笑ってもいいですか
「次の方、お願いします」
そう声を掛けてから、セヴェランは机の上の記録を端へ寄せた。
懺悔室で聞いた内容そのものは記録しない。ただ、今日何人を受けたか、時間に大きなずれがなかったかといった簡単な確認だけは残している。
午前から四人。
昼を挟んで、これが三人目だった。
扉が二度叩かれる。
「どうぞ」
開いた扉の向こうに立っていた人を見て、セヴェランの手が止まった。
母だった。
外出用の落ち着いた色の服を着て、小さな鞄を両手で持っている。
母も一瞬だけ足を止めた。
「……あなたなのね」
「今日は僕の担当です」
「そう」
少し困ったように笑う。
家では毎朝顔を合わせている。処分を終えて戻ってからも、三人で食事をし、父の再就職先について話し、母が近所の店の手伝いを始める相談にも乗った。
それでも。
ここで向かい合うと、少し違った。
「別の神父へ代わりますか?」
セヴェランが尋ねる。
家族へ話しづらいこともあるだろう。
母は少し考えた。
「代われるの?」
「もちろんです」
「あなた、聞きたい?」
「僕が聞きたいかどうかで決めることではありません」
母が小さく笑った。
「そう言うと思った」
それから、空いている椅子を見る。
「じゃあ、このままでいい」
「分かりました」
母が入る。
扉を閉め、向かいの椅子へ座った。
いつも食卓を挟んで見る顔なのに、今日は少し緊張している。
セヴェランはすぐには話しかけなかった。
母も、自分で話し始めるまで少し時間が掛かった。
「こういうの、変ね」
「何がです?」
「自分の息子に懺悔するなんて」
「僕も少し不思議です」
「やっぱり?」
「はい」
母がまた笑う。
その笑顔はすぐに消えた。
「でも今日は」
鞄の持ち手を指で撫でる。
「あなたの母親として来たんじゃないの」
セヴェランは頷いた。
「一人の信徒として?」
「そう」
「分かりました」
それなら。
ここでは、一人の信徒として聞く。
母だから答えを甘くすることも、厳しくすることもしない。
もっとも。
今の自分に、それを改めて言い聞かせる必要はあまりなかった。
「何を話したいですか」
母はしばらく俯いていた。
「この前ね」
「はい」
「お店で笑ったの」
思っていた話と違い、セヴェランは少しだけ目を瞬いた。
母は処分が終わったあと、近所の仕立屋で簡単な手伝いを始めている。以前のように救済資金を扱う仕事ではない。布を運び、注文を書き留め、簡単な縫い仕事をする。
「店主さんが、変なこと言ったのよ。お客さんの寸法を書き間違えて、自分の腕より長い袖を作りそうになったとか」
「それは長いですね」
「でしょう?」
母の口元が少し緩む。
「みんなで笑ったの。私も、すごく笑って」
そこで表情が変わった。
「途中で、急に怖くなった」
「何がです?」
「こんなに笑っていいのかなって」
セヴェランは黙って続きを待った。
「私、あの時」
母は自分の手を見る。
「妹を助けたいと思った。その気持ちは、今も悪かったと思ってない」
「はい」
「でも、救済所のお金を勝手に使った。手紙も隠した。あなたにまで黙っていてって頼んだ」
「はい」
「処分も受けた」
声が少し小さくなる。
「お金も戻した」
「はい」
「それで終わったって言われた」
母が顔を上げる。
「なのに、笑ってたら」
目に涙が浮かぶ。
「私、本当に反省してるのかなって思ったの」
セヴェランはその言葉を考えた。
以前、同じようなことを話した男がいた。
人を傷つけ、責任を果たしたあとも、幸せになることを自分へ許せなかった。
笑えば忘れたことになる。
楽しく生きれば反省していないことになる。
母も、似た場所へ立っている。
ただ。
同じ話ではない。
目の前の人は、自分の母だ。
そして、母自身が犯したことをセヴェランはよく知っている。
「笑った時」
セヴェランは尋ねる。
「自分がしたことを忘れていましたか」
「その瞬間は」
母は少し迷った。
「考えてなかった」
「忘れた、ではなく?」
「……違うと思う」
「今は覚えていますね」
「もちろん」
「救済所のお金を動かしたことも?」
「はい」
「手紙を外したことも?」
「はい」
「僕へ黙っていてほしいと頼んだことも?」
母の表情が痛む。
それでも頷いた。
「覚えてる」
「では、笑ったことで何が消えましたか」
母は答えなかった。
「何も」
しばらくして、小さく言う。
「消えてない」
「はい」
母が涙を拭う。
「分かってるのよ。頭では」
「はい」
「でも、楽しいって思うと、罪悪感が出てくるの」
「それは、今も自分へ罰を与えているということですか」
母は考え込んだ。
「そうなのかもしれない」
「どんな罰です?」
問われて、母は少し戸惑った。
「笑わないこと?」
「ほかには?」
「贅沢しない」
「どの程度?」
「必要じゃないものを買わないとか」
「以前から、それほど贅沢する人ではありませんでしたよね」
母が少しだけ笑う。
「まあね」
「ほかには?」
母の指が止まる。
「人から褒められると、嫌になる」
「どうして?」
「そんな人じゃないって思うから」
「どんな人だと言われるんですか」
「優しいとか。よく気がつくとか」
セヴェランは少し考えた。
「母さんは、優しいと思います」
母が困った顔になる。
「ここでは母さんじゃないでしょう」
「失礼しました」
少しだけ咳払いする。
「あなたは、優しい人だと思います」
「同じじゃない」
「呼び方を直しただけです」
母が呆れたように笑った。
その笑顔も、今度は途中で止まりかける。
セヴェランはそこを見ていた。
「今も」
「え?」
「笑ったあと、すぐ止めようとしましたね」
母が黙る。
「……癖になってるのかしら」
「かもしれません」
「嫌ね」
「なぜです?」
「だって」
母は自分の膝を見る。
「笑うたびに、罰が終わってないみたい」
その言葉は正確だった。
外から科された処分は終わった。
だが母は、自分の中に別の処分を作っている。
期間は決まっていない。
何をすれば終わるのかも分からない。
「あなたは」
セヴェランは尋ねた。
「自分がしたことについて、責任を果たしたと思っていますか」
母はすぐには答えなかった。
「全部を戻せたとは思ってない」
「はい」
「信頼だって、元通りじゃない。前の仕事にも戻れない」
「はい」
「妹を助けるためだったって言っても、したことはしたことだと思う」
「はい」
「だから」
母は一度息を吸った。
「責任から逃げたつもりはない」
「僕も、そう思います」
母が目を上げる。
「処分を受けました。返せるものは返した。調査にも最後は協力した。終わったあとも、したことを無かったことにはしていない」
セヴェランは一つずつ確認する。
「これから同じことが起きたら?」
母の表情が少し変わった。
「一人では決めない」
返事は早かった。
「困っている人が家族でも?」
「家族でも」
「急いでいても?」
少し迷ってから頷く。
「それでも。誰かに相談する。正規の手続きを探す。それで間に合わないなら、自分のお金でできることをする。ほかの人にも頼む」
「公の資金を勝手に使う?」
「使わない」
迷いはなかった。
「記録を消す?」
母の顔が少し痛む。
「消さない」
「怖くても?」
「……怖くても」
セヴェランは頷いた。
母は、起きたことを忘れてはいない。
むしろ、覚えているから選び方が変わっている。
なら。
苦しみ続けることを、記憶の証明にする必要はない。
母が小さな声で言った。
「一つ、聞いてもいい?」
「もちろんです」
「あなたじゃなくて」
そこで止まる。
セヴェランは待った。
母は壁の聖印へ一度だけ視線を向けた。
「エルディス様は」
その名前を聞いても、もう以前のような曖昧な違和感はなかった。
自分の名を呼ばれたように聞こえる。
実際。
セヴェランにとっては、そうだった。
母は知らない。
自分の息子が、エルディスを信仰しているのではなく、自分自身をエルディスだと認識していることを。
だから今。
母は息子へ尋ねているつもりではない。
神父を通して。
神へ尋ねている。
「エルディス様は」
母はもう一度言った。
「私を、許してくださったでしょうか」
セヴェランは黙った。
許した。
その言葉は簡単に出せる。
自分がエルディスなのだから。
「はい」と言えば、それは少なくともセヴェラン自身にとっては、神本人からの答えになる。
けれど。
何をもって許すというのか。
起きたことを無かったことにするのではない。
罪が善へ変わるわけでもない。
処分が不要だったことにもならない。
「許しは」
セヴェランは静かに答えた。
「起きたことを無かったことにするものではありません」
母は黙って聞いている。
「あなたが救済資金を不正に動かすことへ関わったことも、手紙を隠したことも、家族へ沈黙を求めたことも消えません」
母の目に涙が溜まる。
それでも視線を逸らさない。
「はい」
「でも、あなたはそれを認めました。戻せるものを戻し、受けるべき処分を受けました」
「はい」
「今も、同じことを繰り返さないために何を変えるかを考えている」
「はい」
「では」
セヴェランは母の目を見る。
「その後まで、自分を罰し続ける必要はありません」
涙が頬を伝った。
「それは」
母の声が震える。
「エルディス様も、そう言ってくださると思う?」
昔なら。
その問いにわずかな距離を感じていた。
エルディスならどう考えるか。
想像しようという感覚がなかった。
今は、その理由を知っている。
「ええ」
セヴェランは答えた。
迷いはなかった。
「そう言います」
母が息を呑む。
セヴェランは自分の正体を明かさない。
必要がない。
母が必要としているのは、「あなたの息子が神だった」という新しい混乱ではない。
責任を果たしたあと、もう一度自分の人生を生きてよいのかという答えだ。
「笑ってもいいですか」
母が尋ねた。
今度の声は、とても小さかった。
「はい」
セヴェランは頷く。
「楽しいと思っても?」
「はい」
「おいしいものを食べても?」
「もちろんです」
「新しい服を買っても?」
「家計の範囲なら」
母が一瞬ぽかんとしたあと、笑った。
「そこは神父様らしくないわね」
「借金をしてまで服を買うことを勧める神父も問題だと思います」
「そうだけど」
母は涙を拭いながら笑う。
今度は、笑顔を途中で止めなかった。
「幸せになっても?」
最後の問いだった。
セヴェランは少しだけ考えた。
幸せは許可されるものなのだろうか。
誰かが「なってよい」と決めるものなのか。
以前なら、「僕の許可は必要ありません」と答えただろう。
それも間違いではない。
けれど今日は、母が許可を欲しがっているのではないことが分かった。
自分が責任から逃げていないと確認したうえで、それでもまだ残っている恐怖を、少し手放したいのだ。
「幸せになってください」
母の目から、また涙が落ちた。
「命令?」
「お願いです」
「神父様から?」
セヴェランは少し笑った。
「そういうことにしておきましょう」
母も笑った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
懺悔室の中は静かだった。
壁の聖印も。
机も。
椅子も。
何も特別な光を放たない。
奇跡は起きない。
それでも。
ここに来た一人の信徒は、神へ問い。
神は答えた。
誰も、そのことを知らない。
母自身さえ。
「もう一つだけ」
母が言う。
「はい」
「今日のこと、家では普通にしててくれる?」
セヴェランは少し考えた。
「懺悔の内容を、家で僕から話すことはありません」
「そうじゃなくて」
母は困った顔をする。
「帰ったら急に神父様みたいな顔で私を見ないでってこと」
「今も神父ですが」
「そういうところ」
「分かりました」
「本当に?」
「家では母さんと呼びます」
母が吹き出した。
「それでいいわ」
立ち上がる。
扉へ向かい、手を掛ける前に振り返った。
「セヴェラン」
今度は、神父へではなく。
息子を呼ぶ声だった。
「はい」
「ありがとう」
セヴェランも、その声には息子として答えた。
「どういたしまして」
母が出ていく。
扉が閉じる。
少しして、次の懺悔を待つ人の気配がした。
セヴェランは一度だけ壁の聖印を見る。
母は、エルディスに許されたのかと尋ねた。
そして。
自分が答えた。
そのことに特別な高揚はなかった。
神託を与えたという感覚もない。
ただ。
一人の人が、自分へ必要以上の罰を科していた。
だから、それはもう必要ないと伝えた。
それだけだった。
「次の方、お願いします」
扉の向こうへ声を掛ける。
次に入ってきたのは、見知らぬ老人だった。
母のあとだからといって、何かが変わるわけではない。
同じように椅子を勧める。
同じように、話し終えるまで聞く。
その日の仕事を終え、家へ戻ると、台所から笑い声が聞こえた。
父と母が何か話しているらしい。
「ただいま」
「おかえり」
母の返事が来る。
居間へ入ると、父が妙に得意そうな顔をしていた。
「聞け、セヴェラン」
「何です?」
「母さんが今日、仕立屋で――」
「それは言わなくていい!」
母が慌てて止める。
「何があったんですか」
「何もないの」
「布を裏表逆に縫ったらしい」
「あなた!」
父が笑う。
母も怒った顔を作りながら、結局笑っていた。
セヴェランはその顔を見る。
昼間と同じ。
今度は笑ったあとに止まらない。
「何笑ってるの?」
母が気づく。
「いえ」
セヴェランは椅子へ座った。
「楽しそうだと思っただけです」
母が少しだけ目を細める。
何も言わなかった。
それで十分だった。
その夜、自省録を開く。
今日の懺悔内容は書かない。
たとえ相手が母でも、それは同じだった。
自分についてだけ記す。
『責任を終えた者へ、苦しみを続けることまで求めない。』
一度読み返す。
その下へ続けた。
『悔いている証明を、不幸であり続けることに求めない。』
そして少し考え、
『赦しは、忘れることではない。生き直すことを妨げないこと。』
と書いた。
最後の一文だけ、少し迷った。
今の自分にとっての答えだ。
未来には変わるかもしれない。
なら、その時に直せばいい。
セヴェランは筆を置いた。
隣の部屋から、母の笑い声がまた聞こえた。
今度は父が何か失敗したらしい。
少しして、
「セヴェラン、聞いて!」
と呼ばれる。
「今行きます」
帳面を閉じる。
母が笑うことを、もう一度確かめに行く必要はなかった。
ただ。
家族の話に混ざりたかった。
だからセヴェランは立ち上がった。




