一人一杯
「セヴェラン、それはこっちです」
母に呼ばれ、セヴェランは両手で抱えていた木椀の束を持ち直した。
「同じ椀に見えます」
「同じだけど、そっちは洗ったばかりでしょう。まだ濡れているの」
言われて見ると、一番下の椀から小さな雫が落ちていた。
「本当だ」
「ちゃんと見てから運びましょうね」
「はい」
素直に向きを変える。
礼拝堂の裏手にある広間は、いつもとは違う匂いで満ちていた。
煮込んだ豆。
刻んだ根菜。
焼いた麦。
大鍋から立ち上る湯気が天井近くまで白く昇り、窓には薄く水滴がついている。
月に何度か、律衡院では生活に困っている人たちへ食事を配っていた。
両親は時間が合えば手伝いに来る。
今日はセヴェランも一緒だった。
「これでいいですか?」
指定された台へ椀を置く。
「ありがとう。次は匙をお願い」
「何本ですか?」
「箱ごと持ってきて」
「分かりました」
母が笑う。
「あなたって、こういう時だけ妙に素直よね」
セヴェランは足を止めた。
「こういう時だけ?」
「いいから行ってらっしゃい」
追い払われた。
納得できない。
けれど今は人が多い。母に理由を尋ねるのは後でいい。
広間の入口にはすでに列ができていた。
老人。
子供を連れた母親。
作業着を着た男。
杖をついている女性。
事情はそれぞれ違うのだろう。
セヴェランには見ただけでは分からない。
分からないことを、勝手に決めてはいけない。
最近、それをよく考えるようになった。
匙の入った木箱を運びながら、列の横を通る。
入口近くには黒い板が立てられていた。
白い文字が大きく書かれている。
『食事は一人一杯まで』
読めない人のためなのか、その横には椀一つと人一人の絵も描かれていた。
今日用意できた食事には限りがある。
できるだけ多くの人へ渡すための決まりだった。
大鍋は三つ。
セヴェランが覗き込もうとすると、鍋を担当していた女性に止められた。
「危ないよ、坊や」
「覗くだけです」
「覗いてひっくり返ったら、今日のみんなの夕飯がなくなるの」
それは困る。
セヴェランは素直に下がった。
「すみません」
「よろしい」
女性は満足そうに頷き、大きな杓子を鍋へ戻した。
昼を過ぎる頃には、広間はかなり忙しくなった。
空の椀を渡す者。
鍋から料理をよそう者。
パンを添える者。
食べ終えた椀を集める者。
入口で人数を確認する者。
父は入口近くの机に座り、来た人数や残っている食事の量を記録していた。
母は配膳。
セヴェランは足りなくなった匙や布巾を運んだり、空いた椀を集めたりしている。
子供でもできる仕事は意外と多かった。
「ありがとうございます」
小柄な少女から椀を受け取る。
セヴェランより二つか三つ年下に見えた。
古びた赤い外套を着ている。
「おいしかったですか?」
尋ねると、少女は頷いた。
「うん」
それだけ言うと、空になった椀を渡して出口へ走っていった。
セヴェランは重ねた椀を洗い場へ運んだ。
それからしばらくして。
また赤い外套が見えた。
列の後ろだった。
セヴェランは足を止めた。
先ほどの少女だ。
ただし、さっきは下ろしていた外套の頭巾を、今は深く被っている。
顔の半分ほどが隠れていた。
最初はよく似た別の子供かとも思った。
しかし外套の裾に、大きな四角い継ぎ布がある。
同じだった。
少女は少しずつ列を進んでいる。
セヴェランは黒板を見る。
『食事は一人一杯まで』
もう一度、少女を見る。
一杯は食べた。
なら、二杯目はもらえない。
簡単だった。
声を掛けようとして、一歩出る。
そこで止まった。
割れた器を隠した少年の顔を思い出した。
怖がっていた。
自分は、それを聞く前に正しい答えを言った。
今も同じことをしようとしている。
セヴェランは少女が列の前へ着くより先に近づいた。
頭巾の下から、少女がこちらを見る。
目が合った瞬間、明らかに顔が強張った。
やはり同じ子だ。
「さっきもいましたよね」
少女の肩が小さく跳ねた。
「い、いなかった」
「いました」
「似てる子」
「外套も同じです」
少女が黙った。
言い逃れを考えているようだった。
セヴェランは、次の言葉を飲み込んだ。
『一人一杯です』
それを言うのは簡単だった。
代わりに聞く。
「もう一杯、欲しいんですか?」
少女は下を向く。
返事がない。
後ろの人が列を詰めようとしている。
このままここで話していては邪魔になる。
「こっちへ来ませんか」
「嫌」
「怒りません」
「絶対?」
「僕には怒る仕事はありません」
少女が顔を上げた。
少し変なものを見る目だった。
「じゃあ、誰か呼ぶ?」
「必要なら呼びます」
「それ、怒られるやつじゃん」
そうかもしれない。
セヴェランは少し考えた。
「でも、先に理由を聞きます」
少女はしばらく動かなかった。
やがて、列から外れた。
二人で広間の壁際へ移動する。
そこなら配膳の邪魔にはならない。
「どうしてもう一杯欲しいんですか?」
少女は答えない。
セヴェランは待った。
前なら、たぶん続きを尋ねていた。
今日は待つ。
少女の指が、赤い外套の裾を強く握っている。
「……弟」
やがて、小さな声がした。
「弟?」
「家にいる」
「食べに来ないんですか?」
「熱あるから」
少女はますます俯いた。
「母ちゃん、仕事。夜まで帰ってこない。弟、一人で待ってる」
「では、弟さんの分なんですね」
小さく頷く。
セヴェランは黒板を見る。
一人一杯まで。
少女は一杯食べた。
弟は一杯も食べていない。
なら、弟の分を渡せばいい。
そう思った。
だが少女本人しかここにはいない。
「最初から、弟さんの分も欲しいって言わなかったんですか?」
「駄目って言われると思った」
「聞いていませんよね?」
「だって一人一杯って書いてあるもん」
少女も黒板を見た。
「だから一回外に出て、別の人みたいにしたらもらえるかなって」
セヴェランは少し困った。
弟に食べさせたいことは悪くない。
二度並んで別人のふりをすることは悪い。
二つが一緒になっている。
昨日までなら、それを分けられたことで満足していたかもしれない。
今は、その先が気になった。
弟は熱を出している。
食べるものがない。
目の前には食事がある。
「少し待っていてください」
「やっぱり言うの?」
「はい」
「嫌!」
少女がセヴェランの袖を掴んだ。
強い力ではなかった。
それでも必死なのは分かった。
「弟の分、いらないから」
「でも弟さんは食べていないんでしょう?」
「怒られるよりいい」
「それはよくないと思います」
「じゃあどうするの!」
声が震えた。
セヴェランは答えられなかった。
どうすればいいのだろう。
一人一杯。
決まりは分かる。
理由も分かる。
一人が何杯も持っていけば、後ろにいる人の分がなくなる。
けれど少女の弟は、一杯も受け取っていない。
同じ町にいて、熱を出していて、ここへ来られないというだけだ。
それで食べられないのは正しいのか。
分からない。
なら、分かる人に聞くしかない。
「僕も分かりません」
少女が瞬いた。
「……分かんないの?」
「はい」
「さっき、すごい分かってるみたいだったのに」
「弟さんが食べていいかは分かります」
セヴェランはそこだけは迷わなかった。
「食べた方がいいです」
「じゃあ――」
「でも、勝手に二杯渡していいかは分かりません」
「なんで?」
「他の人にも同じように困っている家族がいるかもしれないからです」
少女が黙る。
セヴェラン自身も、口にして初めて気づいた。
この子だけの問題ではない。
来られない人間が一人いるなら、ほかにもいるかもしれない。
少女だけへこっそり一杯渡せば、この子は助かる。
でも、それで終わりにしていいのだろうか。
「だから聞いてきます」
今度は袖を離された。
「……怒られない?」
「それも聞きます」
「そこも分かんないんだ」
「はい」
少女が少しだけ笑った。
先ほどまでより、怖がっている顔ではなくなった。
父は入口の机にいた。
セヴェランが事情を話すと、記録していた手を止めた。
「熱のある弟?」
「はい。家に一人です」
父は少女を見る。
「家はどこかな?」
少女が町の通りを答えた。
歩けばそれほど遠くない場所だった。
父はさらに尋ねる。
弟の年齢。
熱が出たのはいつからか。
ほかに大人はいないのか。
少女は一つずつ答えた。
最後に父は、近くにいた神父を呼んだ。
第一声は、
「どうして二度並んだ」
ではなかった。
「弟さんの熱は高いですか?」
だった。
少女は首を傾げた。
「分かんない。でもずっと寝てる」
神父の顔つきが少し変わる。
「食事より先に、診てもらった方がよさそうですね」
近くにいた別の聖職者へ声を掛ける。
その人はすぐに手を止め、簡単な鞄を取りに行った。
「私が一緒に行きます」
母もやってきた。
「食事は?」
セヴェランが聞く。
神父は大鍋を見る。
「もちろん持っていきましょう」
「でも、一人一杯です」
少女の声だった。
神父が振り返る。
少女はまだ不安そうに黒板を見ている。
神父は一度だけ瞬きをした。
それから、意味が分かったらしい。
「ああ」
黒板へ近づく。
「これは、ここで食べる人が一人一杯という意味です」
「書いてない」
少女が言った。
神父は黒板を見る。
「……書いていませんね」
「だから駄目だと思った」
「それは、こちらが悪かった」
あっさり謝った。
少女の方が驚いている。
セヴェランも少し驚いた。
大人はもっと、書いていなくても分かるでしょう、と言うものだと思っていた。
神父はしゃがみ、少女と目の高さを合わせた。
「自分で来られない人のための食事もあります。病気の人や、身体を動かせない人には届けることができます」
「ほんと?」
「本当です」
「じゃあ、最初から言えばよかった?」
「ええ」
少女の顔が少し明るくなる。
だが神父は続けた。
「ただし、別の人のふりをして二度並んだことは、よくありません」
明るくなった顔がまた下を向く。
「……うん」
「なぜだと思います?」
「二杯取ったら、ほかの人のがなくなるから」
「それもあります」
神父は頷く。
「それに、嘘をつかなくても弟さんへ届ける方法がありました。分からなければ、聞いてください」
「怒らない?」
「困っていることを話した人を、困っているという理由では怒りません」
少女は少し考えてから、
「ごめんなさい」
と言った。
「はい。今度からはそうしてください」
それで終わった。
食事を入れた蓋付きの容器が用意された。
少女の分ではない。
弟の分として記録される。
さらに治療のできる聖職者が同行することになった。
母が少女の頭巾を整える。
「あなたも一緒に帰りましょう。道を教えてね」
「うん」
少女が入口へ向かう。
途中、セヴェランの前で立ち止まった。
「ありがとう」
「僕は食事を渡していません」
「でも聞いてくれた」
そう言われた。
セヴェランは少しだけ黙った。
それから、
「どういたしまして」
と答えた。
今度は間違えなかったと思う。
少女たちを見送った後、セヴェランは黒板の前へ行った。
『食事は一人一杯まで』
間違ったことは書いていない。
今日の人数に対して、食事は無限ではない。
一人が何杯も取れば足りなくなる。
だから必要な決まりだ。
それでも、少女には別の意味に見えた。
「父さん」
「ん?」
机へ戻っていた父が顔を上げる。
「決まりが正しくても、分かりにくかったらどうするんですか?」
父は持っていた筆を置いた。
「急に難しいことを聞くな」
「今、気になりました」
「そうか」
父も黒板を見る。
少し考えたあと、椅子から立った。
「なら、分かりやすくすればいい」
「変えていいんですか?」
「勝手には駄目だ」
「では駄目です」
「最後まで聞きなさい」
今度はセヴェランが言われた。
父が笑う。
「勝手に変えるんじゃない。決まりを作った人間へ、足りないところを伝えるんだ」
二人で神父のところへ行った。
少女が誤解したこと。
病人への食事について書かれていなかったこと。
セヴェランが説明すると、神父は腕を組んだ。
「確かに、毎回来てくださっている方なら知っています。でも、初めて来た方には分かりませんね」
「書いた方がいいと思います」
「私もそう思います」
神父は白い筆を取った。
黒板の下へ新しい一文を書く。
『来られない家族がいる場合は、係の者へ相談してください』
文字が増えた。
セヴェランはそれを読む。
「これなら分かります」
「それはよかった」
神父は筆を置く。
「決まりというのは、守ってもらうだけでは足りないことがあります」
「どういう意味ですか?」
「守れるように作る必要もある、ということです」
セヴェランは黒板を見る。
「でも、全員が弟の分だと言ったら?」
神父が笑った。
「いい質問ですね」
「本当に弟がいるか、確認するんですか?」
「必要なら確認します」
「嘘だったら?」
「その人には、嘘をついた責任を取ってもらいます」
「本当だったら?」
「届けます」
答えは簡単だった。
だが、今朝までのセヴェランなら思いつかなかった。
一人一杯という決まりをなくす必要はない。
少女だけ見逃す必要もない。
来られない人へ届ける道を作り、その道を使ったことを記録する。
誰か一人だけを特別に助けるのではなく、同じ事情の人なら同じように助けられる。
それなら、決まりと助けることは喧嘩をしない。
「神父様」
「はい」
「最初から全部書いたら駄目なんですか?」
「黒板が文字だらけになります」
「大きくすれば」
「置く場所がなくなります」
「壁に書けば」
「セヴェラン」
父が肩へ手を置いた。
「そういうところは、一度止まりなさい」
神父が笑った。
セヴェランには、どこがおかしかったのかよく分からなかった。
昼を過ぎて、鍋の底が見え始めた。
最後の一人へ食事を渡しても、ほんの少しだけ余った。
足りなかったわけでもない。
大量に余ったわけでもない。
父が人数と残量を記録する。
「今日はうまくいったな」
鍋を担当していた女性が腰を伸ばした。
「毎回これくらいなら楽なんだけどね」
「次も同じ人数とは限りませんから」
父は記録を閉じない。
余った量も書いている。
セヴェランは横から覗いた。
「残った分まで書くんですか?」
「書くよ」
「どうして?」
「次にどれだけ作るか決めるため。それから、使った量が合っているか確認するためだ」
「一杯くらい違っても?」
父の筆が止まった。
「一杯だからだ」
「?」
「十杯なくなれば誰でも気づく。一杯なら、まあいいかと思いやすい」
父は記録を指先で軽く叩く。
「でも、その一杯は誰か一人の分だろう」
セヴェランは空になった大鍋を見た。
一杯。
少女の弟が受け取った量も、一杯だった。
「だから小さい違いも書くんですか」
「そういうこと」
「面倒ですね」
「面倒だよ」
父は即答した。
「でも、面倒だからやめていいことばかりなら、世の中はもう少し簡単だっただろうな」
セヴェランは少し笑った。
父も笑った。
片付けが終わる頃には、外の日が傾いていた。
広間から人が消える。
濡れた床。
積み上げられた椀。
火を落とした大鍋。
朝には料理の匂いでいっぱいだった部屋が、急に広く見えた。
セヴェランは最後に黒板の前を通った。
『食事は一人一杯まで』
その下に、
『来られない家族がいる場合は、係の者へ相談してください』
朝にはなかった一行がある。
母が外套を持ってくる。
「帰りましょう」
「はい」
袖を通しながら、セヴェランは黒板を見続けていた。
「そんなに気になる?」
「少し」
「何が?」
「朝よりよくなりました」
母も黒板を見る。
「そうね」
「決まりを変えていないのに」
一人一杯のままだ。
誰でも好きなだけ受け取れるようにはしていない。
嘘をついて二度並んでもいいことにもなっていない。
それでも、助けられる人が一人増えた。
もしかしたら、これからもっと増える。
セヴェランには、それが不思議と気持ちよかった。
礼拝堂の前を通る。
夕方の光が扉の隙間から細く伸びていた。
母が何気なく言った。
「きっとエルディス様も、喜んでくださるわ」
セヴェランは歩きながら、その言葉を聞いた。
また、あの小さな違和感があった。
喜んでくださる。
遠くにいる誰かが。
今日の出来事を見て。
褒めてくれる。
その言い方が、どうしてもしっくりこない。
「どうしたの?」
「いえ」
母を見る。
「僕も、よかったと思います」
「そう」
母はそれ以上尋ねなかった。
セヴェランも考えるのをやめた。
まだ、言葉にできなかったから。
ただ一つだけ分かる。
困っている人がいる時、決まりをなくせばいいわけではない。
こっそり一人だけ助ければいいわけでもない。
同じように困った誰かが来た時、その人にも使える道を残す。
そういう決まりなら、きっと長く人を助けられる。
帰り際、セヴェランは一度だけ振り返った。
扉の向こうに黒板はもう見えない。
それでも、朝にはなかった一行を覚えていた。
一人を助けるために増えた言葉。
そして次に同じような誰かが来た時、その人も助けるために残った言葉。
セヴェランは、それを前より少し正しいと思った。




