴェランは気づかず、さらに続ける。
「賭け事を続けるのであれば、家計とは完全に分け、自分で使える範囲を決めるべきです。もし自分で止められないのであれば――」
「待ってください」
男に遮られ、セヴェランは口を閉じた。
「はい」
「そんなことをしたら、妻に知られます」
一瞬、意味が分からなかった。
「そのために話すのでは?」
男が視線を落とす。
「……そうですよね」
正しいことを言ったはずだった。
金だけ戻しても、嘘を残したままでは同じことを繰り返すかもしれない。
妻には事情を知る権利がある。
だから、話す必要がある。
「どれくらいで返せると思いますか?」
セヴェランが尋ねると、男は答えなかった。
「現在の収入は――」
「神父様」
もう一度止められた。
「はい」
男は帽子を握ったまま、しばらく黙っていた。
「妻は、許してくれると思いますか?」
質問が変わった。
セヴェランは少し考えたが、答えそのものは難しくなかった。
「それは、私には分かりません」
「そうですよね」
「ただ、できる責任は果たす必要があります。使った金を戻す。嘘を話す。謝罪する。今後について奥様と相談する。そこまでは、あなたにできます」
男は何度か頷いた。
「……分かりました」
立ち上がる。
セヴェランも立った。
「ほかに話したいことはありますか?」
男は一瞬、何か言いかけた。
しかし、口を閉じた。
「いえ。ありがとうございました」
頭を下げ、懺悔室から出ていく。
扉が閉じた。
セヴェランはそのまま立っていた。
何かがおかしい。
問題は整理できた。男が何をしたかも分かった。
戻せるものもある。必要な行動も伝えた。
間違ったことを言ったとは思わない。
それなのに、男は入ってきた時よりも肩を落として帰った。
もちろん、懺悔に来れば気分がよくなるとは限らない。
自分がしたことへ向き合えば、苦しくなることもあるだろう。
それでも、何かが引っ掛かった。
扉が開き、老神父が入ってきた。
「終わりました?」
「はい」
「どうでした?」
セヴェランは考えてから答えた。
「分かりません」
「いいですね」
「何がです?」
「初めてなのに『上手くできました』と言われるより安心します」
老神父は向かいの椅子へ座った。
「内容は聞きません。話せる範囲で、君自身のことだけ教えてください」
「相手が何をしたのかは分かりました。戻せるものもありましたし、必要だと思うことも伝えました」
「それで?」
「帰る時、来た時より沈んでいました」
老神父は少し考える。
「叱りました?」
「いいえ」
「責めた?」
「していません」
「では、その方が何を怖がっているのか聞きましたか?」
セヴェランの答えが止まった。
「……いいえ」
「何を一番後悔しているのかは?」
「それも聞いていません」
「どうしてここへ来たのかは?」
そこまで問われて、ようやくセヴェランは自分が何をしていたのか見えてきた。
「問題を解くために必要なことを聞きました」
「そうでしょうね」
老神父は頷く。
「君は答えへ着くのが早い。悪いことではありません。むしろ、大きな長所です」
「でも?」
「君が答えを見つけた時に、その人の話まで終わったとは限りません」
胸に刺さった。
セヴェランは、先ほどの男を思い返す。金額。嘘。家賃。子供の靴。返済。
必要な情報は集めた。
だが、男が一番長く迷ってから聞いた質問は、
妻は許してくれると思いますか。
だった。
自分は「分かりません」と答え、その直後に責任の話へ戻した。
「……まだ話したかったのかもしれません」
「かもしれませんね」
「でも最後に、ほかにありますかと聞きました」
「言える空気でした?」
セヴェランは答えられなかった。
老神父は責めるようには言わない。
「懺悔室は、問題を効率よく処理する場所ではありません。もちろん責任も考えますし、必要なら間違っていることを間違っていると伝えます。でも、その前に相手が何を持ってここまで来たのかを知らなければ、渡す答えが同じでも届き方が変わります」
セヴェランは俯いた。
幼い頃、自分が正しい答えを先に渡しすぎて、相手を泣かせたことがある。それ以来、理由を聞くことは覚えた。
けれど今は、その先だった。
理由だけ聞けばいいわけではない。
事実だけ知ればいいわけでもない。
「では、どうすればよかったですか?」
老神父は笑った。
「それを、すぐ私に聞くんですか?」
言われて初めて気づいた。
また、答えを先に欲しがった。
セヴェランは少し恥ずかしくなりながら、息を吐く。
「……考えます」
「はい」
「一人にしてください」
「もちろん」
老神父が出ていく。
セヴェランは向かいの空席を見た。
先ほど男は、帽子を何度も触っていた。
妻に知られることを恐れていた。許されるかを聞いた。
金を返す方法が分からなかったのではない。
たぶん。
怖かったのだ。
妻からどう見られるのか。
信用を失うのか。
家族でいられなくなるのか。
そこまで考えて、セヴェランは首を振った。
決めつけてはいけない。
分からない。
なぜなら、聞かなかったからだ。
その事実だけは明確だった。
セヴェランは持ち歩いている帳面を取り出した。
子供の頃に買った最初の一冊はとっくに使い切り、今は何冊目かになる。
日付と場所を書き、その下へ筆を走らせた。
『相手の問題を理解した時点で、相手自身も理解したつもりになった。何をしたかは聞いたが、何を怖がっているかを聞かなかった』
さらに一文。
『答えを出すことを、話を聞くことより先にした』
書いてみると、やはり嫌な文章だった。
だから残した。
帳面を閉じて顔を上げると、高い窓から中庭が少し見えた。
人影がある。
先ほどの男だった。
長椅子に座り、帽子を膝へ置いて俯いている。
まだ帰っていない。
セヴェランは立ち上がった。
扉を開けると、隣室にいた老神父が顔を上げた。
「どうしました?」
「先ほどの方がまだいます」
「そうですか」
「もう一度、話したいです」
老神父は少しだけ目を細めた。
「君が?」
「はい。ただし、相手が望むなら」
「それなら行ってきなさい」
中庭へ出る。
男は足音に気づいて顔を上げた。
「あ……」
セヴェランは少し離れたところで止まり、頭を下げた。
「すみません」
「何がです?」
「先ほど、私は答えを急ぎました」
男が戸惑った顔になる。
「話すべきことを伝えました。使った金を戻すことも、嘘を話すことも、今も必要だと思っています。でも、あなたが何を一番怖がっているのかを聞きませんでした」
男の表情が止まった。
「もし、まだ話したいことがあるなら」
セヴェランは一度息を整えた。
「今度は、最後まで聞きます」
長い沈黙があった。
断られても仕方ない。
自分が失敗したからといって、もう一度話すことまで求める権利はない。
やがて男が帽子を持ち上げる。
「……戻ってもいいですか」
「もちろんです」
二人で同じ懺悔室へ戻った。
今度はセヴェランから質問を始めなかった。
男が自分で話し出すまで待つ。
「妻は、すごく真面目な人なんです」
小さな声だった。
セヴェランは頷く。
「俺よりずっと」
男は、妻が家計を細かく管理していたことを話した。
子供のために金を取っておき、自分の服は何年も買っていない。
必要なものと欲しいものをきちんと分ける人だった。
「俺は、それを知ってたのに使ったんです」
最初は一度だけ。
酒代が少し足りなかった。
来月戻せばいいと思った。
次は賭け事に使った。勝てば増やして戻せると考えた。
負けた。取り返そうとして、また使った。
妻へ嘘をつくようになった。
家賃が上がった。
食べ物が高くなった。
仕事で必要なものを買った。
一つ嘘をつくたび、次の嘘が必要になった。
「妻、俺のこと信じてるんです」
男の声が震える。
「今日も、仕事に行くって言って出てきました」
セヴェランはそこで初めて尋ねた。
「一番怖いのは、何ですか?」
男はしばらく答えなかった。
セヴェランは待つ。
「……嫌われることです」
ようやく出た声は掠れていた。
「金じゃないんです。金は返せる。時間はかかるけど。でも、あの人が俺を見て、もう信用できないって言ったら……俺、どうしたらいいんでしょう」
今度こそ、セヴェランはすぐには答えなかった。
妻が許す保証はできない。
嫌われない方法も知らない。
男がどれほど悔いても、妻の感じ方まで決める権利はない。
「嫌われるかもしれません」
男の顔が沈む。
それでも、嘘は言わない。
「信用を失うかもしれない。それを無かったことにはできません」
男の目から涙が落ちた。
セヴェランは急がなかった。
「でも、あなたにはまだ、話すことを選べます」
「許してもらえなくても?」
「許してもらうためだけに話すのではないでしょう?」
男が顔を上げる。
「あなたが半年間、一人で持っていた事実を、本来それを知る人へ返すためです」
「妻に?」
「はい。その後どうするかは、あなた一人では決められません。奥様が決めることもあるでしょうし、二人で決めることもあると思います」
男は涙を拭った。
「怖いです」
「はい」
「逃げたい」
「はい」
「神様に何とかしてほしいくらいです」
その言葉に、セヴェランの胸の奥で、幼い頃から時折覚えてきた微かな違和感が動いた。
誰かが遠くへ願いを預ける感覚を、自分は今も完全には理解できない。
だが、今はそのことを考える時ではなかった。
「怖いままで構いません」
男が見る。
「怖くなくなってから話そうとしたら、ずっと待つことになるかもしれません」
「……厳しいですね」
「そうですか?」
「少し」
「すみません」
「そこは謝らなくていいです」
男がほんの少し笑った。
セヴェランもつられて笑う。
問題は何一つ消えていない。
妻へ話さなければならない。金も返さなければならない。失った信用が戻る保証もない。
それでも、最初に帰ろうとした時とは違って見えた。
男は立ち上がり、扉の前で振り返る。
「今度は、ありがとうございました」
「お気をつけて」
男を見送ってしばらくすると、老神父が入ってきた。
「どうでした?」
「今度は、少しだけ話を聞けたと思います」
「答えは出せました?」
「いいえ。妻が許すかなんて、最後まで分かりませんでした」
「それで?」
セヴェランは向かいの椅子を見る。
「最初より、よかったと思います」
老神父は笑った。
「なら上出来です」
「最初は失敗しました」
「ええ」
あっさり認められたが、今はその方がよかった。
午後、別の女性が懺悔室へ入ってきた。
年配の女性で、隣家の人へ嫌味を言ってしまい、数日口を利いていないという。
内容だけなら、小さな揉め事だった。
それでもセヴェランは途中で答えを作らず、最後まで聞いた。
十五年来の付き合いであること。夫が倒れた時に助けてもらったこと。
相手の子供を預かったこともあること。
本当は仲直りしたいのに、自分から謝ると負けたようで悔しいこと。
そこまで話した女性は最後に、
「……でも、あの人も一言多いんですよ」
と付け足した。
セヴェランは少し笑った。
「そうですか」
「叱らないんですか?」
「必要ですか?」
「懺悔でしょう?」
セヴェランは少し考えてから尋ねた。
「あなたは、何を悪かったと思っていますか?」
女性が目を瞬く。
やがて、自分の言い方が悪かった、と答えた。
「誰が傷つきました?」
「まあ、あの人でしょうね。私も傷ついたけど」
「戻せるものはありますか?」
女性はしばらく考えたあと、ふっと笑った。
「明日、菓子でも持っていこうかしら」
「それはご自分で決めてください」
「そこは勧めてくれないの?」
「甘い物が好きな方か知りませんので」
女性が声を上げて笑った。
懺悔室の外まで聞こえたかもしれない。
その日の最後の人を見送ったあとも、セヴェランはしばらく部屋に残った。
朝、この部屋を狭いと思った。
今は少しだけ印象が違う。
広すぎない方がいい理由が分かった気がした。
ここでは、一度に一人を見ればいい。
大きな法も、ほかの誰かの問題も、ひとまず扉の外へ置く。
目の前の一人が何をしたのか。何を怖がっているのか。
何を後悔しているのか。何を戻したいのか。
それを聞く。
答えを考えるのは、そのあとでも遅くない。
セヴェランは帳面を開き、朝に書いた文章の下へ一文を足した。
『相手が話し終えたかどうかを、自分が答えを思いついた時点で決めない』
少し長かったが、そのままにした。
さらに、
『明日は、今日より少し長く待つ』
と書く。
帳面を閉じ、懺悔室を出る前に一度だけ振り返った。
明日も誰かがここへ来る。
大きな罪かもしれない。
誰にも言えなかった小さな後悔かもしれない。
まだ何も分からない。
だからこそ、先に答えを用意しない。
まず聞く。
その人が、話し終えるまで。




