消さない一行
「先生、この記録、消さないんですか?」
朝の治療室で、セヴェランは机の上の紙を指さした。
昨日、自分が治療した女性についての記録だった。
傷の場所、深さ、洗浄をしたこと、聖属性による治療を行ったこと、治療後の状態。
そこまでは分かる。だが、その下には別のことまで書かれていた。
『患者より中止希望あり。術者が即時中止せず治療を継続。監督者の制止後に中断』
術者とは自分のことだった。
治癒師は棚へ薬瓶を戻しながら、「なぜ消すんです?」と尋ねた。
「傷についての記録ではありません。身体的な問題も残っていませんし、治療自体はほとんど終わっています」
「でも、治療中に起きたことではありますね」
「はい」
「なら、残します」
答えは簡単だった。セヴェランはもう一度紙を見る。
昨日の女性が怖がって手を引いた瞬間まで思い出し、胸の奥が少し重くなった。
「必要ですか?」
「必要ですよ。仮に、その二行を消したとしましょう。何が残ります?」
セヴェランは記録を上から読んだ。
「手首近くの切り傷。洗浄後に治療。経過良好」
「それを一年後の君が読んだら?」
「問題なく治療したと思います」
「五年後なら?」
少し考えたが、答えは同じだった。
「たぶん、同じです」
治癒師は頷いた。
「今の君は昨日のことを覚えています。止めてと言われたことも、それでも続けたことも、相手がどんな顔をしていたかも。でも、人はずっと同じようには覚えていません」
「忘れたくなくても?」
「忘れます。全部ではなくても、少しずつ形が変わることもあります」
セヴェランには、それが少し納得しづらかった。
自分の記憶なのだから、自分が覚えていたいと思えば残せるような気がする。
治癒師はそんな顔を読んだらしく、笑った。
「十年後、君は昨日のことをこう覚えているかもしれませんよ。『患者が少し怖がったので治療を途中で止めた。でも大きな問題にはならなかった』」
「違います」
セヴェランはすぐに言った。
「僕は、止めてと言われたのに続けました」
「そうですね。でも、今の二つはどちらも完全な嘘ではないでしょう?」
そこでセヴェランは黙った。
確かに、女性は怖がった。治療は途中で止まった。身体に大きな問題も残らなかった。
言葉を選べば、昨日の出来事をずっと軽く話すことができる。
それは嫌だった。
「自分に都合のいいところだけ残ることがあるんですか?」
「あります。悪意がなくてもね。だから記録は、覚えている自分のためだけに書くものではありません」
治癒師は紙をセヴェランの方へ押した。
「未来の自分が、今の自分を勝手に綺麗にしないためにも使えます」
セヴェランは記録の二行を見る。読むと嫌な気持ちになる。昨日のことを思い出すからだ。
「消したいですか?」
問われて、少し迷った。
格好よく「いいえ」と言えればよかったのかもしれない。
だが、それでは昨日から何も学んでいない気がした。
「少しだけ」
正直に答える。
治癒師は笑わなかった。
「そうでしょうね」
「僕がやったことなのに、読むと嫌です」
「自分が嫌だった自分を見ることになりますから」
セヴェランは紙から目を離し、それからもう一度戻した。
「でも、消さない方がいいです」
「どうして?」
「嫌だと思うなら、次に同じことをしないために使えるかもしれません」
「なら、この二行には意味がありますね」
治癒師が紙を片づけようとした時、セヴェランは「あの」と呼び止めた。
「もう一つ書いてもいいですか?」
「何を?」
「どうして続けたかです。今のままだと、僕が止めなかったことしかありません」
治癒師は少し考えてから、筆を渡した。
「書いてみてください。ただし、自分を守るための説明になっていないかは読み直してくださいね」
セヴェランは記録の余白へ筆を置いた。
最初に浮かんだのは、『あと少しで治療が終了するため継続した』だった。書きかけて、止める。
事実ではある。だが、これでは「あと少しだったから仕方なく続けた」と読める気がした。
線を引いて消し、今度はゆっくり考える。昨日、自分は何を見ていたのか。
傷はもう少しで閉じる。術にも異常はない。
最後まで治した方が女性のためになる。そう考えた。
では、何を見なかったのか。
止めてほしいという本人の意思だった。
セヴェランは書いた。
『患者から中止希望を受けたが、治療完了まで僅かであり、完了させた方が本人のためになると判断した。その結果、患者本人の中止意思より、自分の治療判断を優先した』
書き終えて読み返す。
やはり嫌な文章だった。けれど、先ほどよりずっと正確だと思った。
「これでどうでしょう」
治癒師が横から読み、ゆっくり頷く。
「いいと思います」
「もっと違う書き方もできます」
「できますね」
「でも、これにします」
「はい」
自分が何を考えたかを書くことと、自分を正当化することは同じではない。
その違いはまだ少し難しかったが、少なくとも今はこれを残したかった。
午前の仕事が始まった。
大きな怪我の患者はいなかった。
軽い捻挫、擦り傷、熱を出した子供。
セヴェランは必要な道具を運び、治癒師の診察を横で見た。
少しして、軽い切り傷を負った年配の男性が来た。
治癒師が傷を確認したあと、セヴェランを見る。
「お願いしてもいいですか?」
セヴェランは男性へ向き直った。
「僕が治療してもいいですか?」
「もちろん」
「途中で痛かったり、嫌な感じがしたりしたら言ってください。一度止めます」
男性は「分かったよ」と気軽に答えた。
治療を始める。浅い傷だった。白い光を薄く流し、傷が閉じようとする力を支える。
途中、男性がわずかに眉を動かした。
セヴェランの手が止まる。
「どうしました?」
「いや、ちょっとむずむずしただけだ」
「続けても大丈夫ですか?」
「ああ。頼むよ」
確認してから再開する。数分後には傷が綺麗に閉じた。
男性は指を動かし、「上手いもんだな」と笑った。
「ありがとうございます」
今度は素直に嬉しかった。
男性が帰ったあと、治癒師は記録を書きながら言った。
「止まれましたね」
「はい。でも、本当は最初からできるべきでした」
「そうですね」
あっさり認められる。
セヴェランは少しだけ苦笑した。
「褒めてくれないんですか?」
「褒めてほしかった?」
「少しだけ」
「では、昨日できなかったことを今日はできた。よくできました」
「あとから言われると、少し違います」
治癒師が笑った。
セヴェランも笑う。昨日の失敗が消えたわけではない。
それでも、昨日の失敗が今日の手を止めた。そのことは嬉しかった。
帰り道、母と市場を通りかかった時だった。
紙や筆を売る店先に、糸で綴じられた薄い帳面が並んでいる。
飾りのあるものもあれば、表紙に何も描かれていないものもある。
セヴェランは足を止めた。
「どうしたの?」
「少し見てもいいですか?」
「もちろん」
店先に並ぶ帳面を一冊ずつ見る。大きすぎると持ち歩きづらい。
小さすぎると書けない。しばらく選んで、掌より少し大きい茶色の帳面を手に取った。
「それが欲しいの?」
「はい」
「何を書くの?」
「間違えたことです」
母の顔が少し変わった。
「……日記じゃなくて?」
「日記ではありません」
近くにいた店主までこちらを見た。
母は困ったように笑う。
「楽しかったことを書いた方が、読み返す時に楽しくない?」
「楽しかったことは、たぶん自分から思い出します」
「間違えたことだって覚えてるでしょう」
朝の治癒師との話が浮かぶ。
「忘れるかもしれないそうです。忘れなくても、自分に都合のいい形に変わることがあるって」
母の表情から、からかうような色が消えた。
「それで書いておくの?」
「はい。何を間違えたか。どうしてそう考えたか。次ならどうするか」
帳面の値段を聞く。自分の小遣いで買えるが、安くはなかった。
少し迷った末、セヴェランは自分の財布から代金を払った。
店を出ると、母が新しい帳面を見る。
「最初の一頁に何を書くか、もう決めてる?」
「はい」
「今日のこと?」
「昨日のことです」
母は少しだけ笑った。
「買った日にもう反省から始まるのね」
「一番忘れたくないので」
「そう」
それ以上は何も言わず、母は歩き出した。
家へ帰ると、父が先に戻っていた。食卓で帳簿を開き、何か計算している。
「おかえり。何を買ったんだ?」
セヴェランが帳面を置くと、父が手を止めた。
「記録用です」
「日記か?」
「母さんにも聞かれました。違います」
「じゃあ何を書く?」
「間違えたことです」
父は数秒黙り、それから母を見る。
「何だ、その暗い帳面は」
「私も同じこと思ったわ」
「暗くありません。直したことも書きます」
セヴェランは椅子へ座り、買ったばかりの帳面を開いてみせた。
「何を間違えたか。どうしてそう考えたか。次ならどうするか。できるようになったか」
父は腕を組み、「なるほどな」と頷いた。
「それなら、これも似たようなもんだ」
自分の前にあった帳簿を軽く叩く。
「お金の記録ですよね」
「ああ。どうして全部書くと思う?」
「いくら使ったか分からなくなるから」
「それもある」
父は帳簿を何頁かめくった。日付と金額、買ったものや受け取った金が細かく並んでいる。
「人の記憶は、自分が思ってるほど正確じゃない。十日前に何へ金を使ったかなんて、案外すぐ曖昧になる」
「先生も似たことを言いました」
「だろ? しかも面白いことにな、使いすぎた時ほど『そんなに使ったかな』って思うんだ」
「自分のお金でも?」
「自分のだからだよ」
父が笑う。
「書いておけば、あとから自分に都合のいい説明をしづらい。金が減ったなら、減った理由が残るからな」
セヴェランは帳簿を見る。
「自分に誤魔化さないため?」
「そういうこと」
父は何気なく言った。
「他人に嘘をつかなくても、自分には結構いい加減な説明をするもんだよ」
「父さんも?」
「する」
「母さんも?」
台所から声が飛んできた。
「巻き込まないで」
父が笑い、セヴェランもつられて笑った。
自分だけはしない、と言いたくなった。
けれど、それこそ今の自分に都合のいい説明かもしれない。
夕食のあと、セヴェランは自室の机へ向かった。
買ったばかりの帳面を開く。最初の一頁は真っ白だった。
何を書くかは決めている。ただ、どんな形にするかは決めていなかった。
まず日付を書く。その下へ、『治療中、患者から中止を求められた件』と記した。
起きたこと。自分がしたこと。その時に考えていたこと。
治癒師から指摘されたこと。次ならどうするか。
一つずつ書いていく。
『患者本人の中止意思より、自分の治療判断を優先した』
朝の記録と同じ一文も、もう一度書いた。
嫌な気持ちは変わらない。
それでも、手は止めなかった。
最後に今日の出来事を書く。
『別の患者の治療中、表情の変化を見て一度停止し、本人へ確認してから再開した』
そこまで書くと、昨日の失敗が綺麗に終わったように見えた。
間違えた。反省した。翌日には直した。
それで完成。
本当に?
セヴェランは筆先を紙から離したまま考える。
今日一度できたからといって、明日も同じようにできる保証はない。
もっと急いでいる時なら。もっと大きな傷なら。
自分の術にさらに自信を持つようになったら。
また、自分の判断を優先するかもしれない。
セヴェランは一行足した。
『一度できたことを、次もできるとは限らない』
読み返す。
今度は、少しだけしっくりきた。
帳面を閉じようとして、ふと表紙を見る。
題名はない。
母にも父にも聞かれたが、名前を付けることまでは考えていなかった。
しばらく考えたが、結局そのままにした。
今は、何を書くものか自分が分かれば十分だった。
祈り台の前へ座る。
最近、祈る時にすることが少しずつ増えている。
何を願うかだけではなく、その日、自分が何をしたかを思い返す。
できたこと。できなかったこと。次に変えたいこと。
「今日より、明日は正しく選べますように」
小さく口にする。
返事を待つ代わりに、今日の自分をもう一度確かめた。
昨日は、止まれなかった。
今日は、止まれた。
明日はまだ分からない。
だから、覚えておく。
セヴェランは立ち上がり、机へ戻った。閉じた帳面の表紙を指で撫でる。
間違えない人になれたら、一番いい。
でも、もし間違えたなら。
見なかったことにしない。小さくしない。自分に都合のいい形へ変えない。
そして、次の自分へ渡す。
そのためなら、思い出したくないことほど、残しておく価値がある。
最初の一頁には、失敗が書かれた。
セヴェランはそれを消さなかった。




