手を止める理由
「今日は見ているだけですか?」
礼拝堂に併設された治療室へ入るなり、セヴェランが尋ねると、白衣の袖を折っていた治癒師が顔を上げた。
「不満そうですね」
「いいえ。見ていることも勉強です」
「ずいぶん模範的な答えですね」
「本当にそう思っています」
「なお悪い」
何が悪いのか分からなかったが、セヴェランは反論せず、壁際の椅子を引いた。
最近は軽い傷なら監督を受けながら治療を任されることが増えている。
だから少し期待していたのは事実だった。
とはいえ、ここは患者を治す場所だ。自分の練習を優先していい場所ではない。
必要なら術を使う。必要がなければ見て学ぶ。そのくらいはもう分かっている。
「今日は何人ですか?」
「今のところ三人です。一人は腰痛、もう一人は古傷の確認。最後の方は仕事中に手を切ったそうです」
「深いですか?」
「まだ見ていません」
セヴェランは一瞬考え、「では、分かりませんね」と答えた。
治癒師は満足そうに頷いた。
最初に入ってきたのは、腰を押さえながら歩く老人だった。
治癒師は痛む場所を確認し、いつからか、どんな姿勢で強く痛むのか、仕事では何をしているのかを聞いていく。
身体を動かしてもらい、最後に温めるための布と簡単な運動を教えた。
魔術は使わなかった。
老人が帰ったあと、セヴェランは我慢できずに尋ねた。
「治さないんですか?」
「何を?」
「腰です。聖属性なら、もっと早く楽にできます」
「一時的にはね。でも、今のあの方に必要なのは、傷んだ場所を無理に整えることより、身体の使い方を変えることです」
「楽にできるのに、使わない方がいい時もある?」
「たくさんありますよ」
治癒師は記録を書きながら言った。
「魔術は便利です。でも、便利なものを使うこと自体が目的になったら、治療ではなくなります」
セヴェランは老人が出ていった扉を見た。
治せるなら治した方がいい、と以前なら簡単に考えていた。
最近は、そうではない場面が少しずつ増えている。
二人目の患者には、治癒師はわずかに魔術を使った。
昔痛めた膝の周囲に痛みが戻っていたが、全部を一度に整えるのではなく、負担が集中している場所だけを薄い光で支える。
「たくさん流せばいいわけではないんですね」
「必要な分だけです。身体が治ろうとするのを手伝う。それ以上はこちらの都合です」
セヴェランは、治癒師の手元をよく見た。
魔力は弱い。しかし曖昧ではない。必要なところにだけ入り、不要なところには触れない。
三人目が来たのは昼前だった。
四十歳ほどの女性で、茶色い作業着の右手に布を巻いていた。布には赤い染みが広がっている。
「こんにちは。今日はどうされました?」
治癒師が椅子を勧めると、女性は少し困ったように笑った。
「仕事で手を切ってしまって。大したことじゃないと思うんですけど、職場の人に行けって言われまして」
「何のお仕事を?」
「布を裁つ仕事です。刃が滑りました」
布を外すと、掌の付け根から手首に近いところまで斜めに傷が走っていた。
出血はすでに弱い。深すぎるようには見えないが、仕事で毎日使う手だ。
治癒師は傷を見るだけで終わらせず、指を一本ずつ動かしてもらい、触れた感覚も確かめた。
「幸い、深いところまでは傷ついていません。綺麗に洗ってから閉じれば、大きな問題はないでしょう」
女性がほっと息を吐く。
「お願いします」
そこで治癒師がセヴェランを見た。
「やってみますか?」
セヴェランはすぐに頷きかけて、一度止まった。女性を見る。
「僕が治療してもいいですか? 先生がずっと見ています」
女性は少し驚いた。
「あなたが?」
「はい。ただ、嫌なら先生が治療します」
治癒師も「遠慮しなくて大丈夫ですよ」と添える。
女性は二人を見比べ、しばらく迷ったあとで笑った。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「ありがとうございます」
「そこ、お礼を言うところなの?」
「任せてもらったので」
女性が笑い、治癒師も肩を揺らした。張っていた空気が少しだけ軽くなる。
まず傷を洗う。セヴェランは急がず、砂や糸くずが残っていないか確かめた。
血の流れ、指の動き、本人の魔力にも大きな乱れはない。
「では、始めます」
女性が手を台へ置く。
セヴェランが両手を近づけると、淡い白い光が生まれた。
傷へ薄く魔力を流すと、身体がきちんと治ろうとしている感覚が返ってくる。
その働きを押し潰さず、少しだけ後押しする。
傷の縁がゆっくり寄り始めた。
「熱くないですか?」
「少し温かいくらい」
「痛みは?」
「大丈夫」
順調だった。
治癒師も何も言わない。出力も安定している。傷の半分以上が閉じ、赤かった部分が薄くなっていく。
あと少し。
その時だった。
「……待って」
女性の声がした。
セヴェランの手が止まりかける。
傷を見る。異常はない。魔力も乱れていない。本人の身体にも悪い反応は出ていない。
「痛いですか?」
「ちょっと、待って」
女性の呼吸が速くなっていた。顔色も少し悪い。
セヴェランは原因を探した。治療そのものに問題はない。
残っている傷もほんのわずかで、途中で止めても危険はない。
けれど、あと数秒続ければ終わる。終われば傷は閉じる。痛みも減る。仕事へ戻るのも早くなる。
「もう少しです」
そう言って、セヴェランは魔力を流し続けた。
女性の手が強張る。
「待ってって」
「すぐ終わります」
「セヴェラン」
治癒師の声が飛んだ。
同時に、女性が手を引いた。白い光が途切れ、椅子が床を擦って大きな音を立てる。
「止めてって言ったでしょう!」
セヴェランは動けなかった。
怒鳴られたからではない。女性の顔に浮かんでいるものを見て、息が詰まった。
怖がっている。
傷を見ると、ほとんど閉じている。最後のわずかな部分だけ赤みが残っていた。
治療はうまくいっていた。
だから余計に、胸の中で何かが噛み合わなかった。
「すみません」
先に頭を下げたのは治癒師だった。
「こちらの監督不足です」
「いえ、私も大きな声を……」
「あなたが謝る必要はありません」
治癒師は女性へ近づきすぎず、落ち着いた声で尋ねた。
「治療は、ここで終わりにしますか?」
女性は胸元へ抱えた手を見つめる。呼吸が落ち着くまで少し時間がかかった。
「もう、ほとんど治ってますよね」
「ええ」
「だったら今日は、ここまでで」
「分かりました」
治癒師は残った部分だけ簡単に保護した。もう魔術は使わない。
セヴェランはその様子を立ったまま見ていた。
何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。
女性が帰るために立ち上がったところで、ようやく口を開く。
「すみませんでした」
女性が振り返る。
「止めてと言われたのに、続けました。あと少しで終わると思ったので……でも、それは理由になりませんでした」
言ってから、自分の言葉を確かめる。
女性はしばらくセヴェランを見た。
「昔ね」
自分の手を見ながら話し始める。
「もっと大きな怪我をした時に、治癒術を受けたことがあるの」
その時の怪我はひどく、治療も痛かった。
治癒師が悪かったわけではない。止めれば危険な状態で、必要な処置だった。
「でも、さっき光を見てたら急に思い出しちゃって。前の痛みまで戻ってきたみたいになって」
「だから、止めてほしかった」
「ええ」
セヴェランの胸の奥が重くなる。
知らなかった。女性にそんな経験があることも、光を見て何を思い出したのかも。
だが、知らなかったから続けてよかったわけではない。
理由など知らなくても、止めてと言われた。それだけで一度止まれた。
「次は止まります」
セヴェランが言うと、女性は少し驚いたあとで頷いた。
「そうして」
扉へ向かいかけて、もう一度こちらを見る。
「治してくれたこと自体は、ありがとう。手を使う仕事だから、助かったのも本当なの」
「はい」
「でも、怖かったのも本当」
「はい」
二つとも受け取る。
女性はそれ以上責めず、治癒師へも礼を言って帰っていった。
扉が閉じると、治療室が急に静かになった。
セヴェランはまだ立っていた。
「座りましょうか」
治癒師に言われ、向かい合って椅子へ座る。
怒られると思った。それは当然だと思う。
けれど治癒師は、まず問いかけた。
「傷はどうなりました?」
「ほとんど閉じました」
「術に問題は?」
「ありませんでした」
「出力は?」
「適正でした」
「身体を傷つけましたか?」
「いいえ」
「では、治療は成功でしたか?」
セヴェランの口から「はい」と出かかった。
止める。
女性の顔を思い出した。
「……いいえ」
「どうして?」
「止めてと言われたのに、止めなかったからです」
「そうですね」
治癒師は静かに頷いた。
「でも、傷は治りました」
「ええ」
「術も正しかった」
「正しかったです」
「それでも、治療としては間違いですか?」
「はい」
迷いのない答えだった。
セヴェランは少し俯いた。自分が間違えたこと以上に、正しいことをしていると思いながら間違えたことが苦しかった。
「セヴェラン。彼女の手は誰のものですか?」
「彼女のものです」
「君のものでは?」
「ありません」
「私のものでも?」
「ありません」
「では、その身体へ何をするかを最初に決めるのは?」
「本人です」
答えながら、胸の中に一本の線が引かれる。
治癒師は続けた。
「もちろん、何でも本人の希望だけで決められるわけではありません。意識がない、命が危ない、止めれば取り返しがつかない。そういう時には、こちらが判断しなければならないこともあります」
「今日は違った」
「違いました。止めても危険ではなかった」
セヴェランは自分の手を見る。
「僕は、良くなると思いました。全部閉じた方が本人も楽になると」
「そうでしょうね」
「悪くしようとはしていません」
「分かっています」
優しく言われたからこそ、言い逃れができなかった。
「でも、それでは足りない」
「足りません」
治癒師は机の上へ自分の掌を置いた。
「相手のためだと思っていることと、相手の代わりに決めていいことは同じではありません」
セヴェランはその言葉をゆっくり考えた。
「治せることと、治していいことも違う?」
「そうです」
その答えは、すぐに理解できた。
理解できたからこそ痛かった。
自分は傷の状態を女性より詳しく見ていた。
あと少しで終わることも分かっていた。術にも自信があった。
だから、自分の判断の方が正しいと思った。
彼女の「止めて」より。
「僕の方が分かっていると思いました」
正直に言う。
「傷については、そうだったかもしれません」
「でも、あの人が怖いことは分からなかった」
「はい」
「それなのに、僕が分かっている範囲だけで全部を決めました」
治癒師は答えなかった。もうセヴェラン自身が分かっているからだろう。
今まで、この手で何ができるかを考えてきた。
傷を閉じる。痛みを減らす。身体が治ろうとする力を助ける。
もっと上手くなれば、もっと多くの人を助けられる。
そのことは、今も嬉しい。
けれど、できることが増えるほど、「してよいか」を判断しなければならない場面も増える。
「力が強い人ほど、間違えた時に大きくなりますね」
治癒師が目を細めた。
「そう思いますか?」
「はい。僕がもっと強い術を使っていて、間違えていたら、今日より大きなことになったかもしれません」
「では、どうします?」
セヴェランは少し考える。
「止めてと言われたら、まず止めます。止められない理由があるなら、それを説明します」
「はい」
「相手が怖がっていたら、何が怖いのか聞きます」
「ええ」
「それから、自分の方が詳しいと思っても……僕が分かっているのが、その人の全部だと思わないようにします」
治癒師は微笑んだ。
「よくできました」
セヴェランは首を横に振る。
「できていません。今日は」
一瞬、治癒師が驚いた顔をした。それから、同じように頷く。
「そうですね。では次にできるようにしましょう」
その答えの方が、セヴェランにはよかった。
昼食の時間になっても、女性の声は何度か頭に戻った。
待って。
止めてって。
聞こえていた。意味も分かっていた。それでも、自分の判断を優先した。
そこを曖昧にしてはいけないと思った。
午後、急な患者が一人来た。小さな火傷だったので、セヴェランは横で治療を見ていた。
治癒師が患者へ声を掛ける。
「今から少し魔力を流しますね。嫌な感じがしたら言ってください」
治療が始まり、しばらくして患者が眉を寄せた。
「少し熱いです」
治癒師の手はすぐ止まった。
「この辺り?」
「はい」
「分かりました。流し方を変えます。続けても大丈夫ですか?」
「お願いします」
確認してから再開する。
それだけだった。
何も特別ではない。難しい術でも、見事な判断でもない。
相手が熱いと言ったから、一度止まった。
セヴェランはその動きをじっと見た。
本当に、それだけでよかったのだ。
治療が終わって患者が帰ったあと、セヴェランは片づけを手伝いながら尋ねた。
「先生。さっき、すぐ止まりましたね」
「そうですね」
「治療を途中で止めるのは怖くないんですか?」
「必要なら止めます。止める方が危険なら止めません」
「今日は?」
「止めても問題なかった」
「だから止めた」
「はい」
答えは複雑ではない。
難しかったのは、術ではなく自分の方だった。
帰り道、母と並んで歩いていると、いつものように聞かれた。
「今日はどうだった?」
「間違えました」
母の足がわずかに遅くなる。
「ずいぶんはっきり言うのね」
セヴェランは、女性の傷、治療、止めてと言われたこと、続けたこと、怖がらせたことを順番に話した。
母は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「それは駄目だったわね」
「はい」
母だから軽くしてくれるわけではない。そのことに少し安心した。
「でも、何が駄目だったかは分かったの?」
「分かったと思います」
「何が?」
「相手の身体は、相手のものです。僕が治せても、僕のものにはなりません」
母が頷く。
「そうね」
「僕の方が傷について詳しくても、その人が何を怖がっているかまで全部知っているわけではない。それなのに、できるからやっていい、にはならない」
そこまで言って、セヴェランは足を止めた。
道の端に昨日までの雨が小さな水溜まりを残している。水面には母と自分の姿が揺れて映っていた。
「母さん。正しいことをしようとしていても、間違えることがあるんですね」
母は少し考えた。
「あると思うわ」
「本人が、本当に正しいと思っていても?」
「あるわよ」
「悪いことをするつもりがなくても?」
「それでも」
風が吹き、水面の自分の顔が崩れる。
「では、自分が正しいと思っているだけでは足りない」
母は答えを渡さず、代わりに聞いた。
「それなら、どうしたらいいと思う?」
セヴェランは歩き出しながら考えた。
「話を聞きます。自分だけで決めない。止められたら、まず止まる。それから、分からないことを分かったことにしない」
「ずいぶん増えたわね」
「増えました」
「大変ね」
「はい」
本当に大変だった。
正しいことを知れば、迷わなくていいと思っていた。
法を知る。治し方を知る。悪いことと良いことを分ける。そうすれば間違わない。
どうやら違う。
知っていても間違える。善意でも間違える。上手くできても間違える。
なら、注意しなければならない。
特に、自分が上手くできることほど。
家へ帰ったあと、セヴェランは寝る前に自分の掌を眺めた。
朝と同じ手だった。魔力も変わっていない。傷を治す力も失っていない。
それでも、少しだけ重く感じた。
できることがあるのは嬉しい。
誰かを助けられるなら、もっと上手くなりたい。その気持ちは変わらない。
だからこそ、この手を伸ばす前に確かめることが増えた。
届くかどうかだけではない。
届かせてよいか。
そして、一度伸ばしたあとでも相手が「止めて」と言ったなら、止める理由を探すのではなく、続ける理由が本当にあるのかを考える。
今日の傷は治った。
けれど、今日の自分は正しくなかった。
その二つを同じものにしない。
セヴェランは手を閉じた。
明日は、今日より少し慎重にこの手を使おうと思った。




