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返事を待たない祈り

雨は昼を過ぎた頃から降り始めた。


最初は窓硝子に細かな粒が当たる程度で、母も「夕方には止むかしら」と言いながら洗濯物を早めに取り込んだだけだった。


ところが日が傾くにつれて雨脚は強くなり、屋根を叩く音が絶え間なく続くようになった。

通りを歩く人の姿も減り、夕食の支度が始まる頃には、遠くで雷まで鳴っていた。


セヴェランは食卓の椅子に座り、本を読んでいた。少なくとも、読んでいるつもりだった。


「母さん」


「なあに?」


台所から包丁の音と一緒に返事が来る。


「父さんは、何時に帰ると言っていましたか?」


包丁の音が一度止まった。


「鐘が六つ鳴る頃には、って言ってたわね」


壁の時計を見る。もう過ぎている。


「遅いですね」


「雨だからでしょう」


母はそう言って、また野菜を切り始めた。


セヴェランは本へ目を戻した。二行ほど読んでから時計を見る。少しして、また見る。


「セヴェラン」


「はい」


「時計を何度見ても、お父さんは早く帰ってこないわよ」


「分かっています」


「じゃあ本を読みなさい」


「読んでいます」


「同じところをずっと?」


母はこちらを見ていないはずなのに、よく分かったものだ。


セヴェランは本を閉じた。父は朝から、律衡院の救済所へ帳簿を届けに行っていた。

遠い場所ではない。普段なら歩いて帰れる。

けれど今日は雨が強く、川沿いの道も通る。


考えられる遅れの理由はいくつもあった。

雨宿りをしている。橋で足止めされている。仕事が長引いた。困っている誰かを手伝っている。

もちろん、事故に遭った可能性もある。


どれか一つだけを選んで怖がる理由はない。

そう整理したところで、気持ちはあまり軽くならなかった。


母が鍋を火へ掛ける。


「今日は温かいものにしましょう」


「父さんが帰ってから食べますか?」


「少し遅いくらいならね」


「もっと遅かったら?」


母はすぐには答えず、鍋を混ぜた。いつもより少しだけ速い。


「心配ですか?」


「そりゃあ、するわよ」


あっさり認められた。


「でも、大丈夫よ」


「どうしてですか?」


今度は母が振り返った。


「どうしてって」


「大丈夫だという根拠です」


母は少し困ったように笑った。


「そういう意味じゃないの。大丈夫であってほしいっていう意味」


それなら分かる。事実について話しているのではなく、願いについて話している。


セヴェランも同じだった。父には無事でいてほしい。

ただ、その願いと現実が同じになる保証はない。


近くで雷が鳴り、窓がわずかに震えた。母がそちらを見る。

ほんの一瞬だけだったが、その顔が強張ったのをセヴェランは見た。


「迎えに行ってきます」


椅子から立つと、母の返事は早かった。


「駄目」


「でも」


「駄目よ。この雨の中、あなたまで外へ出てどうするの」


「傘があります」


「傘があれば雷が落ちないの?」


「いいえ」


「川が増えない?」


「増えます」


「滑らない?」


「滑る可能性があります」


「じゃあ駄目」


正しい。


父を心配して、危険な場所へ子供が一人増える。

助けに行くつもりが、助けられる側になったのでは意味がない。


セヴェランは座り直した。


「では、誰かに頼むのは?」


「もう少し待ちましょう。この雨なら、あちこちで帰りが遅れているはずだから」


「父さんだけではない」


「そういうこと」


待つ。それが今できることらしい。


けれど、待つというのは思ったより難しかった。

本を開いても内容が頭に入らない。窓を見ても父は帰ってこない。何かをした方が楽だった。


傷があれば治せる。汚れていれば洗える。分からなければ聞ける。間違ったなら直せる。


今は父がどこにいるのか分からない。

何が起きているのかも分からない。だから何をすればいいかも分からない。


セヴェランは、この状態が嫌いだった。


火を弱めた母が手を洗い、布で拭った。


「少し祈りましょうか」


「父さんのために?」


「ええ」


居間の壁際には、小さな祈り台がある。

木製の台と古い聖印、それから小さな灯りだけの簡素なものだった。

両親が毎日使う場所で、セヴェランも何度も並んで祈っている。


母が膝をつき、セヴェランも隣へ座った。外ではまだ雨が屋根を叩いている。


母は目を閉じた。


「エルディス様。どうか、あの人をお守りください。無事に家へ戻れますように。どうか、正しい道へお導きください」


何度も聞いたことのある祈りだった。

病気になった人へ。遠くへ旅立つ人へ。戦いへ向かう人へ。大切な誰かが帰らない夜へ。

人はこうしてエルディスへ願う。自分には届かない場所にいる誰かを、代わりに守ってほしいと。


セヴェランも目を閉じた。


――エルディス様。父さんをお守りください。


そこで言葉が止まった。


おかしな祈りではない。何度も口にしてきた。

それなのに、その言葉をどこか遠くにいる誰かへ渡したという感覚が、どうしても分からなかった。

願いを差し出せば、自分にはできないことを代わりに引き受けてくれる。

その安心が、セヴェランにはうまく掴めない。


だからといって、祈りたくないわけではなかった。父には帰ってきてほしい。本当に。


セヴェランは心の中で言い直した。


――父さんが無事でありますように。


今度は、少ししっくりきた。そして次に浮かんだのは、別のことだった。


父が濡れて帰ってきたら、乾いた布が必要だ。

身体も冷えているかもしれない。温かい食事もいる。怪我をしていたら、状態を見なければならない。


セヴェランは目を開けた。


「母さん」


「……なあに?」


母も目を開く。


「乾いた布はどこですか?」


「え?」


「父さんが濡れているかもしれません」


母は数秒、セヴェランを見つめたあと、少し笑った。


「棚の上」


「持ってきます」


「まだ祈っている途中よ」


セヴェランは立ちかけたところで止まった。


「続けた方がいいですか?」


「好きにしなさい」


「では、持ってきます」


棚から大きめの布を二枚取る。一枚で足りるか分からないので二枚にした。

玄関近くに置き、濡れた靴を置けるよう場所も空ける。


「着替えもあった方がいいと思います」


「寝室の箪笥よ」


母はもう止めなかった。


セヴェランは父の着替えも持ってくる。温かい食事は鍋にある。

怪我をしていた場合のことまで考え始めると、母に先回りされた。


「大きな怪我なら、ちゃんと治療所へ連れていくわよ」


「僕も見ます」


「先生が必要なら先生に任せます」


「はい」


そこまで準備すると、またすることがなくなった。

セヴェランは玄関近くへ座り、母も祈りを終えて隣へ来た。


「ずいぶん準備したわね」


「できることだったので」


「祈るのは?」


「しました」


「短かったけど」


「長い方がいいんですか?」


「そういうわけじゃないけど」


母が笑う。


「何をお願いしたの?」


「父さんが無事でありますように、と」


「それだけ?」


「はい」


本当は、その後に布や着替えや食事のことばかり考えていた。それも祈りに含まれるのかは分からない。


少し迷ってから、セヴェランは尋ねた。


「母さん。祈ったら、あとは任せていいんですか?」


「どういうこと?」


「エルディス様にお願いしたから、もう僕たちは何もしなくていいんですか?」


「そんなことないわよ」


返事はすぐだった。


「病気が治りますようにって祈って、薬を飲まなかったら意味がないでしょう?」


「では、祈る意味は?」


母が難しい顔になる。


「また難しいこと聞くわね」


「気になりました」


「そうねえ……」


母は雨に濡れた窓を見る。


「何もできない時ってあるでしょう。助けたいけど、そこにいない。何が起きているかも分からない。自分じゃどうにもできない」


「今みたいに?」


「そう。そういう時に、どうか無事でいてって願う場所があると、少しだけ心が楽になるの。全部一人で持たなくてもいいって思えるから」


優しい考えだと思った。さっきより母の顔が落ち着いている理由も、少し分かる。

ただ、自分は違った。祈った後も、誰かへ預けた感じがしない。

むしろ父の無事を願えば願うほど、自分にできることを探したくなる。


「僕は、あまり楽になりませんでした」


正直に言うと、母は吹き出した。


「じゃあ祈るの向いてないのかしら」


「でも、嫌いではありません」


「だったらいいんじゃない?」


「いいんですか?」


「祈り方なんて、きっと一つじゃないわよ」


母が頭を撫でる。


その時、町の門の方角から鐘が鳴った。一度。少し間を置いて、もう一度。


母が立ち上がる。


「何の鐘?」


「分かりません」


二人で窓へ向かったが、雨で外はよく見えない。

しばらくして、通りの向こうから外套を頭まで被った誰かが走ってきた。


家の前で止まり、扉が叩かれる。


母が急いで開けると、ずぶ濡れの青年が立っていた。


「オルフェインさんのお宅ですね?」


「はい」


「ご主人から伝言です。川沿いの道で荷車が泥にはまって、何台か動けなくなっています。手伝っているので、もう少し遅くなるそうです」


母の肩から、目に見えて力が抜けた。


「無事なんですね?」


「はい。怪我もないです」


「よかった……」


胸に手を当てる母を見て、セヴェランも息を吐いた。自分も息を詰めていたらしい。


「父さんは、どうして帰ってこないんですか?」


青年は少し笑った。


「帰ろうとはしてたんだけどね。荷車に子供が乗ってたから、放っておけなかったみたいだ」


それなら、父らしい。


母は青年へ布を差し出した。


「あなたもこんな雨の中、ありがとう。少し休んでいきます?」


「いえ、まだ伝言が二軒ありますから」


青年は礼を言って、すぐ雨の中へ戻っていった。


扉を閉じた母は、その場で大きく息を吐いた。


「よかったぁ……」


壁へ背中を預け、目元を少し潤ませている。


「泣きますか?」


「泣かない」


「泣いてもいいと思います」


母がこちらを見た。それから、笑いながら目元を拭う。


「誰に教わったの?」


「少し考えました」


「そう」


父が帰宅したのは、それから一時間以上あとだった。


扉が開いた瞬間、雨と泥の匂いが家へ入り込む。父は頭から足まで濡れていた。


「ただいま」


「遅い!」


母が真っ先に言った。


「すまん」


「心配したんだから!」


「本当にすまん」


母はそう言いながら父を抱きしめた。

自分まで濡れるのに、とセヴェランは思ったが、今は言わない方がいい気がした。


父が母の肩越しにこちらを見る。


「セヴェランも心配したか?」


「はい」


「ごめんな」


「怪我はありませんか?」


「ないよ」


「寒いですか?」


「かなり」


「布があります。着替えも出してあります」


父が目を丸くする。


「おお」


「食事も温め直せます」


「至れり尽くせりだな」


「祈った後に用意しました」


父が少し笑った。


「そうか」


母は台所へ向かいながら言う。


「エルディス様が守ってくださったのね」


父は濡れた髪を拭きながら首を傾げた。


「それもあるかもしれないけど、荷車の連中に助けてもらったよ。俺一人だったら、まだ帰れてない」


「では、その人たちにもお礼を言わないといけませんね」


「もちろん。明日、礼拝所にも寄ろう。無事に帰れた報告をしてこないとな」


母も嬉しそうに頷いた。


セヴェランはその会話を聞きながら考える。

神へ感謝する。助けてくれた人へ感謝する。どちらか一つを選ぶ必要はないらしい。


その夜、両親が眠ったあとも、セヴェランはしばらく起きていた。

雨はもう弱くなっている。机の上には小さな灯りがあり、昼に読んでいた本は閉じたままだった。


セヴェランは祈り台の前へ座る。


父はもう家にいる。無事だった。なら、願うことはないようにも思えた。それでも、祈ってみる。


今日の自分を思い返した。父を迎えに行こうとした。母に止められた。

危険を一つ増やすところだった。だから行かなかった。


布を用意した。着替えを出した。父が帰ってきた時、怪我がないか確かめた。

できたことがある。できなかったこともある。


父を直接助けたのは自分ではない。

雨の中で荷車を押した人たち。伝言を運んでくれた青年。ほかにもいたかもしれない。


「今日、僕は間違えそうになりました」


静かな部屋で、自分の声が小さく響く。


「心配だから迎えに行こうとしました。でも、僕まで危険になるところでした。次は、先に自分が役に立てるか考えます」


誰かから返事が来るのを待たず、言葉にしたことを自分で確かめる。


「助けてくれた人を忘れません。それから、分からない時は、分からないまま待つことも覚えます」


そこまで言うと、不思議と心が静かになった。


母が言っていた安心とは、少し違うのかもしれない。

全部を誰かへ預けた安心ではない。

今日の自分を見直して、明日の自分が何をするか確かめる。そのための時間に近かった。


セヴェランは目を開く。灯りを受けた聖印が、壁へ小さな影を落としていた。


「おやすみなさい」


最後にそう言った。誰に向けた言葉なのかは、深く考えなかった。


ただ一つだけ分かったことがある。


祈りを終えたあと、セヴェランは返事を待たなかった。


返事が来ないと思っているからではない。待つという発想そのものが、彼の中にはなかった。


代わりに残ったのは、明日、自分が何をするかということだった。

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