↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/16

知っている言葉

朝の鐘が三度鳴る前に、セヴェランは母の前で両腕を上げていた。


「もう少しだけ、そのまま」


「昨日も測りました」


「昨日より今日の方が大きくなっているかもしれないでしょう?」


「一日で袖が足りなくなるほど伸びたなら、先に医者へ行くべきだと思います」


母の手が止まった。


それから、仕立て直しかけていた白い上衣越しに、額を軽く小突かれる。


「そういうことを真顔で言うところ、お父さんにそっくり」


「父さんは昨日、一日では伸びないと言っていました」


「じゃあ、そこはわたしに似なかったのね」


母が笑ったので、セヴェランも少しだけ笑った。


礼拝の日に着る上衣は、普段着より首元が固い。

きちんとしているのは嫌いではなかったが、喉の近くに布が当たる感触だけは好きになれなかった。


鏡の前で襟を指先で引っ張っていると、母にまた直される。


「今日は子供向けのお話もあるから、ちゃんと聞くのよ」


「いつも聞いています」


「知ってるわ。でも今日は、エルディス様の教えについて神父様が一つずつ説明してくださるんですって」


セヴェランは襟から指を離した。


なぜか、その言葉を聞いた時だけ、胸の奥が少し落ち着いた。


楽しみ、というのとは違う。


知らないことを教えてもらえる時には、もっと先が気になる。

今日はそうではなかった。

むしろ、ずっと閉じていた本をもう一度開く前のような、妙な懐かしさがあった。


「難しいかもしれないけれど」


母が続ける。


「分からないところがあったら、あとで一緒に考えましょう」


「はい」


セヴェランは素直に頷いた。


分からないところがあるかもしれない。


そう思っていた。


礼拝堂へ着くまでは。


石造りの礼拝堂には、朝の冷たい空気がまだ残っていた。


高い窓から入る光が床へ細長く落ち、その中を小さな埃がゆっくり漂っている。

入口では近所の老夫婦が神父と話し、奥では子供が母親に髪を撫でつけられていた。


セヴェランは両親と並んで長椅子へ腰掛けた。


父は背筋を伸ばし、母は胸元で指を組んでいる。


やがて人の声が静まり、前に立った神父が穏やかに口を開いた。


「今日は、私たちが日々大切にしている教えについて、少しだけお話ししましょう」


難しい言葉は使いません、と神父は笑った。


前の方に座った小さな子供が、露骨に安心した顔をした。それを見て何人かの大人が笑う。


セヴェランも口元を緩めた。


神父は続けた。


「人は、その行いによって量られなければなりません」


その言葉が耳へ入った瞬間、セヴェランは瞬きをした。


知っている。


もちろん、似た話を両親から聞いたことはある。

礼拝で教義の一節を耳にしたことだって一度や二度ではない。


けれど、そういう意味ではなかった。


文章を覚えているのではない。


神父が次に何を言おうとしているのか、その先にある考え方まで、なぜか分かる。


「けれど――」


神父が言った。


セヴェランの唇が、ほとんど無意識に動いた。


「罪と人を、同じものとして扱ってはならない」


一瞬遅れて、前から同じ言葉が聞こえた。


「罪と人を、同じものとして扱ってはなりません」


隣で母がこちらを見る気配がした。


セヴェランは口を閉じた。


神父は気づかず話を続けている。


悪いことをした人間がいたとして、その行為は正しく問わなければならない。

しかし、一つの罪を犯したからといって、その人間の全部が罪になるわけではない。


間違いを認めること。


必要な責任を果たすこと。


そして、責任を果たした者が戻ってこられる場所を残すこと。


どれも初めて聞く説明のはずだった。


なのに、驚きはなかった。


むしろ神父の言葉が一つ増えるたび、胸の中にあった形のないものへ、名前が置かれていく。


そうだ。


それでいい。


そういうものだ。


そんな納得だけが、静かに積み重なっていった。


「セヴェラン」


母が小声で呼ぶ。


「はい?」


「さっき、神父様より先に言わなかった?」


「少しだけです」


「覚えていたの?」


セヴェランは答えようとして、やめた。


覚えていた、とは違う気がした。


「……たぶん」


結局そう答えると、母は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


礼拝が終わると、大人たちの多くはそのまま帰り、子供たちだけが礼拝堂の横にある小部屋へ集められた。


長机が三つ。


椅子が十脚ほど。


窓際には小さな鉢植えがあり、葉の先が少し黄色くなっている。


セヴェランは机の端へ座った。


本当は中央でもよかったのだが、端の席なら終わった後すぐ廊下へ出られる。

今日は帰りに母が蜂蜜を塗った焼き菓子を買ってくれると言っていた。


教義に興味はある。


焼き菓子にも興味はある。


両方あっていいとセヴェランは思っていた。


先ほどの神父が、今度は子供たちと同じ高さの椅子へ座った。


「さて。さっきの話を、もう少し簡単にしてみましょう」


神父は机の上へ、小さな丸いパンを一つ置いた。


どこから出したのだろう、と子供たちの目が一斉にパンへ向く。


「ここにパンがあります」


「食べるんですか?」


誰かが聞いた。


「話が終わって残っていたらね」


俄然、全員の姿勢がよくなった。


神父は苦笑しながら続けた。


「ある子供が、このパンを店から盗みました。その子は悪い子でしょうか?」


すぐに手が上がった。


「悪い!」


「盗んだら駄目だから!」


「返したらいいと思う!」


「お金を払う!」


いくつもの答えが飛び交う。


セヴェランは手を上げなかった。


パンを見ていた。


神父がそれに気づく。


「セヴェランは、どう思いますか?」


名前を呼ばれ、顔を上げる。


「分かりません」


部屋が少し静かになった。


どうやら期待された答えではなかったらしい。


神父も意外そうに眉を上げた。


「分からない?」


「はい」


「では、何が分かれば答えられそうですか?」


セヴェランはもう一度パンを見た。


「どうして盗んだんですか?」


後ろの席から、「盗んだのは同じじゃない?」という声が聞こえる。


セヴェランはそちらを向いた。


「同じです。盗んだことは変わりません」


「じゃあ悪いじゃん」


「盗んだことは悪いです」


「同じじゃん」


「でも、その子が悪い子かどうかは、まだ分かりません」


言ってから、セヴェランは自分でも少し考えた。


どこが引っ掛かったのか。


すぐに分かった。


「お腹が空いていたのかもしれません。家に食べるものがないのかもしれない。誰かに盗めと言われたのかもしれないし、お金を持っているのに欲しくて取ったのかもしれません」


神父は黙って聞いていた。


「だから、パンを盗んだことは悪いです。でも、同じように扱っていいかは、理由を聞かないと分かりません」


「なるほど」


「それから、返せるなら返した方がいいです。食べたなら、お金を払うとか、お店の人に謝るとか。できることはあると思います」


そこでセヴェランは少し迷った。


「でも、お腹が空いて盗んだなら……その子を怒るだけだと、またお腹が空くと思います」


今度は誰も口を挟まなかった。


神父がゆっくり笑う。


「ずいぶん考えましたね」


「いえ」


セヴェランは首を振った。


考えた、という実感があまりなかった。


聞かれたから、答えただけだった。


神父はパンを手に取り、子供たちへ見えるように掲げた。


「セヴェランの言ったことは、今朝のお話にとてもよく似ています。したことを見ないふりはしない。でも、その人そのものを、したこと一つで決めてしまわない」


何人かの子供が、分かったような分からないような顔をしている。


神父は笑って、


「エルディス様なら、きっとその子がなぜパンを盗んだのか、まずお尋ねになるでしょう」


と言った。


その瞬間だった。


セヴェランは、ほんの少しだけ眉を寄せた。


胸の奥に、小さな引っ掛かりが生まれた。


言っていることは正しい。


なのに、言葉のどこかが妙に遠い。


何が気になったのか、自分でも分からない。


「どうしました?」


「いいえ」


セヴェランは首を振った。


分からないなら、今は分からないままでいい。


その程度のことだった。


授業が終わると、例のパンは切り分けられた。


十人で分けたので一人分は小さかったが、焼きたてだったのか中はまだ柔らかい。


セヴェランは一口で食べず、二回に分けた。


蜂蜜菓子は別腹なので問題ない。


そう考えながら廊下へ出る。


母たちが迎えに来るまで少し時間があるらしく、子供たちは礼拝堂裏の小さな中庭へ散っていった。


セヴェランも外へ出た。


朝より陽が高くなり、石壁の冷たさが少し和らいでいる。


その時、乾いた音がした。


何かが割れた音だった。


振り向く。


中庭の隅で、一人の少年が立ち尽くしていた。


足元には白い陶器の破片が散らばっている。


水を入れていた小さな器だったらしい。壁際の台から落としたのだろう。


少年は周囲を見る。


誰も見ていないと思ったらしい。


しゃがみ込むと、大きな破片を急いで拾い、近くの木箱の後ろへ押し込んだ。


「何をしているんですか?」


少年の肩が跳ねた。


振り返り、セヴェランを見る。


「み、見てた?」


「はい」


「……黙ってて」


セヴェランは足元の細かな破片を見る。


「危ないですよ」


「あとで拾うから」


「今拾った方がいいです」


「そうじゃなくて!」


少年が声を抑えながら近づいてくる。


セヴェランより少し年下だった。


「これ、神父様が大事にしてるやつなんだよ。前に、割るなって言われたんだ」


「でも割れました」


「分かってるよ!」


怒られた理由が分からず、セヴェランは目を瞬く。


事実を確認しただけだった。


少年は唇を噛んだ。


「父さんにも怒られる。前にも皿を割ったから。だから、誰かが落としたことにすればいい」


「それは駄目です」


「一回だけ!」


「一回でも駄目です」


「セヴェランには関係ないだろ!」


少年の声が大きくなった。


目の端が赤くなっている。


それでもセヴェランには、なぜそこまで嫌がるのか理解できなかった。


器を割った。


隠そうとした。


なら、伝えて謝った方がいい。


「神父様に言います」


少年の顔がくしゃりと歪んだ。


「嫌いだ!」


叫ぶと、そのまま走っていった。


セヴェランは追わなかった。


追う理由が分からなかった。


ただ、中庭に残った細かな破片を見下ろす。


危ないので、まず拾わなければならない。


素手で触ろうとして、後ろから声が飛んだ。


「待ちなさい。指を切りますよ」


授業をしていた神父だった。


神父は箒とちり取りを持っている。


どうやら少年が走っていくところも見ていたらしい。


二人で破片を集める。


木箱の裏へ隠された大きな欠片も取り出した。


神父は怒っていなかった。


「何がありました?」


セヴェランは見たことをそのまま話した。


器が落ちたこと。


隠したこと。


黙ってほしいと言われたこと。


駄目だと答えたこと。


最後まで聞いた神父は、「そうですか」と頷いた。


「セヴェランは、間違ったことを言ってはいません」


「はい」


「ですが、あの子は泣きそうでしたね」


「はい」


「どうしてだと思います?」


「怒られるのが嫌だからです」


「それだけでしょうか」


セヴェランは黙った。


神父も答えを言わない。


箒の先が石畳を擦る音だけがした。


しばらく考えた。


「……怖かった?」


「たぶん」


「器を割ったから?」


「それもあるでしょう。前にも失敗したと言っていたなら、また失敗したと思われるのが怖かったのかもしれません。お父さんに呆れられると思ったのかもしれない。もちろん、だから隠していいわけではありません」


神父は最後の破片をちり取りへ入れた。


「けれど、怖がっている人に正しいことを言う時は、その怖さも一緒に見てあげなければ、言葉が届かないことがあります」


セヴェランは眉を寄せた。


「正しいことなのに?」


「正しいことだからこそ、です」


ますます難しくなった。


神父はそんな顔を見て少し笑う。


「今すぐ分からなくても大丈夫ですよ」


「でも、あの子は嘘をつこうとしました」


「ええ。だから、それはいけないと伝えます」


「なら、僕が言ったことと同じです」


「答えは同じです」


神父は頷いた。


「ただ、そこへ一緒に行けるかどうかが違います」


セヴェランは黙った。


分からない。


完全には。


今日の授業で聞いた話は、どれもすぐ分かった。


盗んだことと、人間そのものは違う。


理由を聞く。


責任を取る。


戻せるものは戻す。


けれど今、神父が言ったことは、頭の中へすぐ綺麗には収まらなかった。


それが少し悔しかった。


「神父様」


「はい」


「もう一度、説明してください」


神父は笑った。


今度はからかうような笑いではなかった。


「もちろん」


その後、逃げた少年は自分から戻ってきた。


目元はまだ赤かった。


神父は器のことを知っていると告げたが、怒鳴らなかった。


まず怪我がないか聞いた。


次に、なぜ隠したのか聞いた。


少年は俯いたまま、父親にまた失敗したと思われるのが嫌だったと話した。


神父は最後まで聞いた。


それから、壊したことよりも、破片を残したまま逃げれば誰かが怪我をしたかもしれないこと、隠して別の誰かのせいにすれば、その人が困ることを一つずつ話した。


少年は泣きながら謝った。


器は古く、もともと小さなひびが入っていたらしい。


弁償は求められなかった。


代わりに、午後の片付けを手伝うことになった。


「それだけ?」


少年が恐る恐る聞く。


神父は頷く。


「壊した器以上のものまで、あなたから取る必要はありません」


少年は何度も頷いた。


そして帰り際、セヴェランの前で止まった。


「……さっき、ごめん」


「僕は何もされていません」


少年が困った顔になる。


後ろにいた神父が咳払いをした。


セヴェランは少し考える。


「あ」


たぶん、これだ。


「僕も、ごめんなさい」


少年が顔を上げた。


「怖いのに、すぐ言うって言いました」


数秒の沈黙のあと、少年は袖で目を擦った。


「でも、隠そうとしたのは俺が悪かった」


「はい。それは悪かったと思います」


「そこは言うんだ……」


少年が泣きながら笑った。


セヴェランも、つられて少し笑った。


帰り道、母と手を繋いで歩きながら、その話をした。


父は仕事の用事で先に別れたため、二人きりだった。


母は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。


そのことに気づいた時、セヴェランは少しだけ歩調を緩めた。


「母さんも、最後まで聞くんですね」


「聞いてほしかった?」


「分かりません」


「じゃあ、聞いてよかった?」


今度は少し考える。


「はい」


母が笑う。


「なら、よかった」


「正しいことは、すぐ言わない方がいいんですか?」


「ううん」


母は首を振った。


「言わなきゃいけない時はあるわ。でもね、正しいことって、言えば必ず届くわけじゃないの」


「神父様も似たことを言っていました」


「あら。じゃあ、わたしも神父様になれるかしら」


「たぶん、それだけではなれません」


「知ってます」


母に手を少し強く握られた。


セヴェランはまた笑った。


通りの角に焼き菓子屋が見えた。


約束どおり蜂蜜の香りが漂ってくる。


その瞬間だけ、難しいことは頭から薄れた。


どれにしようか真剣に迷い、結局いつもの丸い焼き菓子を選んだ。


夕方。


家で食事を終えたあと、母が小さな祈りを捧げた。


セヴェランも目を閉じる。


朝に聞いた言葉が、また頭の中へ浮かんだ。


人は行いによって量られる。


罪と人を同じものとして扱わない。


必要な責任を果たす。


そして、戻る場所を残す。


そこまでは分かる。


けれど今日、もう一つ増えた。


正しい答えを知っていても、それだけでは足りないことがある。


相手が何を怖がっているのか。


なぜ隠そうとしたのか。


何を失うと思っているのか。


先に聞かなければ、同じ答えへ一緒に辿り着けないことがある。


目を開く。


母がまだ祈っていた。


「エルディス様。どうか明日も、私たちが正しくあれますように」


静かな声だった。


セヴェランは、その言葉を聞いた。


胸の奥に、朝と同じ感覚が戻ってくる。


懐かしいような。


ずっと知っていたものを、別の誰かの声で聞いているような。


けれど、その正体はまだ分からない。


セヴェランは母の祈りが終わるのを待ってから、自分も短く目を伏せた。


明日は、今日よりちゃんと聞こう。


それだけを決めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。