第6話:『メディアレセプション:歪む鏡』
八月中旬。
立秋を越えたというのに、東京の夜はいまだに熱気と湿気を孕んだ重苦しい空気に包まれていた。
表参道の交差点から一本奥に入った閑静な路地。
昭和初期の邸宅をモダンに改修した格式あるイベントスペースの前には、黒塗りのハイヤーや高級外車が次々と横付けされていた。
『KNOX』秋コレクション&コラボノベルティ発表レセプションパーティ。
重厚な真鍮のドアを開けて一歩足を踏み入れると、そこは外の酷暑が嘘のような冷気と、大理石の床に美しく反射する幾重ものスポットライトの世界だった。
天井から吊り下げられたシャンデリアが微かな音を立てて煌めき、
会場の隅に置かれたシャンパンタワーからは繊細な泡立ちが弾ける軽快な音が立ち上っている。
重低音のアンビエント・ミュージックが心地よくフロアを揺らし、
最先端のトレンドを身に纏ったアパレル関係者、ファッション誌の編集者、インフルエンサー、
そして華やかなモデルたちの高揚した話し声と、洗練された高級香水の甘い匂いが充満していた。
僕は、その煌びやかな狂騒のただ中で、黒のシンプルなスーツに身を包み、会場の端にある大きな大理石の柱の影にひっそりと身を潜めていた。
「おいおい朔、何壁の花になってんだよ。ほら、せっかくのタダ酒だぞ。飲まなきゃ損だろ」
普段のヨレヨレのシャツから一変、慣れないフォーマルスーツに身を包んでどこか誇らしげな一ノ瀬拓海が、両手にシャンパングラスを掲げて歩み寄ってきた。
彼はすでに二、三杯引っ掛けたらしく、ほんのり頬を赤く染めている。
「……ありがとう」
差し出されたグラスを受け取り、一口だけ口に含んだ。
冷えても広がる風味が舌の上を滑ったが、喉を通り過ぎる感覚はどこまでも砂のように乾いていて、味など全く分からなかった。
「しかしすごい熱気だな、KNOXの規模感。
うちみたいな小さなデザイン事務所のプロダクトが、こんな華やかな場所でお披露目されるなんてさ。
見てみろよ、お前がデザインしたあのアッシュグレーの革ペンケース、
あっちの特設展示ブースでめちゃくちゃ好評だぞ。
お洒落なモデルさんたちが『これすごくいい〜』って群がってる」
一ノ瀬が顎でしゃくった先、会場中央の最も目立つ位置にある特設ガラスケースへと視線をやる。
柔らかなスポットライトを浴びるガラスケースの中に、僕が数ミリ単位で縫い目や革の厚みを調整し、工場と何度も喧嘩をしながら完成させた革製ペンケースが飾られていた。
その横には、洗練されたフォントで『STED DESIGN × KNOX』と刻まれたアクリルパネルが誇らしげに添えられている。
本来なら、プロダクトデザイナーとして人生で最高と言ってもいい誇らしい瞬間のはずだった。
自分が血の滲むような思いで形にした仕事が世にでて、目の前で多くの人々に称賛されているのだから。
けれど、僕の心はどこまでも冷たく冷え切っていた。
僕の目は、展示ブースから少し離れた場所で、メディアのフラッシュを浴びている「一人の女性」から片時も離れることができなかった。
小久保紬。
彼女は、今夜のパーティにおける紛れもない主役だった。
背中が美しくシアーに開いた深緑のドレスに身を包み、華奢な首筋の上で綺麗にまとめ上げられた髪からは、繊細なダイヤモンドのイヤリングが揺れている。
メディアのカメラマンからの要求に滑らかな笑顔で応え、プレス関係者や取引先の幹部たちと優雅にグラスを合わせ、スキのない完璧なPRディレクターとして立ち回っていた。
昼間のオフィスで見せる凛としたビジネスパーソンの顔とも、深夜のラジオ配信で魅せる儚げで傷つきやすい顔とも違う、洗練された「光の世界」の住人。
十五年前、放送部室のカビくさい空気の中で、僕の顔色を窺いながら安っぽい石鹸の匂いをさせていた少女は、もうどこにもいない。
彼女は自らの努力と才能でこの眩い世界へと登り詰め、誰もが認める眩しい女性へと成長したのだ。
そして——その彼女のすぐ隣には、当然のように「あの男」が寄り添っていた。
藤代涼介。
オーダーメイドのダークネイビーのスーツを完璧に着こなした藤代は、紬の腰に自然で洗練された動作で優しく手を添え、彼女の仕事を立てつつ完璧なパートナーとして周囲への挨拶をこなしていた。
二人が顔を見合わせて微笑み合うたびに、
周囲からは「なんてお似合いのカップルなんだ」「まるで映画のワンシーンね」
といった溜息混じりの羨望の声が漏れてくる。
「……絵になりすぎるな、あの二人」
一ノ瀬がシャンパンを喉に流し込みながら、どこか羨ましそうにぽつりと呟いた。
「文句のつけようがねえよな。
外資コンサルのハイスペックな婚約者と、第一線で活躍する美しいキャリアウーマン。
来春には二人でシンガポールへ移住か……まさに誰もが羨む無敵の人生計画だな」
一ノ瀬が何気なく口にした「シンガポール」という言葉が、鋭い氷の針となって僕の肺を深く突き刺した。
分かっていた。
現実の彼女が生きているのはあの光に満ちた場所であり、彼女を傷つけずに幸せに導けるのは藤代涼介のような男なのだ。
僕のように、暗い密室で過去の罪悪感に怯え、声を変えて深夜の電波の陰に隠れ潜んでいるような卑怯な男が、彼女の隣に立つ資格など一ミリも存在しない。
「……ちょっと、冷たい風に当たってくる」
僕は半分以上残ったシャンパングラスを近くを通ったウェイターのトレイに静かに置き、
逃げるように大理石の柱の陰を抜け出し、会場の外へと続くテラスの扉を開けた。
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テラス席に出ると、室内の喧騒とアンビエント・ミュージックの重低音が一瞬で遠のいた。
夜風がそよぐ静かなバルコニーからは、竹林の垣根の向こうに、遠く東京タワーの赤い光が静かに揺れているのが見えた。
湿気を含んだ夜風が、火照った僕の頬を撫でていく。
僕は手すりに力なく寄りかかり、胸の奥に溜まった澱のような息を深く吐き出した。
『……サクさん。どうして……いつも私の一番言ってほしい言葉を……そんな風に言ってくれるんですか?』
『まるで……あなたが、あの人であるみたいに』
昨夜の深夜配信の終盤、紬がチャット欄に残したあの言葉が、頭の中で壊れたレコードのように無限にリフレインしていた。
彼女は勘づき始めているのかもしれない。
配信者「サク」の差し出す言葉があまりにも自分の心の傷口にピンポイントで寄り添いすぎていることに。
そして、現実世界で「樋口朔」が見せる不自然な冷たさと拒絶の中に、何か隠された意図があることに。
このまま配信者とリスナーの関係を続ければ、正体が露呈するのはもはや時間の問題だ。
今夜のレセプションで彼女に「おめでとう」と完璧なビジネスマンとしての偽りの祝辞を述べ、
そのまま『午前二時の迷子たち』の配信を静かに永遠に終了する。
——それこそが、僕に残された唯一の潮時であり、彼女の未来を壊さないための最低限の誠実さのはずだった。
「……樋口さん?」
静寂を切り裂いて、背後から滑らかなガラス扉が開く音がした。
振り返ると、テラスの柔らかな間接照明の中に紬が立っていた。
シアーなドレスの裾を片手で少し持ち上げ、ヒールの音をカツン、カツンと響かせながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
彼女の頬は酒のせいで少し赤く染まっており、高級なブランドの甘くスパイシーな香水の香りが夜風に乗って漂ってきた。
「やっぱり、ここにいたんだ。会場の中にいないから、探したんだよ」
「……小久保さん。お疲れ様です。本当に素晴らしいパーティですね。
ノベルティの評判も上々のようで、僕からも企画担当として感謝いたします」
僕は即座に「仕事相手」としての完璧な仮面を貼り直し、ビジネスライクな硬い笑みを浮かべた。
「ううん、感謝するのは私の方だよ。樋口さんが作ってくれたあのアッシュグレーのペンケース、本当に大好評で……KNOXの役員たちも『素晴らしいクオリティだ』って絶賛してたの。
本当に……本当にありがとう」
紬は僕の隣まで来ると、手すりにそっと両手を置いて並んで立った。
夜風が彼女の細い首筋に揺れる後れ毛を弄ぶ。
その横顔は、会場内で見せていた完璧な笑顔の仮面から解き放たれ、どこか痛々しいほど疲弊し、儚げに見えた。
「……疲れたでしょ。こういう派手で人がたくさんいる場所、樋口さん昔から苦手だもんね」
「まあ……慣れてはいないですね。
プロダクトデザイナーの仕事は、基本的には自室で図面と睨み合っている時間の方が長いですから」
「ふふ、昔からそうだよね。高校の時の全校集会とか、体育祭の予行演習とか……
人がたくさん集まる場所に行くと、樋口さんはいつも一番後ろの壁際で、すごくつまらなさそうな、退屈そうな顔をしてた」
ふっと愛おしそうに目を細めて微笑む紬。
その何気ない言葉に、僕の喉がキュッと詰まった。
彼女は覚えているのだ。
僕自身すら忘れていたような、十五年前の僕の小さな癖や佇まいを。
「……樋口さん」
紬がゆっくりと首を巡らせ、僕の顔を直視した。
その瞳にはテラスの足元を照らす間接照明の光が揺らめいていた。
「私ね……近いうちに、今の会社を辞めることになりそうなの」
一ノ瀬から事前に聞いていた言葉。
けれど、彼女の唇から直接その事実が紡ぎ出された瞬間、胸の奥を巨大な鉄の塊で殴られたかのような衝撃が走った。
「……婚約者の、藤代さんと一緒にですか?」
「……知ってたんだ」
紬は自嘲気味に苦笑し、遠くの東京タワーへと視線を戻した。
「うん。彼の来春の海外赴任が決まって……シンガポールへ行くことになりそうなの。
だから、仕事も……この東京での暮らしも、全部一区切りつけて、彼について行こうと思ってて」
「……おめでとうございます。素晴らしい話じゃないですか。
藤代さんのような優秀で誠実な方なら、向こうへ行っても絶対に小久保さんを幸せにしてくれますよ」
自分の声が、信じられないほど平坦で冷たく響く。
胸の奥では「行かないでくれ」「僕の目の届かないところへ行かないでくれ」と醜く叫びたがっているのに、口から出たのは完璧に教養された大人の綺麗な嘘だった。
紬は僕のその平坦な言葉を聞くと、視線を落とし、唇を強く噛み締めながら拳を握りしめた。
「……本当に、そう思ってるの?」
「……え?」
「樋口さんは……私がこんな遠くへ行っちゃうこと、本当になんとも思ってないの……?」
紬の瞳に、見る見るうちに涙の膜が張られていく。
彼女はヒールの音を響かせ、逃げようとする僕との距離を詰めるように、一歩力強く踏み出してきた。
「ねえ、教えてよ!
同窓会の夜に『覚えてない』って言ったのも……先週の打ち合わせで私に冷たくしたのも……
本当に、私のことなんて完全に忘れてたから?
私との過去なんて、樋口さんにとってはどうでもいい一瞬の思い出だったの……!?」
彼女の震える声での問いかけ。
それは、現実の「樋口朔」に向けられた、彼女の十五年越しの涙の叫びだった。
言いたい。
「忘れるはずがない」と。
「君が僕の人生のすべてだった」「今でも君を狂おしいほど愛している」と。
だが、僕がそれを一度でも認めれば、彼女の婚約者である藤代の存在を踏みにじり、
彼女が掴み取ろうとしている「安全で正しい未来」を、
僕の泥のような罪悪感と未練で台無しにしてしまうのだ。
僕は爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、冷徹な仮面を崩さなかった。
「……小久保さん。お酒が回りすぎているんじゃないですか」
「……え」
「僕はただの取引先の担当者で、たまたま同じ高校だった元同級生です。
昔の不確かな思い出話をほじくり返して、今の幸せな選択を迷うような真似は、
大人としてお互いのためになりません。
藤代さんも、会場の中であなたを心配して探されていますよ」
僕がついた、人生で最も残酷で、最も卑怯な嘘。
紬の顔から、すべての感情が一瞬で引き潮のように消え去った。
彼女の大きな瞳からポロリと一粒の大粒の涙がこぼれ落ち、
胸元の深緑のドレスに小さく濃い染みを作った。
「……そうだよね。ごめんなさい……私、変なこと言って。本当にバカみたい……」
紬は掠れた声で自嘲するように笑うと、ドレスの裾を翻し、走って会場の中へと戻っていった。
残されたテラスで、僕は自分の震える手のひらをただ見つめていた。
これでいいのだ。
彼女はこれで僕を完全に失望し、何の未練もなく藤代とともにシンガポールへ旅立つだろう。
僕が十五年前に犯した原罪の結末として、これ以上「正しい」終わり方はなかった。
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しかし、運命の歯車は、僕の思惑を超えてさらに歪んだ方向へと狂い始めていた。
紬が去ってから数分後。僕がテラスの冷気で感情を殺し、会場に戻ろうとガラス扉に手をかけたその瞬間——扉が内側から静かに開き、一人の男が姿を現した。
藤代涼介だった。
彼は両手をタキシードのポケットに突っ込み、洗練された穏やかな笑みをたたえながら、テラスに佇む僕を見つめていた。
「……樋口さん、でしたね」
彼の低く落ち着いた声が、静かなテラスに響く。
「……藤代さん。先ほどはご挨拶もできず、失礼いたしました。ステッド・デザインの樋口です」
僕は頭を下げ、ビジネスライクな姿勢をとった。
しかし、藤代は挨拶を返すでもなく、ゆっくりと僕との距離を詰め、手すりに背を預けた。
「紬から聞いていますよ。高校時代、同じ放送部だったそうですね」
「……ええ。ただ、僕は途中で退部してしまいましたし、大した関わりがあったわけではありません」
「そう身構えないでください」
藤代は爽やかに微笑んだが、その知性的な瞳の奥には、氷のような冷徹な観察眼が光っていた。
「さっき、彼女が泣きながら会場に戻ってきたんです。
メイクを直すと言ってレストルームへ行きましたが
……樋口さん、あなたとここで話した直後のことでした」
心臓がどくづき、冷や汗が背中を伝った。
「……彼女はお酒が少し回っていたようでしたので。失礼なことを申し上げたかもしれません」
「いいんです。隠さなくても」
藤代はポケットから高級なライターを取り出し、カチリと小さな火を点けたが、煙草を吸うわけでもなく、ただ炎を眺めて消した。
「僕はね、樋口さん。
紬のことを愛していますし、彼女を誰よりも理解しているつもりです。
彼女が今でも、高校時代の『ある男』に強い囚われを抱いていることも、すべて知っています」
藤代の視線が、鋭く僕の顔を射抜いた。
「彼女はね、自分では完璧に隠せていると思っているようですが。
……時々、信じられないくらい遠くを見る目をするんです。
そして、その目の先には絶対に僕がいない。
彼女の心の中に、僕がどれだけ努力しても踏み込めない『聖域』のような過去がある。
……それがあなたですね?」
圧倒的な敗北感が、僕を襲った。
藤代涼介は、単なるハイスペックなエリートではなかった。
彼は紬の脆さも、過去の傷も、すべてを受け止めた上で彼女を愛し、包み込もうとしている「本物の大人」だったのだ。
僕のような、保身と罪悪感の間で立ちすくんでいるだけの子供とは、器が違っていた。
「……藤代さん。僕は」
「何も言わなくていいですよ」
藤代は僕の言葉を優しく遮り、僕の肩をポンと軽く叩いた。
「僕は彼女をシンガポールへ連れて行きます。
向こうで新しい人生を始め、彼女の過去の傷を僕の手で完全に上書きするつもりです。
だから……もう二度と、彼女の視界に入らないでいただきたい。
それが、彼女を昔傷つけた男としての、最低限のマナーでしょう?」
反論の言葉など、一文字も存在しなかった。
藤代の言う通りだ。僕の存在こそが紬の幸せの邪魔であり、僕が消え去ることこそが全員にとっての唯一の救いなのだ。
「……承知いたしました。お幸せに」
僕が頭を下げると、藤代は満足そうに一度だけうなずき、パーティ会場の煌びやかな光の中へと戻っていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
同日の深夜一時四十五分。
マンションの自室。
エアコンの機械音だけが響く暗闇の中で、僕はデスクの前に座り、静かにパソコンの電源を入れた。
遮音シートに囲まれた狭い部屋で、マイクインジケーターの赤が、まるで危険信号のように明滅している。
今夜のレセプションで、すべては決着したのだ。
紬は来春、シンガポールへ旅立つ。
藤代涼介という完璧な男が彼女を愛し、守り続ける。
そして僕は、彼女から完全に拒絶され、存在を消し去ることを求められた。
なら……この密室の配信も、今夜で終わりにしなければならない。
『午前二時の迷子たち』という虚飾のラジオを閉じ、
配信者「サク」という仮面を捨て、僕は一生、彼女を失った暗闇の中で自分の罪を背負って生きていくのだ。
最後の配信。
午前二時ちょうど。
僕は震える指先で、画面上の配信開始ボタンをクリックした。
『配信中』
「……こんばんは。時刻は午前二時になりました。
『午前二時の迷子たち』、今夜も始めていきたいと思います。パーソナリティの、サクです」
ボイスチェンジャーを通した低く穏やかな声。
だが、その声の裏側で、僕の心臓は崩壊寸前の高鳴りを打っていた。
チャット欄が滑らかに動き始める。
リスナーたちの挨拶や、日常の報告。
僕はそれらを機械的に拾い上げながら、瞳はじっと画面右側の閲覧者リストを探していた。
開始から十五分が過ぎた頃。
画面のチャット欄に、吸い寄せられるようにそのアカウント名が現れた。
『夜のくじら』
『夜のくじら:サクさん、こんばんは。今夜も来られて良かったです。……少しだけ、泣いてもいいですか』
胸が押し潰されるような激痛が走った。
彼女は今、あの南青山の華やかなドレスを脱ぎ捨て、
自室のベッドの上で一人、膝を抱えて涙を流しているのだ。
僕がテラスで投げつけた冷酷な言葉に傷つき、絶望しながら。
「……こんばんは、夜のくじらさん。
今夜も来てくれてありがとうございます。
……ええ、いくらでも泣いてください。ここでは、誰もあなたを責めません」
『夜のくじら:サクさん……私、今日、本当のバカでした』
彼女の打つチャットの文字が、画面上で哀しく揺れていた。
『夜のくじら:
ずっと忘れられなかった昔の好きな人に……
今日、思い切って自分の気持ちを確かめようとしたんです。
『私が遠くに行ってもなんとも思わないの?』って』
『夜のくじら:
そうしたら……
『お酒のせいだ』『昔の思い出話をほじくり返すな』って……
すごく冷たく、突き放されちゃいました』
チャット欄のリスナーたちがざわつき始める。
《えっ……ひどい》
《そんな奴忘れて海外行っちゃいなよ!》
《婚約者さんがかわいそうだよ》
《夜のくじらさん、もうその男のことは吹っ切ろう!》
見知らぬリスナーたちの言葉が、鋭い刃となって僕自身に突き刺さる。
そうだ、リスナーの言う通りだ。僕のような男はさっさと忘れて、シンガポールで幸せになるべきなのだ。
『夜のくじら:
サクさん……あの人は、本当に私のことなんて……
微塵も覚えていなかったんでしょうか。
私との過去なんて……どうでもよかったんでしょうか……?』
痛い。
胸が、喉が、頭が割れるように痛い。
目の前のマイクに向かって「違う!」と叫びたかった。
「覚えている! 忘れられるはずがない! 君の笑顔も、涙も、あの放送部室の匂いも、十五年間一日たりとも忘れたことなんてなかった!」と、すべてを曝け出して乞い願いたかった。
けれど、僕がここで正体を明かせば、彼女は僕の卑怯な二重生活を知り、
今以上の絶望と人間不信に陥ってしまう。
僕はマイクに顔を限界まで近づけ、声の震えを必死で殺しながら吐き出した。
「……夜のくじらさん」
『夜のくじら:はい……』
「……その男性は」
僕はぎゅっと目を閉じ、己の魂を削るように言葉を紡いだ。
「その男性は……あなたを忘れたことなんて、一度もありませんよ」
静まり返るチャット欄。
「彼は……あなたを傷つけた過去の自分の愚かさに、十五年間ずっと苦しんできたんです。
自分があなたの前に現れる資格がないと知っているから……
あなたに完璧で幸せな未来を掴んでほしいから……
血を吐くような思いで、冷たい嘘をついたんです」
『夜のくじら:……え?』
「彼は……あなたを失うことが死ぬほど怖い。
でも、自分の不甲斐なさであなたの邪魔をしたくないから……
悪者になって、あなたに嫌われる道を選んだんです」
言葉を出せば出すほど、僕の仮面はボロボロと崩れ落ちていった。
これはもう、第三者である「パーソナリティのサク」の言葉ではない。樋口朔という男の、惨めで切ない魂の独白だった。
画面の向こうの『夜のくじら』からの返信が、ピタリと止まった。
一分、二分……沈黙の時間が過ぎていく。
そして、深夜二時三十分。
画面のチャット欄に、ポツリと打ち込まれた一文。
『夜のくじら:……サクさん』
『夜のくじら:どうして……あなたが、そんなことを知っているんですか?』
『夜のくじら:どうして……今日、テラスであの人が私に言ったことと同じ言葉を……そんな風に言えるんですか……?』
背中を冷や汗が吹き出し、息が止まった。
次の瞬間、画面上に打ち込まれた彼女の最後のチャット。
『夜のくじら:サクさん……あなた、誰なんですか……?』
暗闇の部屋で、世界中のすべての音が消え去った。
剥がれ落ちていく仮面。
僕たちの歪な周波数は終わりを迎えている。




