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守れない秘密

「今夜、人を殺します」


男は、天気の話でもするような声でそう言った。


セヴェランは向かいの椅子に座ったまま、すぐには何も返さなかった。


四十代半ばほどの男だった。懺悔室へ入ってきた時から妙に落ち着いている。怒鳴ることも、泣くこともない。背筋を伸ばし、両手を膝の上へ置いている。


ただ、その右手だけが時折強く握られていた。


「誰をですか」


セヴェランが尋ねる。


男は一度だけ目を閉じた。


「昔、息子が働いていた工房の責任者です」


そこから、男はゆっくり話し始めた。


三年前。


息子は金属加工の工房で働いていた。


まだ十九歳だった。


事故が起きたのは夕方だった。工房の一角で重い材料を持ち上げていた設備が壊れ、下にいた二人が巻き込まれた。一人は重傷で助かった。


息子は亡くなった。


「事故については調べられましたか」


「はい」


「原因は?」


男の口元が固くなる。


「整備不足でした」


古くなった設備に不具合が出ていることは、現場の何人かが以前から訴えていた。


責任者も知っていた可能性が高かった。


だが、完全な記録は残っていなかった。


修理を頼んだという証言もあれば、まだ使えると言われたという証言もある。責任者本人は、不具合について詳しい報告は受けていなかったと主張した。


結果として、工房側には管理上の責任が認められた。


補償も出た。


設備も更新された。


「その責任者本人は?」


「処分は受けました」


男の声に初めて感情が混じった。


「でも、俺が思っていたよりずっと軽かった」


セヴェランは続きを促さず待った。


「息子は帰ってこないのに、あの男は仕事を続けてる。別の工房へ移って、今じゃまた人を使う側です」


「それで、殺そうと思った?」


「最初からじゃありません」


男は首を横に振った。


事故から一年ほどは、悲しむことで精一杯だった。


妻もいた。


娘もいた。


家族で何とか生活を戻そうとした。


男自身も別の仕事を続けた。


ところが半年前、偶然その責任者を町で見かけた。


笑っていた。


知人らしい人間と食事をし、酒を飲み、帰り際には楽しそうに肩を叩き合っていた。


「それを見た時に」


男の拳が強くなる。


「何であいつが笑ってるんだって思ったんです」


セヴェランは黙って聞く。


「息子は十九で終わった。妻は今でも、あの子の誕生日になると料理を一人分多く作る。娘は兄貴の話をしなくなった。俺だって三年経っても、工房の音を聞くと事故の日を思い出す」


それなのに。


責任者は笑っている。


食べている。


働いている。


生きている。


「許せなかった?」


「はい」


その気持ち自体を、セヴェランは否定しなかった。


誰かを許せないことと、その感情から何を選ぶかは別だ。


男もまだ、最初は何もしなかった。


ただ、相手のことを調べるようになった。


どこで働いているのか。


いつ仕事を終えるのか。


どの道を使って帰るのか。


そこまで聞いたところで、セヴェランの意識が鋭くなる。


これはもう、過去の怒りについての懺悔だけではない。


「今夜、と言いましたね」


「はい」


「もう準備している?」


男はしばらく黙ったあと、頷いた。


「刃物を用意しました」


「持っていますか」


「ここにはありません」


「どこに?」


「外です」


セヴェランは男の顔を見る。


「相手が今夜どこを通るかも知っている?」


「知っています」


「何時頃かも?」


「はい」


男はそこで初めて、セヴェランから目を逸らした。


「だから来たんです」


その言葉に、セヴェランは少し引っ掛かった。


「なぜ?」


男が答えない。


「殺すと決めているなら、なぜその前に懺悔室へ来たんですか」


長い沈黙があった。


外から、遠くを歩く人の足音が聞こえる。


「分かりません」


「考えてください」


男の口が歪む。


「神様に許してもらいたかったのかもしれない」


「殺す前に?」


「……おかしいですか」


「おかしいかどうかではなく、知りたいんです」


セヴェランは視線を逸らさない。


「許されたら、安心して殺せますか」


男が息を呑んだ。


「違う」


すぐに否定した。


「じゃあ、何のために?」


男は何度か口を開き、閉じた。


ようやく出た声は、それまでよりずっと弱かった。


「止めてほしかったのかもしれません」


セヴェランは黙った。


男自身も、自分の言葉に驚いたような顔をしている。


「俺」


額へ手を当てる。


「三年間、あいつが死ねばいいと思ってた。本当に思ってたんです。最近は、それしか考えられなくなった」


「はい」


「でも昨日、娘に」


声が詰まった。


「明日の朝、パン買ってきてって頼まれて」


セヴェランは待つ。


「普通に頼まれたんです。いつもの店のやつ。あの子、何も知らないから」


男は顔を覆った。


「俺、今夜あいつを殺したら、明日の朝どうなるんだろうって」


殺したあと。


帰れるのか。


捕まるのか。


家族へ何と言うのか。


娘は。


妻は。


そして男は、懺悔室へ来た。


「それでも今は、殺したい?」


男の手が顔から離れる。


「はい」


答えは苦しそうだった。


「殺したいです」


「今夜、ここを出たら?」


男が目を閉じる。


「たぶん、行きます」


そこまで聞けば十分だった。


いや。


聞くべきことは、もう一つある。


「相手に、今夜危険があることを知らせなければ」


男の目が開く。


「何です?」


「私は、知らせます」


空気が変わった。


男の表情から、迷いより先に警戒が出る。


「ここで話したことは、秘密じゃないんですか」


「原則として守ります」


「原則?」


「過去にしたこと。後悔していること。人に言えない感情。そうしたものを話したからといって、懺悔室からそのまま外へ渡すことはしません」


「なら」


「でも、今夜誰かを殺すために準備をしていて、その相手と時間まで決めている。その人は、まだ生きています」


男の顔が強張った。


セヴェランは声を荒らげない。


「秘密を守ることで、その人が殺される可能性が高くなるなら、私は黙りません」


「そんなの」


男が立ち上がった。


椅子が床を擦る。


「そんなの、裏切りじゃないですか」


セヴェランも立つ。


だが、男へ近づきすぎない。


「座ってください」


「嫌だ」


「では、そのままでも構いません。ただ、今は帰せません」


男の目に怒りが宿る。


「俺を閉じ込めるのか」


「あなたが今夜、人を殺す可能性があると自分で話した以上、安全が確認できるまで自由に帰すことはできません」


「懺悔しに来たんだぞ!」


初めて、男が怒鳴った。


扉の向こうで誰かが気づいた気配がする。


セヴェランは男を見る。


「だから聞きました」


「聞いて、外へ売るのか」


「違います」


「何が違う!」


「あなたが何を思ったかを、罰するために外へ出すのではありません」


セヴェランの声は変わらない。


「人を殺したいと思ったことだけなら、ここで聞きます。責任者を憎んでいることも、死ねばいいと思ったことも、それだけで外へ渡すつもりはありません」


男の呼吸が荒い。


「でもあなたは、今夜実行すると言った」


そこで線を引く。


「その先には、あなた以外の人の命があります」


男は何も言えなかった。


セヴェランは扉へ向かって声を掛けた。


「先生。少しお願いします」


すぐに老神父が入ってくる。


男が一歩後ろへ下がった。


老神父は室内を見て、状況が普通ではないことを察したが、余計な質問はしなかった。


「どうしました」


「現在、命の危険がある方がいます。警護を頼みたいです」


老神父の表情が変わる。


「分かりました。必要な情報は?」


セヴェランは男を見る。


ここでも、全部を話す必要はない。


必要な範囲だけ。


「今夜、工房から帰宅する男性です。本人の名前と勤務先、それから帰路の確認が必要です」


男が震える声で言った。


「言うな」


セヴェランは一瞬だけ目を閉じた。


嫌だった。


この人が自分を信じて話したことを、外へ出したくない。


懺悔室で話された言葉を守る意味も理解している。


秘密が守られない場所なら、人は本当に危険になるまで何も話さなくなるかもしれない。


それでも。


今、黙れば。


名前も知らない一人の人間が、何も知らないまま今夜道を歩く。


その命を、懺悔の秘密より軽く扱うことはできない。


「すみません」


セヴェランは男へ言った。


そして、必要な情報を老神父へ伝えた。


名前。


工房。


帰宅する時間帯。


男が使うと話した道。


老神父はそれだけを確認すると、すぐに部屋を出た。


「警護と確認を頼みます。事情は必要な者だけへ」


「分かりました」


扉が閉じる。


男は立ったまま、セヴェランを睨んでいた。


「謝るくらいなら、言うなよ」


「言わなければ誰かが死ぬかもしれません」


「死ねばいいんだ!」


男が机を叩いた。


「息子は死んだ!」


その声は懺悔室の壁へ強く響いた。


「何であいつだけ守られるんだ!」


セヴェランは返事を急がなかった。


「あなたの息子さんが亡くなったことは、変えられません」


「分かってる!」


「相手へ必要な責任があったなら、それも量られるべきです」


「足りなかった!」


「そう思っていることも聞きました」


男の目に涙が浮かぶ。


「じゃあ何で止める」


声が崩れた。


「俺が代わりにやるだけだろ」


「あなたが決めた罰を、自分で与えるからです」


男が歯を食いしばる。


「法が足りなかったら、黙ってろっていうのか」


「いいえ」


セヴェランは首を横に振った。


「処分が不十分だったと思うなら、そのことを言っていい。再調査を求めてもいい。制度を批判してもいい。責任者を一生許せなくてもいい」


「でも殺すな?」


「はい」


男が乾いた笑いを漏らした。


「簡単に言うな」


「簡単ではありません」


「お前に息子はいないだろ」


「いません」


「分からないだろ!」


「同じ苦しみは分かりません」


セヴェランは否定しなかった。


「でも、分からないからあなたが人を殺すのを見過ごす、とは言えません」


男が目を逸らす。


「俺が殺したら、俺も罰せばいい」


「あなたの妻と娘は?」


その瞬間。


男の顔が止まった。


セヴェランは責めるために言ったのではない。


「あなたは昨夜、娘さんから明日の朝のパンを頼まれた」


男の唇が震える。


「はい」


「その話をしたのは、あなた自身です」


「黙れ」


「あなたは、今夜のあとに何が残るかを考えたから、ここへ来たのではありませんか」


「黙れ!」


怒鳴った声の最後が泣き声に変わった。


男は椅子へ座り込んだ。


両手で頭を抱える。


セヴェランは向かいへ座り直した。


今度は何も言わない。


しばらく、男の荒い呼吸だけが続いた。


「俺」


長い時間のあと、男が呟く。


「止めてほしかったって言いましたよね」


「はい」


「本当にそうだったのかな」


「それは、あなたにしか分かりません」


「神父なら分かれよ」


「分かりません」


男が顔を上げる。


涙で濡れている。


セヴェランは続けた。


「ただ、あなたはここへ来た。それから、自分で準備していることまで話した。それは事実です」


「……はい」


「だから私は、その事実からできることをします」


「俺が嫌がっても?」


「今は」


男の目を見る。


「はい」


それからしばらく、二人は話さなかった。


扉が開いたのは、かなり時間が経ってからだった。


老神父が戻ってくる。


「確認できました」


セヴェランが立つ。


「相手は?」


「無事です。今夜は一人で帰らないよう伝え、必要な警護も付きました」


胸の奥にあった緊張が、少しだけ下がる。


「ありがとうございます」


「それから、外に置いてあるという物も、場所を確認できれば回収します」


セヴェランは男を見る。


男は目を閉じた。


「……場所、言います」


老神父は余計な反応を見せなかった。


男が場所を伝える。


それだけを確認すると、再び人が動いた。


セヴェランはこの場で処分を決めない。


男を拘束するか。


どこまで責任を問うか。


実際にどの段階まで準備していたのか。


それは必要な者が事実を確認して判断することだ。


自分の役目は、今夜誰かが死ぬのを防ぐことだった。


男が静かに言った。


「俺、これからどうなるんですか」


「分かりません」


「捕まる?」


「準備していた内容を確認した上で判断されると思います」


「神父様が決めるんじゃない?」


「決めません」


男は皮肉な笑みを浮かべる。


「人の秘密は勝手に話すくせに」


その言葉は痛かった。


セヴェランは痛くないふりをしなかった。


「そう思われても仕方ありません」


「じゃあ謝れよ」


「必要なら謝ります」


「必要なら?」


「あなたが傷ついたことについては、謝ります。でも、命の危険を知らせたこと自体を間違いだったとは言いません」


男が顔を背ける。


「最悪だな」


「そう思うでしょうね」


老神父が横からセヴェランを見る。


何か口を挟むこともできたはずだ。


それでも何も言わなかった。


セヴェラン自身が答えるべき場面だと判断しているらしい。


しばらくして、必要な確認を終えた職員が二人やってきた。


男は抵抗しなかった。


立ち上がり、扉へ向かう。


出る直前。


振り返った。


「俺、ここに来なきゃよかった」


セヴェランはその言葉を受け止めた。


「そう思うかもしれません」


「もう二度と来ない」


「それも、あなたが決めることです」


男の顔に怒りが戻る。


「最後までそういう言い方かよ」


セヴェランは何も答えなかった。


男は扉の外へ出た。


足音が遠ざかる。


懺悔室に静けさが戻った。


セヴェランは椅子へ座る。


老神父も向かいへ座った。


「大丈夫ですか」


「少し、嫌な気分です」


「そうでしょうね」


「先生なら、どうしました?」


老神父は少し考えた。


「同じように止めたと思います」


「秘密を外へ出して?」


「はい」


「それで、懺悔へ来る人が減っても?」


老神父はすぐには答えなかった。


「そこが難しいところです」


セヴェランは頷く。


懺悔の秘密を軽く扱えば、人は本音を話さなくなる。


誰かを憎んだ。


死ねばいいと思った。


昔罪を犯した。


そんなことまで外へ出ると思えば、誰も来なくなる。


今日の男も。


もっと早い段階で来ていれば、まだ計画すらしていない怒りを話すだけで済んだかもしれない。


だから秘密は守る。


だが。


「守るために、人を死なせる秘密もある」


セヴェランが言う。


老神父が頷く。


「あります」


「その境目は、簡単ではないですね」


「簡単なら、私たちがここで人の話を聞く必要もありませんよ」


少しだけ笑った。


セヴェランも笑う。


疲れていた。


その日の残りの懺悔は、別の神父に代わってもらった。


家へ帰ると、母が台所で野菜を切っていた。


「おかえり。遅かったわね」


「少しありました」


「食べる?」


「はい」


父も戻ってくる。


三人で食事をする。


今日の出来事は話さない。


懺悔の秘密を破った部分があるからといって、必要以上のことまで家族へ話していいわけではない。


食事のあと、自室へ戻り、自省録を開く。


長く迷ってから書いた。


『懺悔の秘密は、人が話すために必要である。』


次に、


『だから軽く破らない。』


そこまでは簡単だった。


問題はその先だ。


セヴェランは筆を持ったまま、男の顔を思い出す。


裏切りだ。


最悪だ。


もう来ない。


どの言葉も残っている。


それでも書いた。


『ただし、秘密を守ることで、まだ救える命を危険へ残すことはしない。』


さらに一行。


『秘密を守ること自体を目的にしない。守るべき人間を見る。』


筆を置く。


正しかったと思う。


それでも、気分は晴れなかった。


なら。


それでいい。


正しい選択をした時に、必ず気持ちよく終われるわけではない。


誰かを守るために、別の誰かから恨まれることもある。


それでも。


今夜、一人は生きている。


そして、殺そうとしていた男もまだ人を殺していない。


セヴェランは帳面を閉じた。


その二つだけは、守れた。


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