第7話:『とぎれる周波数』
深夜二時三十一分。
中野区の静まり返った住宅街に佇む、古い賃貸マンションの一室。
外部の生活音を遮断するために壁一面に張り巡らされた遮音シートが、暗闇の中で重苦しい圧迫感を放っていた。
部屋を照らすのは、デスクの上に置かれた二十四インチのパソコンモニターから照射される青白い液晶の光だけだ。
その冷ややかな光が、僕の血の気の引いた顔と、かろうじて息をしているだけの生気のない唇を不気味に浮かび上がらせていた。
卓上のオーディオインターフェースの緑色のインジケーターが、
まるで深海で死にかけている生き物の脈拍のように、規則正しくチカチカと明滅している。
だが、僕の思考は完全にフリーズしていた。
指先一つ動かすことすらできず、ただ開いたままの目で、液晶画面の右側に表示されたチャット欄の「最後の一文」を呆然と凝視していた。
『夜のくじら:サクさん……どうして……あなたが、そんなことを知っているんですか?』
『夜のくじら:どうして……今日、テラスであの人に言われたことの『裏側の理由』を……あなたが全部知ってるみたいに話すんですか……?』
白地に黒く打ち込まれたその無機質な文字列が、網膜の裏側に、そして脳の最も深い部分に、消えない焼印のように熱く突き刺さっていた。
部屋の中の空気から、すべての酸素が急速に失われていくかのように息ができない。
胸の奥が冷たく凍りつき、指先から血の気がサーッと引いていく。
手のひらからはダラダラと嫌な脂汗が吹き出し、デスクの下の膝がガタガタと情けなく震えていた。
危なかった。
一線を超えかけてしまった。
『午前二時の迷子たち』のパーソナリティ「サク」として、
顔も名前も隠して彼女の相談に乗るはずだった。
それなのに、数時間前に表参道のパーティ会場のテラスで、
現実の「樋口朔」として彼女に投げつけた身勝手な拒絶と冷酷な嘘の「言い訳」を、
ラジオのマイク越しに抑えきれない感情に任せて吐き出してしまったのだ。
チャット欄のスクロールが、重苦しく止まっていた。
深夜二時の静寂の中、これまで他愛もない雑談や日常の悩みを書き込んでいた一般のリスナーたちも、サクと『夜のくじら』の間に突如として発生した尋常ではない緊迫感と、触れれば切れるような異様な気配を察知し、息を呑んで画面を見守っているのが手に取るように伝わってきた。
《え……サクさん……?》
《夜のくじらさんの知り合いなの……?》
《なんか、急に空気にリアリティが出てきて怖いんだけど》
《サクさん、どうしたの? いつもの穏やかなサクさんらしくないよ》
画面をポツポツと流れるリスナーたちの困惑したコメント。
だが、それらの文字も今の僕の意識には一切届かなかった。
画面の向こうにいる小久保紬。
彼女は今、どんな顔をしてこの青白い画面を見つめているのだろう。
サクという顔も名前も知らないネットの配信者が差し出す言葉が、あまりにも自分の現実の傷口や、今夜表参道のテラスで樋口朔から言われた拒絶の「本当の意味」と合致しすぎていることに、恐怖に近い凄まじい困惑と違和感を覚えているはずだ。
「あ……」
声を出そうと口を開いたが、喉が固く縮こまり、カサカサとした掠れた吐息しか漏れなかった。
取り繕わなければならない。
「サク」としての安全で客観的な第三者の仮面を、死んでも死守しなければならないのだ。
もしここで彼女に「僕が樋口朔だ」と勘づかれれば、彼女は僕の卑怯で惨めな二重生活に心底から嫌悪感を抱き、藤代との未来どころか、人間そのものを信じられなくなってしまう。
僕はガタガタと震える手でマイクを引き寄せ、ボイスチェンジャーで低く変調された声に、必死で「冷静で親身なパーソナリティ」のニュアンスを混ぜ込もうと試みた。
「……夜のくじらさん」
自分でも吐き気がするほど、絞り出すような声だった。
「……申し訳ありません。僕の言葉が……少し、熱が入りすぎてしまったようです」
『夜のくじら:……え?』
「僕は……あなたがチャットに残してくれた文章から、あなたがどれほどその男性を深く愛していて、同時にどれほど傷ついているかを想像して……一般論として、男の身勝手なプライドや後悔の心理を推測してお話ししただけです。
……知っていたわけではありませんよ」
嘘だ。
またしても、画面越しについた、自分の保身と醜いプライドのための惨めな嘘。
「あなたを困惑させてしまって、すみませんでした。……今夜の配信は、ここまでにしましょう」
『夜のくじら:
待ってください! サクさん、私……私、なんだかわからなくなっちゃって……!
サクさんの言葉を聞いてると、まるで……まるで私の中に直接入ってきてるみたいで……!』
彼女の混乱しきった、悲鳴のようなチャットが連続して打ち込まれる。
彼女の頭の中では、「サクという配信者が自分の心を見抜きすぎている不気味さ」と、
「まさかあの冷酷で大人しい樋口朔がこんな深夜ラジオをやっているはずがないという現実的な否定」が激しく衝突し、完全なパニック状態に陥っているのだ。
僕は彼女がそれ以上の言葉を打ち込む前に、震える指でマウスを握り、カーソルを画面上の『配信終了』の赤いボタンへと滑らせた。
クリック。
『配信は終了しました』
無機質なシステムメッセージが画面に表示され、オーディオインターフェースの赤ランプが寂しく消灯した。
静寂。
耳が痛くなるほどの完全な暗闇と沈黙が、自室を支配した。
僕はマイクの前に突っ伏し、両手で固く顔を覆った。
呼吸が乱れ、心臓が肋骨を裏側から激しく叩きつける。
(危なかった……間一髪だった……)
彼女はまだ、僕がサクだとは確信していない。
ただ「不気味なほど自分に都合よく寄り添ってくる配信者」の存在に凄まじい違和感と困惑を覚え、頭を抱えているだけだ。
けれど、もう限界だった。
これ以上配信を続ければ、必ずボロが出る。
彼女をこれ以上振り回し、狂わせないためには、僕が完全にサクとしての活動を殺し、現実世界でも彼女の視界から静かに消え去るしかないのだ。
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翌朝。
八月中旬のギラついた太陽の光が、マンションのベランダのアルミサッシを通して、容赦なく室内に差し込んでいた。
一睡もできないまま朝を迎えた僕は、重い鉛のような身体を起こし、洗面所で冷水で顔を洗った。
鏡に映る自分の顔は、目の下に濃い紫色のクマが落ち、生気を完全に失っていた。
まるで、十五年前に放送部室で彼女の告白から逃げ出したあの頃の、惨めな少年の顔そのものだった。
出社し、自分のデスクに座っても、キーボードを叩く指先が重い。
画面上のCADソフトで革製品のミリ単位の寸法を微調整していても、頭の中を占めるのは昨夜の紬の悲痛なチャットと、表参道のテラスで彼女が見せた涙の顔だけだった。
「おい、朔。顔色クソ悪いぞ。昨日のレセプションで酒飲みすぎたか?」
隣のデスクから、缶コーヒーを手に持った一ノ瀬拓海が声をかけてきた。いつもの軽快な口調だ。
「……いや。少し、暑さで寝不足なだけだ」
「無理すんなよ。あ、そうそう。さっきKNOXの小久保さんからメールきてたぞ。
昨日のレセプションの御礼と、ノベルティの最終発注件数の確定データ。
……なんかさ、メールの文章がすごく素っ気なくてさ。体調でも崩してんのかな」
一ノ瀬の何気ない言葉に、心臓が跳ね上がった。
「……メール、なんて書いてあった?」
「いや、『昨日はご来場いただきありがとうございました。データの確認をお願いします』ってだけだけど。
いつもなら『一ノ瀬さん、樋口さんにもよろしくお伝えください!』みたいな一言が添えられてるのにさ。
まあ、来春の海外移住の準備とかで忙しいんだろうな」
「……そう、だな」
僕は自分のパソコンのメーラーを開き、KNOXからの受信トレイを確認した。
小久保紬からのメール。
一ノ瀬の言う通り、そこには必要最低限の事務連絡のテキストと、添付のPDFファイルしか記されていなかった。
彼女は、引き下がったのだ。
昨夜のテラスで僕から冷たく拒絶され、さらに深夜のラジオで謎の配信者サクから不可解な慰めを受け、自分の感情の持っていく場を失い、静かに心を閉ざしてしまったのだ。
これでいい。
これが、僕たちが取るべき「正しいビジネスマンと取引先」の冷めた距離感なのだから。
しかし、その日の午後三時。
僕のスマートフォンに、KNOXの社内固定電話からではなく、紬の個人携帯からの着信が入った。
画面に表示された『小久保 紬』の文字を見つめたまま、僕は数秒間、息を止めた。
出ないという選択肢もあった。だが、ここで逃げれば、かえって不自然な疑念を抱かせることになる。僕は意を決して通話ボタンをスライドし、スマートフォンのスピーカーを静かに耳に当てた。
「……お電話差し替えました。ステッド・デザインの樋口です」
努めて冷静で、固くビジネスライクなトーン。
電話の向こうから聞こえてきたのは、エアコンの低い送風音と、酷くかすれた彼女の静かな声だった。
『……樋口さん? 今、少しだけ……お時間大丈夫ですか?』
「ええ、社内にいますので大丈夫です。昨日のノベルティの発注データの件でしょうか?」
『……ううん。仕事の話じゃ、ないの』
紬の声は、かすかに震えていた。
電話の向こうで、彼女が必死に感情を押し殺し、
冷たい理性を保とうと抑圧しているのが痛いほど伝わってきた。
『昨日の夜……テラスで変なこと言っちゃって、ごめんなさい。
お酒が入っていたとはいえ、樋口さんに迷惑なこと言いました。……本当にごめんなさい』
「……いえ。気にしていません。小久保さんもお忙しくて、お疲れだったのでしょう」
『ううん……違うの。私ね……昨日の夜、レセプションが終わって家に帰った後……
いつも聴いてる深夜のラジオを聴いたの』
背中に、ダラダラと冷たい汗が吹き出した。
「……ラジオ、ですか」
『うん。……『午前二時の迷子たち』っていう、深夜の個人配信。
……樋口さん、そんなの知らないよね』
「……ええ。存じ上げません」
自分でも恐ろしいほど無感情な声が出た。
『そうだよね……。
私ね、その配信のサクさんっていうパーソナリティの人に、ずっと悩みを聞いてもらってたの。
樋口さんのことも……15年前のことも、全部隠して相談してたの』
電話の向こうで、紬が小さく息を呑む音が聞こえた。
『でもね……昨日の夜、そのサクさんが言ったの。
……樋口さんが昨日、テラスで私に言った酷い言葉の……
『裏側の理由』みたいなことを、まるで自分のことみたいに話してくれたの』
「……」
『私、パニックになっちゃって。……サクさんは『一般論として推測しただけだ』って言ったけど……
そんなの、あまりにも都合が良すぎるでしょ?
どうして……どうして私の傷つき方を、あの人が知ってるの……?』
紬の声は、今にも壊れてしまいそうなほど痛切だった。
彼女はサクが僕であると確信しているわけではない。
だが、「現実の樋口朔の冷たさ」と「配信者サクの不可解な理解深さ」という矛盾した二つの存在の間で、自分の精神が狂いそうになっているのだ。
「……小久保さん」
僕は受話器を強く握りしめ、自分の中のあらゆる感情を押し殺して告げた。
「その配信者の方のことは分かりませんが……
ネットの個人配信者など、リスナーの求める甘い言葉を巧みに選んで引きつけるのが仕事でしょう。
見知らぬ他人の適当な慰めに振り回されて、現実の生活やご自身の選択を乱されるのは、極めて危険だと思います」
自分自身を全否定する、最も冷酷で惨めな言葉。
『……樋口さんは、そう思うんだ』
「ええ。現実を見てください。
小久保さんには、あなたを本当に大切にしてくれている藤代さんという素晴らしいパートナーがいるはずです。
過去の曖昧な思い出や、ネットの正体不明の人物に惑わされるべきではありません」
沈黙。
オフィス内に響くキーボードの打鍵音と、電話の向こうの微かな呼吸音だけが交差する、長い、長い沈黙。
やがて、電話の向こうから、ぽつりと諦めを含んだ小さな溜息が漏れた。
『……そうだね。樋口さんの言う通りだね。私……本当にどうかしてる。疲れてるのかもしれない』
「……ゆっくり、休んでください」
『うん。……ありがとう、樋口さん。
……もう、変な迷いは捨てます。仕事の件、今後ともよろしくお願いします』
プツリと、無機質な通話終了音が響いた。
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スマートフォンをデスクの上に置くと、静寂が僕の周囲を包み込んだ。
窓の外には、変わらずギラついた八月の太陽が南青山の高層ビル群を照らし、酷暑の熱気が街を歪ませていた。
これで、よかったのだ。
彼女はサクの存在を「ネットの不気味な配信者による、奇妙な偶然の言葉」として自分の中で処理し、
僕が投げつけた冷たい現実のアドバイスに従って、藤代涼介との輝かしい未来を選ぶだろう。
彼女がサク=朔だと完全に確信することもなく、
ただ言いようのない不完全燃焼な違和感と困惑を胸の奥に抱えたまま……
来春、遠いシンガポールの空へと旅立っていく。
引き出しを開け、中に入っていたマイクと、配信用のメモ帳を静かに取り出す。
僕はそれをゴミ箱へ捨てるでもなく、ただ暗い引き出しの最奥へと押し込み、ゆっくりと鍵をかけた。
『午前二時の迷子たち』は、今夜で永遠に途絶える。
東京の夜空に流れていた僕たちの歪な周波数は、
二度と交わることのないまま、静かな夏の熱気の中に霧散していくのだった。




