裏切りと呼ばれても
「あなたに会いたいと言っています」
老神父からそう告げられたのは、あの夜から四日後だった。
セヴェランは手元の書類から顔を上げた。
「僕に?」
「ええ」
誰のことか、聞く必要はなかった。
工房の元責任者を殺す準備をし、実行するつもりだと懺悔室で話した男。
セヴェランが外へ情報を伝えたことで計画は止まり、相手には警護が付き、用意されていた刃物も回収された。
男はそのまま必要な確認を受け、現在は自由を制限された状態にある。
まだ最終的な処分は決まっていない。
「何を話したいと言っていますか」
「そこまでは。ただ、かなり怒っているようです」
「そうでしょうね」
セヴェランは書類を閉じた。
老神父が少し意外そうな顔をする。
「会うんですか?」
「本人が望んでいて、問題がないなら」
「断っても構いませんよ」
「なぜ断るんです?」
「君を責めるために呼んでいる可能性が高いからです」
「それは、会わない理由になりますか」
老神父は数秒黙り、やがて苦笑した。
「君ならそう言うと思いました」
面会はその日の午後に決まった。
場所は懺悔室ではない。
律衡院の管理区画にある小さな面談室だった。机が一つ、椅子が二つ。扉の外には職員がいる。
セヴェランが先に入って待っていると、男が連れられてきた。
数日前より疲れて見えた。
髭は伸び、目の下に薄い隈がある。
男はセヴェランを見るなり、椅子へ座ることもなく言った。
「よく来られたな」
セヴェランは男を見る。
「あなたが会いたいと言ったと聞きました」
「断ると思った」
「なぜです?」
「俺を裏切ったからだよ」
言葉は鋭かった。
セヴェランはすぐには答えなかった。
男が椅子を引き、乱暴に座る。
「何か言えよ」
「何を言ってほしいですか」
「謝れ」
セヴェランは少し考えた。
「あなたが、懺悔室で話したことを守ってもらえると思っていた。その期待を裏切られたと感じていることについては、すみませんでした」
男の眉が吊り上がる。
「そこだけか」
「はい」
「俺の話を外に漏らしたことは?」
「間違いだったとは思っていません」
男が机を叩いた。
「それだよ!」
扉の外で職員が動く気配がしたが、入ってはこなかった。
「お前、前もそうだった。謝る顔をして、結局は自分が正しいって言う」
「自分が正しいから、あなたが怒るべきではないとは言っていません」
「同じだろ!」
「違います」
セヴェランは声を強めなかった。
「あなたが僕を裏切り者だと思うことと、僕があの時知らせる必要があったと考えていることは、同時に成立します」
男は睨んだまま黙る。
「便利だな、そうやって何でも分ければ」
「便利だから分けているわけではありません」
「じゃあ何だ」
「混ぜると、見えなくなるからです」
男の口元が歪んだ。
「俺が何を見失ってるって?」
「それを僕が決めるつもりはありません」
「またそれかよ」
男は背もたれへ身体を預け、天井を見る。
「俺、懺悔室なら大丈夫だと思ってたんだ」
今度の声には、怒りとは少し違うものが混じっていた。
「何を話しても?」
「そうだよ」
「過去にしたことも?」
「当然だろ」
「これからすることも?」
男がセヴェランを見る。
「違うのか」
「違います」
「そんな説明、入る時にされたか?」
セヴェランの返事が止まった。
男はその一瞬を見逃さなかった。
「ほらな」
「……はい」
「何がはいだ」
「入る前には、説明されていません」
少なくとも、あの日。
男へ事前に説明はしていない。
懺悔は原則として守られる。
律衡院の中では、それが当たり前の前提として扱われている。
だが、「これから人を殺す」といった差し迫った危険まで同じように守られるわけではない。
その境界を、懺悔へ来る人すべてが知っているとは限らない。
「じゃあ俺は」
男が身を乗り出す。
「秘密だと思って話したのに、後からお前が勝手に『これは例外です』って決めたんだろ」
セヴェランは否定できなかった。
「結果としては、そうです」
男が乾いた笑いを漏らす。
「何が神父だ」
その言葉には、以前エルディスを罵られた時のような個人的な近さはなかった。
今、侮辱されているのは自分だ。
それも、理由があって。
「それでも」
セヴェランは言った。
「知らせないという選択はしません」
男の笑みが消える。
「まだ言うか」
「はい」
「俺が本当に殺したかなんて分からないだろ」
そこは重要だった。
セヴェランは男を見る。
「分かりません」
「だったら!」
「実行しなかった可能性はあります」
男が止まる。
「最後の瞬間に怖くなって帰ったかもしれない。娘さんのことを思い出して、刃物を捨てたかもしれない。相手を見ても何もできなかったかもしれない」
「そうだよ」
男は机へ身を乗り出した。
「だったら、なんで」
「その可能性に、相手の命を賭けることはできません」
男の顔が固まった。
セヴェランは続ける。
「あなたは相手を調べていた。仕事を終える時間も、帰る道も知っていた。刃物を用意し、外へ置いていた。そして、ここを出たらたぶん行くと自分で話した」
一つずつ。
あの夜、聞いた事実だけを置く。
「その状態で、あなたが最後には思いとどまるかもしれないから黙る、とは判断できません」
「俺より、あいつの方を信じたんだな」
「信じたかどうかではありません」
「じゃあ何だよ」
「命がまだ失われていなかったからです」
男の目が揺れる。
「息子の命は失われた」
「はい」
「それはもう守れない。だから、あいつの命だけ守った」
「はい」
短い答えだった。
男の顔が歪む。
「よくそんなこと言えるな」
「息子さんを戻せないからです」
「分かってる!」
「だから、もう一人死なせても戻りません」
男が勢いよく立ち上がった。
椅子が倒れかけ、扉が開く。
職員が入ろうとする。
セヴェランはそちらを見て言った。
「大丈夫です」
男も職員を見る。
拳は握られているが、セヴェランへ向かってくる様子はない。
職員は扉を完全には閉めず、一歩外へ下がった。
男はしばらく立っていたが、やがて自分で椅子を直して座った。
「……息子の話をするな」
「分かりました」
「お前に分かったみたいに言われると腹が立つ」
「同じ気持ちは分かりません」
「そう言っとけ」
男は顔を背けた。
しばらく沈黙が続いた。
セヴェランは急いで話を進めなかった。
今日この男が自分へ会いたかった理由は、説得されることではないだろう。
怒りをぶつけたい。
裏切られたと伝えたい。
なら、まずそこを聞く。
「妻に話しました」
男が唐突に言った。
セヴェランは顔を上げる。
「何を?」
「全部」
殺すつもりだったこと。
刃物を用意したこと。
懺悔室で話し、止められたこと。
妻は最初、何も言わなかったという。
そのあと。
男の頬を一度、平手で叩いた。
「痛かったですか」
「そこ聞くのかよ」
「少し気になりました」
男は呆れたような顔をし、それから鼻で笑った。
「痛かったよ」
「そうですか」
「そのあと、妻が泣いた」
男の視線が机へ落ちる。
『息子を一人失ったのに、あなたまで自分からいなくなるつもりだったの』
そう言われた。
娘には、まだ詳しく話していない。
ただ、しばらく父親が家へ帰れないことは伝わっている。
「娘から、これ」
男が上着の内側から折り畳まれた紙を出した。
職員に確認されたものらしい。
机へ置く。
セヴェランは手を伸ばさなかった。
「読んでいいんですか」
「読む?」
「あなたが見せたいなら」
男は紙を見た。
「……やっぱいい」
「分かりました」
再び上着へしまう。
「パンの絵が描いてある」
男が自分から言った。
セヴェランは少しだけ口元を緩めた。
「そうですか」
「字も書いてある。帰ったら一緒に買いに行けって」
男の声が掠れる。
「俺、馬鹿だな」
セヴェランはその言葉にすぐ同意しなかった。
「自分でそう思いますか」
「思うよ」
「なら、そのことは僕が言う必要はありませんね」
男が睨む。
「ほんと腹立つな、お前」
「すみません」
「そこは謝るのか」
「今の言い方は少し」
男が、ほんの一瞬だけ笑った。
すぐに消えた。
「だからって」
男は続ける。
「お前に感謝する気はないからな」
「必要ありません」
「命の恩人みたいな顔するな」
「していません」
「してる」
「していないと思います」
「そういう顔なんだよ」
セヴェランには自分の顔が見えないので、反論はやめた。
男はまた背もたれへ寄りかかる。
「俺がやらなくてよかったとは思う」
静かな声だった。
「はい」
「今はな」
「はい」
「でも、お前に裏切られたと思ってるのも変わらない」
セヴェランは頷いた。
「分かりました」
「矛盾してるか?」
「いいえ」
男が少し意外そうに見る。
「あなたが人を殺さずに済んでよかったと思うことと、僕へ怒っていることは別でしょう」
「また分けるのか」
「はい」
「便利だな」
今度は少しだけ皮肉が弱かった。
「僕も」
セヴェランは言った。
「あなたを止めたことは間違っていないと思っています」
男の顔にまた不快そうな色が出る。
「ですが、あなたが懺悔室へ入る前に、秘密がどこまで守られるのか知らなかったことは別の問題です」
男が黙る。
「そこは改善するべきだと思います」
「何を?」
「懺悔の内容は原則として守られること。ただし、今まさに誰かの命や安全が危険に晒されている場合、その被害を止めるため必要な範囲で外へ伝えることがある。それを、話す前に分かるようにする必要があります」
男はしばらくセヴェランを見ていた。
「それやったら、誰も本当のこと言わなくなるんじゃないか」
「その可能性はあります」
「俺だって、最初から知ってたら刃物のことまで言わなかったかもしれない」
「そうかもしれません」
「じゃあ駄目じゃねえか」
セヴェランは少し考える。
「それでも、秘密が絶対だと誤解させたまま話してもらう方がいいとは思いません」
「止めるためには、騙してでも喋らせた方がいいんじゃないのか」
問われて。
セヴェランはすぐに答えなかった。
確かに。
知らなかったからこそ、男は詳しく話した。
その結果、人が一人守られた。
では。
最初から例外を説明しない方が、多くの命を救えるのか。
一瞬だけ考える。
それでも答えは違った。
「僕は、そうしたくありません」
「何で」
「人を守るためなら、懺悔へ来た人を騙してもいい、という場所にしたくないからです」
男の目が少し細くなる。
「甘くないか」
「分かりません」
「分からない?」
「はい。説明したことで、話さず帰る人もいるかもしれません。その結果、危険を見つけられないこともある」
そこは認める。
「でも、自分が何を話せばどこまで守られるかを知った上で、それでも助けを求められる場所にする方がいいと思います」
男は何も言わない。
セヴェランは続けなかった。
これ以上は、この人を説得する話ではない。
やがて男が小さく息を吐く。
「次から最初に言え」
「はい」
「俺には遅いけどな」
「そうですね」
「そこ否定しろよ」
「遅いのは事実なので」
男がまた、ほんの少し笑った。
今度は先ほどより長かった。
「お前、神父向いてないんじゃないか」
「考えておきます」
「そこは向いてるって言え」
「自分で決めることではないかと」
「面倒くせえな」
その言葉には、もう最初ほどの棘がなかった。
面会時間が終わりに近づき、外の職員が扉を軽く叩いた。
男が立ち上がる。
セヴェランも立った。
「一つだけ」
男が言う。
「はい」
「もし俺が、またお前の懺悔室に行ったら」
少し言いづらそうにする。
「今度は最後まで秘密にするのか」
セヴェランは質問の意味を考えた。
「内容によります」
男の顔が露骨に嫌そうになる。
「やっぱ腹立つ」
「ただ」
セヴェランは続ける。
「誰かを憎んでいる。死ねばいいと思った。自分でも怖い考えがある。そういう話なら、聞きます」
「外へ言わない?」
「それだけなら」
「また殺したいって言ったら?」
「聞きます」
「刃物を用意したって言ったら?」
「止めます」
「……そうか」
男はゆっくり頷いた。
「線は変えないんだな」
「はい」
「俺に嫌われても?」
セヴェランは少しだけ考えてから答えた。
「嫌われないために、その線を動かすことはしません」
男の目が細くなる。
「でも、怒っている理由は聞きます」
男は数秒こちらを見た。
「ほんと面倒くせえ神父だな」
「すみません」
「謝るな」
今度ははっきり笑った。
それから扉へ向かう。
出る前に一度だけ振り返った。
「まだ許してないからな」
セヴェランは頷く。
「はい」
「たぶん、しばらく許さない」
「分かりました」
「それでもいいのか」
「あなたが決めることです」
男はまた嫌そうな顔をした。
「最後までそれかよ」
扉の向こうへ出ていく。
それで面会は終わった。
セヴェランはしばらく一人で部屋に残った。
男は感謝しなかった。
許しもしなかった。
それでよかった。
自分が誰かの命を守ったからといって、相手から好かれる権利が生まれるわけではない。
むしろ今日、別のことを教えられた。
判断が正しかったとしても。
その判断に至る仕組みまで、すべて正しいとは限らない。
夕方、老神父へ今日の話のうち、懺悔内容に触れない範囲だけを伝えた。
「秘密の範囲を、最初に説明した方がいいと思います」
老神父は腕を組んだ。
「難しいですね」
「はい」
「説明を聞いて、危険なことだけ隠す人が出るかもしれません」
「そう思います」
「それでも?」
「黙っておいた方がいいとは思いません」
老神父はしばらく考え込んだ。
「君が決めることではありませんよ」
「分かっています」
セヴェランはすぐ答えた。
「提案します。決めるのは、必要な人たちで」
老神父が笑う。
「そこは覚えているんですね」
「忘れると危ないので」
その日のうちに結論は出なかった。
当然だった。
懺悔の秘密は、律衡院にとって重要な仕組みだ。若い神父一人の判断で変えるものではない。
それでも、検討することになった。
家へ帰ると、父が玄関で靴を直していた。
「おかえり」
「ただいま。何をしているんです?」
「靴底が剥がれた」
「修理屋へ持っていけばいいのでは」
「これくらい自分でできる」
母が台所から声を飛ばす。
「さっきから余計ひどくしてるわよ!」
父が小声で言う。
「告げ口するなよ」
「聞こえています」
セヴェランは少し笑った。
父の靴を見てから、自室へ向かう。
帳面を開く。
今日は書くことが二つあった。
『人命を守るために知らせた判断は、変えない。』
その下へ。
『それでも、相手が裏切られたと感じたことまで間違いにはしない。』
さらに、
『判断が正しくても、その判断を支える仕組みに改善すべき点はあり得る。』
筆を止める。
最後に一文だけ足した。
『慈悲は、危険を知りながら見逃すことではない。』
少し考えた。
もう一つ。
『境界を引くなら、相手にもその境界が見えるようにする。』
今度はしっくりきた。
帳面を閉じる。
今日も、男は自分を許さなかった。
それでいい。
セヴェランが必要としているのは、赦されることではない。
次に同じ場所へ立った時。
誰を守るべきかを見失わず。
同時に。
守るという名目で、目の前の人まで道具にしないことだった。




