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傷が閉じても

「動かさないでください」


セヴェランが言うと、少年は余計に腕を引いた。


「だって痛い!」


「まだ何もしていません」


「するんだろ!」


「治します」


「それが痛そうなんだよ!」


セヴェランは困った。


礼拝堂の脇にある小さな治療室。


窓から午後の日差しが入り、白い布を掛けた寝台の上まで明るく照らしている。


その寝台に腰掛けている少年は、左の前腕を胸へ抱えるようにしていた。


年はセヴェランより少し下。


遊んでいる途中で石塀から落ち、地面に置かれていた木箱の角へ腕を擦ったらしい。


傷そのものは深くない。


長く擦れた部分から血が滲み、細かな砂が少し付いている。


骨にも問題はなさそうだ。


それでも少年は、今にも死ぬような顔をしていた。


「セヴェラン」


隣に立つ治癒師の女性が声を掛けた。


「まず何をしますか?」


「傷を洗います」


「その次は?」


「異物が残っていないか確認します」


「その次」


「出血の状態を見ます。それから必要なら聖属性で傷を閉じます」


「よくできました」


治癒師は頷いた。


「では、やってみましょう」


「嫌!」


少年が即座に叫んだ。


セヴェランはまた困った。


治癒師が笑いを堪えている。


「笑わないでください」


「ごめんなさい。セヴェランがあまりにも真剣だから」


「怪我をしていますから」


「そうですね」


女性は少年の前へしゃがんだ。


「水で洗うところまでは、私がやろうか?」


少年は少し迷ってから頷いた。


「痛くしない?」


「汚れを取らないといけないから、少し沁みるかもしれない」


「じゃあ嫌」


「でも、そのままだともっと痛くなるかもしれない」


「……じゃあ、ちょっとだけ」


治癒師は笑った。


「うん。ちょっとだけね」


セヴェランは二人を見ていた。


言っていることは、自分とほとんど同じだった。


治療する必要がある。


傷を洗う必要がある。


多少沁みる可能性がある。


それでも少年の反応は違った。


何が違うのだろう。


治癒師が清潔な布を水へ浸し、傷の周囲からゆっくり汚れを拭っていく。


少年が歯を食いしばった。


「いたっ」


「ここ?」


「そこ!」


「じゃあ、もう少しゆっくりやるね」


「うん……」


セヴェランは横から傷を見る。


土はかなり取れた。


残っている細かな砂も見える。


「そこにまだあります」


指を差す。


少年がびくりとした。


治癒師が苦笑した。


「セヴェラン」


「はい?」


「君は正しいけれど、もう少し言い方を考えてもいいかもしれません」


「砂が残っていると言っただけです」


「そうですね」


また同じようなことを言われた。


最近、こういうことが多い。


セヴェランは納得できないまま、一歩下がった。


しばらくして洗浄が終わる。


治癒師は傷を確認し、それからセヴェランへ場所を譲った。


「ここからやってみましょう」


少年が露骨に嫌そうな顔をした。


「この子がやるの?」


「この子、じゃありません。セヴェランです」


「だって子供じゃん」


「あなたもですよ」


「俺は治す方じゃないもん」


それはそうだった。


セヴェランは反論できず、黙った。


治癒師が横から助け舟を出す。


「私がずっと見ています。危ないと思ったらすぐ止めますから」


少年はセヴェランと治癒師を交互に見る。


「……失敗しない?」


セヴェランは答えようとした。


失敗しません。


そう言いかけて、止まる。


絶対に失敗しないとは言えない。


自分は傷の治療を何度か練習している。


小さな切り傷なら自分の手でも治した。


家族の軽い傷を治したこともある。


けれど、だからといって絶対はない。


「失敗しないようにやります」


少年の顔がさらに不安になった。


「失敗するかもしれないんじゃん!」


「可能性は――」


「セヴェラン」


治癒師に止められた。


「はい」


「間違ってはいません。でも、そこから先は私が説明します」


女性は少年へ向き直る。


「この傷なら、今のセヴェランでも十分に治せます。もし少しでもおかしなことがあったら、私がすぐに止めます」


「ほんと?」


「本当です」


「じゃあ……」


少年は恐る恐る腕を差し出した。


「痛くしないで」


セヴェランはその腕を見る。


細い。


まだ少し震えている。


「努力します」


「そこは『痛くしない』って言ってよ!」


また治癒師が笑った。


セヴェランには難しかった。


できるかどうか分からないことを、できるとは言えない。


それでも治療を始める。


両手を傷の近くへ添える。


触れない。


初めて他人の傷へ術を使った時、身体へ直接触れようとして注意されたことがある。


必要がないなら触らない。


まず状態を見る。


少年自身の魔力は穏やかだった。


傷ついた部分だけ、身体が元へ戻ろうとしている。


セヴェランはそこへ自分の魔力を重ねた。


白い光が淡く掌の間へ滲む。


派手ではない。


熱くもない。


少年が息を呑んだ。


「光った」


「はい」


「これ何?」


「治しています」


「今?」


「今です」


「痛くない」


「よかったです」


傷の縁が少しずつ寄っていく。


急がない。


傷が閉じればいいわけではない。


中に砂が残っていないか。


不自然に皮膚だけが塞がっていないか。


少年の身体が本来しようとしている治り方を邪魔していないか。


一つずつ確かめる。


セヴェランはこの作業が好きだった。


乱れているものが、元の形へ戻っていく。


身体が自分で治ろうとしている方向を探し、そこへ少しだけ力を貸す。


押しつける必要はない。


何をすればいいのかが、触れている魔力から伝わってくるように感じる。


「少し速いです」


治癒師が言った。


セヴェランはすぐ出力を落とす。


「これくらいですか?」


「ええ。その方がいい」


少年の腕から赤い線が薄くなる。


数分も経たないうちに、傷はほとんど分からなくなった。


最後まで無理に消し切らず、薄い赤みだけ残して魔力を止める。


セヴェランは息を吐いた。


「終わりました」


少年が目を開ける。


恐る恐る自分の腕を見る。


「……どこ?」


「ここです」


セヴェランが示す。


少年は指で触れようとした。


「強く押さないで」


慌てて言う。


手が止まった。


「まだ駄目?」


「傷は閉じています。でも、治ったばかりですから」


「痛くない」


腕を曲げる。


伸ばす。


もう一度曲げる。


「本当に痛くない!」


少年の顔がぱっと明るくなった。


セヴェランの胸にも小さな喜びが広がった。


自分の術で、誰かの痛みがなくなった。


それは思っていたより嬉しかった。


「すごい!」


少年が言う。


「ありがとうございます」


「自分で言うんだ」


「褒めてもらったので」


治癒師が吹き出した。


「そこは素直なんですね」


「はい」


少年も笑った。


これで終わった。


セヴェランはそう思った。


その時だった。


廊下の向こうから、ばたばたと足音が聞こえた。


「どこ!? どこにいるの!?」


女性の声。


少年の顔から笑みが消えた。


扉が開く。


息を切らした母親らしい女性が飛び込んでくる。


「大丈夫!?」


少年の身体が強張った。


「母ちゃん……」


女性は寝台へ駆け寄り、少年の腕を見た。


「血が出たって聞いて……!」


「もう治しました」


セヴェランが答える。


女性がこちらを見る。


「え?」


「傷は閉じています。深い傷ではありません。骨にも――」


途中で、少年が泣いた。


セヴェランは言葉を止めた。


大粒の涙がぽろりと落ちる。


そのまま次々と溢れた。


「う、うぅ……」


「どうしました?」


セヴェランは傷を見る。


出血はない。


腫れもない。


魔力の流れにも異常はない。


「どこか痛いですか?」


少年は首を振る。


「では、どうして」


「セヴェラン」


治癒師が静かに呼んだ。


母親が少年を抱きしめる。


「怖かったね」


それだけだった。


少年の泣き声が大きくなった。


「血いっぱい出たぁ……!」


「うん」


「腕、なくなるかと思った……!」


「なくならないよ」


「死ぬかと思った!」


「大丈夫。ここにいるよ」


母親が背中を撫でる。


少年は母の服を両手で掴み、さっきまで我慢していたものを全部吐き出すように泣いていた。


セヴェランには理解できなかった。


治った。


もう痛くない。


本人もそう言った。


「傷は閉じています」


気づけば口にしていた。


少年はまだ泣いている。


「もう痛くないはずです」


母親がこちらを見た。


怒ってはいなかった。


ただ、少し困ったような顔をした。


「そうね」


「では、もう大丈夫です」


「身体はね」


その答えは治癒師からだった。


セヴェランは振り返る。


「身体は?」


治癒師は泣いている少年を見る。


「怖かったんですよ」


「さっき聞きました」


「ええ」


「でも、もう治りました」


「傷は」


セヴェランは黙った。


少年は相変わらず泣いている。


母親の服に顔を押しつけ、時々しゃくり上げる。


おかしい。


いや、おかしいのは少年ではない。


自分の考え方のどこかだ。


そう思った。


最近、何度か同じ感覚がある。


答えは合っている。


なのに、それだけでは足りない。


治癒師がセヴェランの横へ来た。


「セヴェラン。もし君が高いところから落ちて、血がたくさん出たらどう思います?」


「まず傷を確認します」


「そうじゃなくて」


「骨折があれば――」


「治療の話から離れましょう」


難しい。


セヴェランは少し考えた。


「……怖いかもしれません」


「そうですね」


「でも治れば」


また言いかけて、止めた。


治癒師が続きを待つ。


「治っても、怖かったことは残る?」


「残ることがあります」


セヴェランは少年を見る。


「身体とは別なんですか?」


「全部が完全に別ではないでしょう。でも、傷が閉じたからといって、驚いたことや怖かったことまで同じ瞬間になくなるわけではありません」


「では、それも治せばいいのでは?」


治癒師が少し目を細めた。


「どうやって?」


セヴェランは答えられない。


聖属性で身体の傷は見える。


どこが傷ついているか分かる。


どこへ力を貸せばいいか分かる。


けれど、怖かったことはどこにあるのだろう。


胸か。


頭か。


魔力か。


分からない。


「分かりません」


「なら、分からないものへ勝手に触ってはいけませんね」


その言葉は、すぐ理解できた。


「はい」


「それに」


治癒師は少し笑った。


「何でも消せばいいわけではないと思いますよ」


「怖いのに?」


「怖いことを、無理に好きになる必要はないでしょう」


「でも苦しいです」


「だから一人にしないんです」


少年の母親が、まだ背中を撫でている。


泣き声は少しずつ小さくなっていた。


治癒師は続ける。


「魔術でできることだけが、治療ではありません」


「話を聞くこと?」


「それも」


「抱きしめること?」


「嫌がられなければね」


セヴェランは考える。


「僕が抱きしめたら嫌がられると思います」


「たぶん」


「そこは否定してください」


「嘘になりますから」


セヴェランは口を閉じた。


少し納得できない。


けれど治癒師が笑ったので、悪い意味ではないのだろう。


しばらくして少年は泣き止んだ。


目は真っ赤だった。


母親が何度も礼を言う。


少年も帰り際、セヴェランへ腕を見せた。


「もう平気」


「はい。綺麗に治っています」


「すごかった」


「ありがとうございます」


「でもさ」


少年が少しだけ唇を尖らせた。


「泣くなって言うのは嫌だった」


言葉が胸へ刺さった。


痛いわけではない。


けれど、すぐ返事ができなかった。


「……すみません」


「いいよ」


少年は母親の手を握る。


扉を出る直前に振り向いた。


「治してくれてありがと」


今度はセヴェランが少し遅れて答えた。


「どういたしまして」


扉が閉じる。


治療室が静かになった。


セヴェランは自分の両手を見る。


さっきまで白い光をまとっていた手。


この手で傷を閉じた。


痛みをなくした。


それは間違いなくできた。


嬉しかった。


今も嬉しい。


なのに、全部できたとは思えなくなった。


「上手でしたよ」


治癒師が言う。


「何がですか?」


「治療です」


「でも泣きました」


「泣かせないことが治療の成功ではありません」


「泣かせました」


「それは少し反省してもいいですね」


はっきり言われた。


セヴェランは頷く。


「はい」


治癒師が使った布を片付け始める。


セヴェランも手伝った。


血の付いた布。


洗浄に使った器。


使わなかった包帯。


一つずつ元の場所へ戻していく。


「治すのは、簡単じゃないんですね」


「今日の傷は簡単な方でしたよ」


「そういう意味ではありません」


治癒師の手が止まる。


セヴェランは考えながら言葉を探した。


「傷がどこにあるか分かるなら、そこを治せます」


「ええ」


「でも、見えないものは分かりません」


「そうですね」


「それなのに、もう大丈夫だと言ってしまいました」


治癒師は少しだけ笑った。


「そこに気づいたなら、今日は十分です」


「十分?」


「次から、もう少し上手にできます」


その言葉を聞いて、セヴェランは少年へ言った自分の言葉を思い出した。


失敗しないようにやります。


あの時は、治癒魔術のことしか考えていなかった。


今なら少し違う。


失敗した後でも、次を変えることはできる。


「次は、泣いていても止めません」


「それだけ?」


「どこが痛いか聞きます」


「うん」


「怖いかも聞きます」


「いいですね」


「話したくないと言われたら?」


「待てばいいでしょう」


「どれくらい?」


治癒師が笑う。


「そこまで私に答えを求めないでください」


また難しくなった。


夕方、家へ帰ると、母は台所にいた。


切った野菜を鍋へ入れている。


セヴェランは手を洗い、そのまま母の近くへ立った。


「今日、人を治しました」


母がすぐ振り返った。


「まあ。本当に?」


「はい。腕の傷です」


「ちゃんと先生に見てもらいながら?」


「見てもらいました」


「それなら安心ね」


母は嬉しそうだった。


「どうだった?」


セヴェランは少し考える。


「綺麗に治せました」


「すごいじゃない」


「でも、その子は泣きました」


母の手が止まった。


セヴェランは最初から話した。


少年が怖がっていたこと。


治療を嫌がったこと。


それでも術を使わせてもらったこと。


傷が綺麗に閉じたこと。


そして母親が来た途端に泣いたこと。


自分が、


もう痛くないはずだ。


だから大丈夫だ。


と言ってしまったこと。


母は最後まで聞いた。


「僕は間違っていましたか?」


「何について?」


そう返されるとは思わなかった。


「もう大丈夫だと言ったことです」


「身体についてなら間違っていなかったんでしょう?」


「はい」


「じゃあ、それは間違ってない」


「でも」


「その子が怖かったことまで終わったって決めちゃったのは、少し早かったかもしれないわね」


母は鍋の蓋を閉める。


「泣いている人に、泣かなくていいって言いたくなることはあるの」


「なぜですか?」


「泣いているところを見ると、こっちもつらいから」


その答えは意外だった。


「泣いている人のためじゃないんですか?」


「そういう時もある。でも、自分が安心したくて言う時だってあると思う」


セヴェランは黙った。


今日の自分はどうだったのだろう。


少年が泣いた。


傷は治っていた。


だから泣いていることに納得できなかった。


泣き止めば、自分の治療が全部うまくいったように見えたのかもしれない。


そこまで考えて、少し嫌な感じがした。


「僕は、泣き止んでほしかったのかもしれません」


「そう?」


「治したのに泣いていたから」


母は責めなかった。


「じゃあ、次はどうする?」


最近、それをよく聞かれる。


どうする。


何を選ぶ。


自分で決めなければならない。


「……泣いていたら」


セヴェランは考えた。


「まず、まだ痛いか聞きます」


「うん」


「痛くないなら、ほかに怖いことがあるか聞きます」


「うん」


「話したくなさそうなら、少し待ちます」


母が微笑む。


「それで?」


「それでも分からなかったら……」


少し迷った。


「分からないまま、そばにいます」


母の笑みが深くなった。


「それで十分な時もあると思うわ」


「何もしなくても?」


「そばにいるでしょう?」


ああ。


そういう考え方もあるのか。


セヴェランは覚えておくことにした。


翌日。


礼拝堂へ行くと、昨日の少年が中庭にいた。


もう腕は普通に動いている。


友達と木の球を蹴って遊んでいた。


セヴェランを見ると、走ってくる。


少し身構えた。


また何か言われるかと思った。


少年は目の前で止まった。


「ほら」


腕を見せる。


赤みもほとんど消えていた。


「問題ありませんね」


「うん!」


少年は嬉しそうに笑った。


それから急に思い出したように言う。


「昨日、俺すっごい泣いたけど」


「はい」


「今日みんなには言わないで」


「分かりました」


「泣き虫って言われるから」


セヴェランは頷きかけて、ふと聞いた。


「泣いたら、駄目なんですか?」


少年が変な顔をした。


「だって恥ずかしいじゃん」


「昨日は怖かったんですよね?」


「……うん」


「なら、泣いてもよかったと思います」


少年が目を丸くした。


昨日の自分なら言わなかった言葉だった。


「でも、言わないでほしいなら言いません」


少しの沈黙。


少年が吹き出した。


「お前、昨日と違う」


「少し考えました」


「一日で?」


「一日あれば考えられます」


「変なの」


少年は笑いながら友達のところへ戻っていった。


セヴェランはその背中を見る。


昨日は、傷を治した。


今日は何もしていない。


魔術も使っていない。


それでも昨日より少しだけ、ちゃんと話せた気がした。


自分の手を見る。


傷を閉じられる手。


痛みを減らせる手。


それは、とても便利だった。


きっとこれから、もっと多くのことができるようになる。


けれど。


できないことがあるからといって、その場にいる意味がなくなるわけではない。


魔術を使えない時間にも、人にしてやれることはある。


礼拝堂から朝の鐘が鳴った。


子供たちが一斉に入口へ向かう。


セヴェランも歩き出す。


途中、昨日の少年が友達に押され、少しよろけた。


慌てて体勢を戻す。


転ばなかった。


それでも本人は一瞬だけ地面を見た。


昨日落ちた時のことを思い出したのかもしれない。


セヴェランには分からない。


分からないから、決めなかった。


少年がまた走り出すのを確認してから、礼拝堂へ入った。


今日は、それでいいと思えた。

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