第8話:『欠落のノイズ、遠ざかる残響』
八月も下旬を迎えようとしていたが、東京を覆う猛暑は一向に衰える気配を見せなかった。
南青山や新橋のビル街のアスファルトからは終日、ギラついた地熱が透明な陽炎となってゆらゆらと立ち上り、街全体が巨大な温室の中に閉じめられたかのような重苦しい息苦しさに包まれている。
夕方になっても気温は下がるどころか、湿気をたっぷり含んだねっとりとした熱気が通りを支配し、歩く者の気力と体力を容赦なく削ぎ落としていった。
杉並の住宅街に佇む、古い賃貸マンションの一室。
午後八時。カーテンを隙間なく閉め切った暗い部屋の中には、天井のエアコンが吐き出す低い機械音と、卓上の小さなアロマ加湿器から吹き出す白い水蒸気の音だけが静かに響いていた。
デスクの上に置かれた二十四インチのパソコンモニターは、
電源が落とされ、真っ黒なガラスの板となって僕の青ざめた顔を虚無的に映し出している。
あの日——電話で紬に冷酷な現実論を投げつけ、配信用マイクを引き出しの奥深くに封印したあの日以来、僕は一度も『午前二時の迷子たち』の配信をしていなかった。
椅子の背もたれに深く体を預け、静まり返った暗闇の中で自分の手のひらをただ見つめる。
ボイスチェンジャーを通した僕の低く穏やかな声も、マイクに吹き込んでいた優しい偽りの言葉も、すべてはこの暗闇の中に消え去った。
配信を完全に止めたことで、僕の毎日は驚くほど静かで、そして驚くほど途方もない虚無に包まれた。
昼間はステッド・デザインのオフィスで、黙々とCADソフトに向かい、革の縫い目や金属パーツの寸法をコンマ数ミリ単位で調整する。
隣のデスクの一ノ瀬から「お前、最近めっきり大人しくなったな。連日の猛暑で体調でも壊してんのか?」と軽口を叩かれても、「別に。集中してるだけだ」と短く返し、視線を頑なに画面から逸らさなかった。
KNOXとのコラボノベルティ『アッシュグレーの革ペンケース』の量産は、
僕たちが作成した行程表通りに淡々と、寸分の狂いもなく進行していた。
小久保紬との業務メールのやり取りも、
すべて「一ノ瀬拓海」をCCに入れた、一切のスキのない事務的なやり取りのみに限定された。
『ステッド・デザイン 樋口様
お世話になっております。KNOXの小久保です。
本日、工場より上がってまいりました量産前サンプルの最終検品を完了いたしました。
革の質感、アッシュグレーの染色、縫製ともに指定の基準を完璧にクリアしておりますので、予定通り本生産へ移行してください。
よろしくお願いいたします。』
短く、無機質で、一切の無駄を削ぎ落としたビジネスメール。
そこに書かれた整然とした文字の向こうに、かつて放課後の放送部室で僕の顔色を窺うように不器用につむじを見せていた少女の影も、深夜のラジオで涙を流しながらチャットを打ち込んでいた『夜のくじら』の気配も存在しなかった。
僕が望んだ通りの結果だった。
彼女は僕という「冷酷な過去」の現実をしっかりと受け止め、
同時にサクという「不可解で不気味な配信者」を自分の中で過ちとして切り捨て、
藤代涼介との輝かしい未来へ向かって迷いなく歩みを進めている。
これでいいのだ。
僕が十五年前に傷つけた彼女の人生を、これ以上僕の勝手な未練や罪悪感で汚さないために。
だが、午前二時になると、僕の身体は恐ろしいほど正確に反応した。
長年の習慣というのは呪いのように深層心理にこびりついており、
時計の短針と長針が深夜二時で重なる頃になると、僕はベッドの中でパッチリと目を覚まし、
天井の暗闇を見つめたまま金縛りに遭ったように動けなくなるのだ。
かつて、僕がこの暗い密室でマイクに向かって声を届けていた時間。
そして、彼女が『夜のくじら』として、一粒の涙を零しながらチャット欄に苦しみを打ち込んでいた時間。
今、彼女はこの時間に何をしているのだろう。
静かなベッドの上で、一切の迷いなく穏やかに眠れているのだろうか。
それとも、藤代と一緒にシンガポールへ渡った後の新しい生活の準備をしながら、未来への希望に胸を膨らませているのだろうか。
スマートフォンを手に取り、画面を点ける。
YouTubeのアプリを開き、非公開にした自分のチャンネルの管理ページを開く。
当然、新しい配信は行われていない。
だが、最後の配信の録画アーカイブのコメント欄や、
チャンネルのコミュニティ投稿には、残されたリスナーたちからの困惑と心配の声が日増しに溢れかえっていた。
《サクさん、どうしたの……?》
《急に配信が終わって、それから音沙汰がないからすごく心配です》
《体調壊されたのかな。仕事が忙しいだけならいいんだけど……無理しないで帰ってきてね》
《夜のくじらさんとのあの最後のやり取り、何だったんだろう……サクさん、どこに行っちゃったの?》
画面をスクロールする指が、ぴたりと止まる。
僕が己の傷を癒やすために作った小さな溜まり場。
深夜に眠れず、現実に居場所のない迷子たちのために立ち上げたはずの場所。
それすらも、僕は自分の保身と混乱によって、突然投げ捨てて破壊してしまったのだ。
僕はスマートフォンを伏せ、深く、重い息を暗闇に吐き出した。
自分が触れたものすべてを傷つけ、壊していく。
十五年前のあの日から、僕は一歩も成長していなかった。
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金曜日の夕方。
KNOX本社での最終進捗確認ミーティングを終えた僕は、一ノ瀬とともにビルの巨大なエントランスへと向かって歩いていた。
天井が高く抜けたガラス張りのロビーには、夕刻の斜陽が強く差し込み、磨き上げられた大理石の床を鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。
「よしっ! これでKNOXとのノベルティ案件、実質的な対面での打ち合わせは全部終了だな!」
一ノ瀬が両手を頭の後ろで組み、大きな欠伸を交えながら晴れやかな顔で言った。
「あとは10月の最終納品を待つだけだし、マジでスケジュール通りに行って良かったわ。
朔、お前がミリ単位で工場と喧嘩しながら調整してくれたおかげだな。
今夜は新橋で美味いもんでも食って帰るか?」
「……いや。今日は直帰して、溜まってる事務処理を終わらせる」
「相変わらず愛想ねえなあ。……あ、ほら。小久保さんだぞ」
一ノ瀬の視線の先。
エントランスの自動ドアに向かって歩いていた一人の女性が、足音に気づいたように足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
小久保紬だった。
ライトグレーの洗練されたパンツスーツに身を包み、高級感のある革の書類バッグを肩にかけている。
その佇まいは、数週間前に南青山のオフィスで出会った時よりもさらに洗練され、隙のない「KNOXのPRディレクター」そのものだった。
僕と一ノ瀬に気づいた彼女は、柔らかく、けれど一定の踏み込ませない境界線を感じさせる完璧な笑みを浮かべた。
「一ノ瀬さん、樋口さん。ミーティング、お疲れ様でした」
「お疲れ様です、小久保さん!
いや〜、おかげさまで完璧なスケジュールで進行できました。本当にありがとうございます!」
一ノ瀬が快活に頭を下げる。
僕もまた、視線を少し落としながら深く一礼した。
「小久保さん、大変お世話になりました。
最終納品まで、引き続き工場側と連携して厳重に品質管理を行います」
「ええ、よろしくお願いします。樋口さんたちが担当で、本当に心強かったです」
彼女の知性的な眼鏡の奥の瞳が、まっすぐに僕を捉えた。
そこには、あの日表参道のテラスで見せた激しい涙も、電話越しに見せた震える声の余韻も、何一つ残っていなかった。
澄み切った、けれど決して深入りを許さない、大人の取引先としての瞳。
彼女は、僕との間にある「壁」を完全に構築し終えたのだ。
「あ、そうだ小久保さん」
一ノ瀬が思い出したように声を弾ませた。
「来週からいよいよシンガポールへの事前視察でしたっけ?
藤代さんと一緒に行かれるんですよね」
ドクン、と胸の奥で嫌な跳ね方がした。
紬はほんの少しだけ驚いたように目を細めたが、すぐに優しくあたたかな笑みを浮かべた。
「ええ、来週の火曜日から一週間ほど。
向こうの住居の下見と、彼の新しいオフィスの見学を兼ねて行ってきます。
本格的な移住は来年の三月になりますけど……早めに準備をしておきたくて」
「へえ〜! いいですねシンガポール!
マリーナベイサンズとか行くんですか? お土産話、楽しみにしてますね!」
「ふふ、ありがとうございます。美味しいお菓子でも探して買ってきますね」
紬はそう言うと、静かに視線を僕へと滑らせた。
「……樋口さんも、お体に気をつけてくださいね。最近、少しおやせになったみたいだから」
そのささやかな配慮の言葉。
けれど、その言葉の裏側には「もうあなたに深く踏み込むことはない」という、静かで決定的な別れの意思が明確に込められていた。
「……ありがとうございます。小久保さんも、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
僕が深く頭を下げると、彼女は「では、失礼します」と短く告げ、ヒールの音をカツン、カツンと大理石に響かせながら、夕日の中へ向かって歩き出した。
ガラス張りの自動ドアが開き、彼女の背中が西日の強い光の中に溶けていく。
僕はその光景を、ただ固まったように見つめていた。
彼女は行ってしまう。
この街から、僕の記憶が残るこの東京から、二度と届かない遠い南国の国へ。
これでいい。
これが、僕たちが選んだ、あまりにも正しく、あまりにも悲しい結末なのだから。
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それから数日が過ぎた。
八月最後の火曜日。
紬が藤代と共にシンガポールへと旅立つ当日。
東京は朝から激しいゲリラ豪雨に見舞われ、灰色の雲が低く垂れ込めた空からは、叩きつけるような雨が路上を白く打っていた。
濡れたアスファルトから立ち上る湿気と匂いが、街全体を冷たく重苦しい空気で満たしている。
その日の夜、僕は仕事を終え、一人で新橋の雨で煙る路地裏をあてもなく歩いていた。
雨宿りのためにふらりと入った、路地裏の小さな古びた喫茶店。
店内には他の客の姿はなく、カウンターの奥で老店主が静かにカップを布巾で拭いているだけだった。
店内に流れる古いジャズのレコードの擦れたノイズ音が、外の激しい雨音と混じり合って心地よく耳を叩く。
僕は窓際の席に座り、冷めたブレンドコーヒーの厚手のカップを両手で包み込んだ。
今頃、彼女を乗せた飛行機は、羽田か成田の滑走路を飛び立ち、夜の分厚い雲海を抜けて南へと飛んでいるのだろうか。
彼女の隣には、完璧なパートナーである藤代涼介がいて、彼女の手を優しく握り締めているのだろうか。
「……ハッ」
自嘲的な笑いが、口から漏れた。
どこまで惨めで、勝手な男なのだろう、僕は。
自分から突き放し、自分から「忘れろ」と拒絶し、自分からラジオの配信を絶ったくせに、彼女が去っていく瞬間になると、こうして一人で胸を痛めているのだから。
ポケットの中で、スマートフォンが小さくブルッと震えた。
取り出してみると、それはYouTubeのアプリからの自動通知だった。
『あなたのアカウントに、新しい未読メッセージ(問い合わせ)が届いています』
配信者用の管理ページに届いたメッセージ。
僕は怪訝に思いながら、画面をタップしてメッセージ画面を開いた。
それは、匿名で送られた一通のダイレクトメッセージだった。
差出人の名前は記載されていない。
だが、そのメッセージの送信日時を見て、心臓の鼓動が止まった。
送信日時は——今日の午後二時十五分。
彼女が羽田空港の国際線搭乗ゲートをくぐる直前の時間。
メッセージの本文は、たった数行の、どこまでも静かで透き通ったテキストだった。
『サクさんへ。
もう、このメッセージを読んでいただくことはできないのかもしれません。
配信が途絶えてから、ずっと考えていました。
あなたが最後に私に言ってくれた言葉。
『その人はあなたを忘れたことなんてない。自分自身の不甲斐なさが怖くて、嘘をついたんだ』という言葉。
私はあの夜、パニックになってサクさんを責めてしまいました。
あまりにも、私の知っている『あの人』の言い訳に似すぎていたから。
サクさんがあの人なんじゃないかって、恐ろしい考えが頭をよぎったからです。
でも、空港に向かう途中で、気づきました。
そんなはず、ないですよね。
あの人は私を冷たく突き放し、『覚えてない』って言ったんですから。
サクさん。
私は今日、この街を離れます。
あなたが私にくれた優しい言葉の数々は、私の人生の宝物でした。
サクさんが誰であっても、私はあなたに救われました。
さようなら、サクさん。
どうか、あなたもあなたの探している迷子を見つけられますように。』
画面上のテキストが、一瞬で視界から激しく滲んで歪んだ。
手があばら骨の奥で暴れるように猛烈に震え、スマートフォンの画面を落としそうになった。
彼女は……紬は。
サクが僕であることに気づかないまま、けれどサクという存在に心からの感謝と別れを告げて、旅立っていったのだ。
「あ……」
喉から、嗚咽のような掠れた声が漏れた。
僕は知っていた。
彼女は気づかなかったのではない。
気づいてしまうことが、現実の樋口朔の冷たさと、サクの優しさの間に挟まれて自分を狂わせることを知っていたからこそ、あえて「そんなはずはない」と自分に言い聞かせ、綺麗な思い出として整理したのだ。
彼女の最後の優しさ。
彼女の最後の、僕に対する救い。
冷めたコーヒーの湯気の中、僕は静かにスマートフォンを握りしめ、雨の打つ窓の外の暗闇を見つめ続けたのだった。




