第5話:『揺れる波形』
八月最初の月曜日。午前十時。
真夏のギラついた太陽が、南青山のオフィス街のガラス張りの高層ビル群を乱反射させ、白く眩しい光の束となって通りに降り注いでいた。
アスファルトからはゆらゆらと熱気が立ち上り、打ち水も一瞬で蒸発してしまうほどの酷暑が街全体を包み込んでいる。
『KNOX』本社ビル三階の小会議室。
ガラス越しに外の陽炎が見える室内は、エアコンの冷気が肌に痛いほど強く効いていた。
静まり返った室内には、壁掛け時計の秒針が刻むカチカチという機械音と、卓上の加湿器から吹き出す微かな白い水蒸気の音だけが響いている。
その冷ややかな空間で、僕は紬とテーブルを挟んで二人きりで向き合っていた。
「……以上が、秋の新作コラボノベルティ『レザーペンケース』の量産工程と、最終納品までのスケジュールの修正案です。
初回の二千個に関しては、指定していただいたアッシュグレーの革の染色工程も含め、十月十五日までにKNOX様の指定倉庫へ一括納品できます」
僕は卓上に並べた行程表の書類を、ゆっくりと紬の側へ滑らせた。
指先一つ、偶然にも触れ合ってしまうことがないよう、極限の緊張感を持って細心の注意を払いながら。
「……ありがとうございます、樋口さん」
紬は書類を受け取り、手元の万年筆を軽く握り直して目を通した。
彼女の爪には、先日見たのと同じ淡いピンクのネイルが施されていた。
洗練されたオフィスカジュアルを身に纏い、スキのないPRディレクターの顔を作っている。
けれど、その知性的な眼鏡の奥にある瞳には、隠しきれない疲弊と鬱屈とした影が色濃く滲んでいた。
無理もない、と胸が痛む。
彼女は先週末、婚約者である藤代涼介と会い、その足で歩道橋の上で僕と不意のすれ違いを果たし、そして深夜には『夜のくじら』という姿になって、僕の密かな生配信『午前二時の迷子たち』へ縋るように駆け込んできたのだ。
まともに眠れているはずがなかった。
目の下に薄く塗られたコンシーラーも、彼女が昨夜どれほど暗闇の中で一人、涙を流し、眠れぬ夜を過ごしたのかという「痕跡」を隠しきれてはいなかったのだ。
「工程、完璧です。工場への発注データ、今日中にこちらから承認のメールを出しておきますね。
スケジュール通りに進めていただいて問題ありません」
「助かります。では、僕からの本日の連絡事項は以上です」
僕は手帳を閉じ、鞄に収めた。
これで本日の業務上の用件はすべて終了した。
速やかに立ち上がり、丁寧にお辞儀をしてこの部屋を辞する
——それが、完璧なビジネスマンとしての、そして彼女の過去を傷つけた加害者としての正解の振る舞いだった。
けれど、僕の足は、まるで金縛りに遭ったかのように動かなかった。
先週末の深夜、ラジオのマイク越しに届いた彼女の悲痛なチャットの文字が、脳の裏側にこびりついて離れなかったのだ。
『私、今日、婚約者と会ってきたんです』
『それなのに私、彼と一緒に歩きながら、頭の中ではずっと……同級生のことばかり考えちゃっていたんです。』
目の前に座る女性は、僕の目の前で完璧な「大人の取引先」を演じている。
だが、その現実の仮面の裏側で、彼女の魂の一部は、
僕が「配信者サク」として差し伸べた無責任で優しい言葉の温もりにすがりつき、
深夜の闇の中で寒さに震えているのだ。
言葉をかけたい、と強烈に思った。
「そんなに無理をするな」と。
「そんなに自分を追い詰めた、疲れた顔をするな」と。
けれど、僕が「樋口朔」という現実の存在としてその言葉をひとたび口にした瞬間、僕たちが必死で保っている薄氷のような現実の均衡は崩壊する。
僕は彼女にとって「十五年前に自分の勇気を不器用な冗談と笑い飛ばして冷たく捨て去った最低な同級生」であり、彼女の人生に土足で踏み込む権利など何一つ持っていないのだから。
「……樋口さん?」
沈黙が長すぎたことに気づいた紬が、書類から目を上げ、不審そうに細い眉を寄せた。
「あ、いや……すみません。少し、考え事をしていて」
「ううん、大丈夫。……あ、そうだ」
紬は手元にあったスケジュール手帳のページをパラパラと捲り、何かを思い出したように顔を上げた。
「再来週の金曜日なんですけど……お時間、空いてたりしますか?」
「再来週の金曜……ですか?」
「ええ。KNOXの秋コレクションのメディア向けレセプションパーティがあるんです。
今回コラボしていただいたステッド・デザイン様にも、関係者枠で数名ご招待したくて。
企画担当の樋口さんと、営業の一ノ瀬さんにもぜひ来ていただけたらと思って……」
レセプションパーティ。
華やかなアパレル業界の人間や、ファッション雑誌の編集者、メディア関係者、インフルエンサーが一堂に会する煌びやかな空間。
僕のような、自室で黙々と文房具のミリ単位の寸法を調整しているだけの無骨で暗いプロダクトデザイナーが足を踏み入れるような場所ではない。
断るべきだ、と理性が激しく警告を発していた。
これ以上、現実世界で彼女との接点を増やすべきではない。
これ以上近づけば、僕の被っている仮面が剥がれ落ち、彼女をさらに深い混乱と傷の中へと叩き落とすことになる。
「……分かりました。一ノ瀬とスケジュールを調整して、伺います」
けれど、僕の口は、僕の理性を裏切って勝手に承諾の言葉を吐き出していた。
紬の表情が、一瞬だけあどけなく綻び、ふっと和らぐ。
「良かった。……樋口さんに、来てほしいと思ってたから」
そのささやかな一言に、胸が壊れるほど強く締め付けられた。
「来てほしい」
彼女はどんな意図で、どんな感情を込めてその言葉を口にしたのだろう。
単なる仕事上の良好な関係を保つための社交辞令か。
それとも、彼女の中に今なお消えずに残る「十五年前の何か」が、僕という存在を求めているのか。
確かめる術は、僕にはない。
僕はただ深く一礼し、「では、失礼いたします」と短く告げて、逃げるように会議室を後にしたのだった。
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同日の夜十時。
新橋駅のガード下に位置する、焼き鳥の煙と安酒の匂いが色濃く立ち込める赤ちょうちんの居酒屋。
頭上を山手線や京浜東北線が通過するたびに、ガタガタと店全体が小さく振動していた。
僕の目の前で、スーツのネクタイを緩めた一ノ瀬拓海が、汗のついたビールジョッキを豪快に煽っていた。
「プハッ! うめええ! やっぱこのクソ暑い猛暑の仕事終わりは、冷えた生ビールに限るな!」
一ノ瀬は空になったジョッキをドスンと勢いよく木目調のテーブルに置き、
お通しの枝豆を口に放り込みながら、僕の顔をじっと覗き込んできた。
「で? 小久保のところからレセプションの招待状届いたんだって?」
「ああ。今日の昼に打ち合わせがあった時に直接言われた。
社内チャットにも共有しただろ。お前も出席で返答を出しておいたぞ」
「サンキュ! いや〜アパレルのレセプションか、
お洒落なモデルさんとか綺麗なねーちゃんがいっぱい来るのかなあ。
目の保養になるわ、マジで楽しみ」
一ノ瀬は呑気に鼻歌を歌いながら次の串焼きをつまんでいたが、
ふと真顔になり、僕のグラスに視線を落とした。
僕の注文したウイスキーハイボールは、一口もつけられないまま氷がすっかり溶けきり、
薄い琥珀色の液体となってグラスの表面に汗をかいていた。
「お前さ……さっきから一口も飲んでねえじゃん。また小久保のことで頭抱えてんのか?」
「……抱えてない。ただの夏バテだ」
「嘘つけ。顔にでっかく『人生詰んだ』って書いてあるぞ」
一ノ瀬は呆れたように大きく肩をすくめ、七味唐辛子を振りかけた焼き鳥を頬張った。
「お前さ、南青山の歩道橋で小久保の婚約者と会ったんだろ?
先週末、小久保から『樋口くんに会ったよ』ってLINEが来たぞ」
思わず身を乗り出しそうになる自分を、必死の理性で座席に縛り付けた。
「……小久保から、お前に連絡があったのか?」
「おう。『樋口くん、相変わらず無口で愛想なかったけど、仕事の時はすごく頼もしいね』ってさ。
で、婚約者の藤代さんのことも『すごく素敵で良い人でしょ?』って言ってたぞ」
心臓が、鈍く嫌な音を立てて脈打った。
やっぱりそうだ。
彼女は現実世界では「完璧なPRディレクター」であり、「幸せな結婚を控えた女性」として振る舞い、周囲の友人や知人にもそう誇らしく報告しているのだ。
それなのに——深夜になり、自室の暗闇の中で一人になると、声にならない悲鳴のような本音を僕に漏らす。
彼女もまた、地獄のような葛藤の中にいる。
現実の「安全で、誰からも祝福される正しい選択」と、胸の奥底で泥のように重く燻り続ける「どうしても消し去ることのできない十五年前の未練」の間で、身体を引き裂かれそうになりながら耐えているのだ。
「藤代さんさ、外資コンサルでハイスペックで、顔も良くて性格も爽やかで、マジで文句のつけようがない完璧な男らしいじゃん。
小久保ももうすぐ三十一歳だしさ、結婚して海外行っちゃう前に、ちゃんとお祝いしてやれよ。
それが、過去を引きずり回してる男としての最後のやさしさだろ」
「……海外?」
一ノ瀬が何気なく口にしたその単語に、僕は耳を疑った。思考が一瞬でフリーズする。
「……一ノ瀬、今なんと言った?」
「ん? ああ、お前知らなかったの?
藤代さん、来年の春にシンガポール支社への転勤が決まってるんだってさ。
結婚したら小久保も会社辞めて、向こうについて行くらしいぞ。
小久保の会社の同僚経由で聞いたんだけどさ」
頭の中が、サーッと血の気が引いて真っ白に染まった。
来年の春。
シンガポール。
彼女が……この東京から、日本から、遠い海外へ行ってしまう?
僕の視界からも、手の届く距離からも完全に離れて、二度と交わることのない世界の果てへ?
現実のタイムリミットは、僕が悠長に「どうすべきか」と苦悩していたよりも遥かに早く、容赦ないスピードで目の前に迫っていたのだ。
「……そうか。知らなかった」
掠れた、絞り出すような声しか出なかった。
「だろ? だからさ、いつまでもじめじめ過去の罪悪感だかに引きずられてないで、レセプションでは笑顔で『おめでとう、幸せになれよ』って言ってやれよ。それがお前のためでもあるんだからさ」
一ノ瀬の言葉は、完璧な正論だった。
ぐうの音も出ないほど、真っ当で、大人で、現実的なアドバイスだ。
けれど、僕の胸の中でドス黒くぐちゃぐちゃに渦巻く感情は、そんな綺麗な正論で納得できるほど行儀良くはできていなかった。
彼女がいなくなる。
僕の人生から、完全に小久保紬という存在が消滅してしまう。
その絶対的な喪失の予感が、恐ろしいほどの絶望となって僕の全身を支配しようとしていた。
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
木曜日の深夜一時五十五分。
マンションの自室。
遮音シートに囲まれた暗闇の中で、オーディオインターフェースの緑色の光と、
マイクインジケーターの赤が静かに点滅していた。
一ノ瀬から突きつけられた「来春の海外移住」という逃れられない現実のタイムリミットが、巨大な重石となって僕の胸を押し潰していた。
彼女はもうすぐ、行ってしまう。
藤代涼介という完璧な男の手を握り締め、この街を去り、僕の二度と届かないシンガポールの空の下へ。
なら……僕は、このまま黙って彼女を見送るべきなのか?
ビジネスパートナーとして「おめでとう」と偽りの祝辞を述べ、
彼女を過去の思い出へと追いやり、自分は深夜の密室で配信者「サク」として、
顔も名前も隠したまま、虚しい救いの言葉を電波に乗せ続けて生きていくのか?
「……嫌だ」
誰もいない静かな部屋で、ポロリと本音が漏れた。
手放したくない。
十五年前、自分が愚かで臆病だったからこそ失ってしまった彼女を、
またしても指をくわえて見ているだけで奪われるなんて、絶対に耐えられない。
だが、現実の僕には何の力も、何の資格もないのだ。
午前二時ちょうど。
僕は震える指先で、配信開始ボタンをクリックした。
『配信中』
「……こんばんは。時刻は午前二時になりました。
『午前二時の迷子たち』、今夜も始めていきたいと思います。パーソナリティの、サクです」
必死で声を整え、マイクに向かう。
チャット欄が滑らかに動き始める。
深夜に眠れないリスナーたちの挨拶、日常の些細な報告。
僕はそれらを淡々と拾い上げ、穏やかなトーンで言葉を返しながらも、瞳はじっと画面の右端の閲覧者リストに釘付けになっていた。
開始から十分が経過した頃。
画面のチャット欄に、すっとそのアカウント名が浮き上がった。
『夜のくじら』
『夜のくじら:
サクさん、こんばんは。今夜も来られて良かったです。少しだけ、お話ししてもいいですか』
「……こんばんは、夜のくじらさん。今夜も来てくれてありがとうございます。
いつでも、あなたの言葉をお待ちしていますよ」
マイクを握りしめる僕の指先に、痛いほどの力がこもる。
『夜のくじら:サクさん……私、今日、人生に関わる大きな決断を迫られました』
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
『夜のくじら:
婚約者から、正式に話があったんです。
来年の春に海外支社へ転勤になるから、一緒についてきてほしい。
結婚して、向こうで新しく二人で暮らそうって』
チャット欄が一瞬にして沸き立つ。
《えーっ!海外移住!?すごい!》
《おめでとうございます!》
《最高じゃないですか!》
《ついに結婚ですね!幸せになってください!》
見知らぬリスナーたちからの無邪気な祝福のコメントが、画面を埋め尽くしていく。
その狂乱の中で、僕は息を殺し、血の味がするほど唇を噛み締めながらマイクに向かっていた。
『夜のくじら:
すごくありがたい話ですし、普通なら喜んで受けるべき話なんです。
彼は私を本当に大切にしてくれています。断る理由なんて、どこにもないんです。……でも』
『夜のくじら:私の心が、どうしても『イエス』って言えなくて』
『夜のくじら:
この街を離れて海外へ行ったら……あの人との思い出も、
全部本当の『二度と戻らない過去』になっちゃうんだなって思ったら……
怖くて、足がすくんじゃったんです』
それは、画面の向こうで一人膝を抱える彼女の、悲痛な叫びだった。
現実の安全で正しい幸せを選ばなければならないと分かっていながら、
僕との過去を完全に断ち切ることが怖くて、選択の果てで立ち尽くしている彼女の素顔。
僕はマイクにギリギリまで顔を近づけた。
もはや、冷静で第三者的なパーソナリティ「サク」の仮面など、維持できる限界を超えていた。
「……夜のくじらさん」
低く、切なく、掠れた声が漏れる。
「あなたが……迷ってしまうのは、決して間違っていません」
『夜のくじら:サクさん……?』
「海外へ行くということは、あなたのこれまでの半生、
そしてこの街に残してきた感情のすべてを置いていくということです。
思い出も、未練も、あの時伝えられなかった言葉のすべてを……諦めるということです」
チャット欄の祝福のムードが、サクの異質なトーンを感じ取り、
すっと冷めていくのが画面越しに伝わってきた。
だが、僕は構わずに言葉を紡ぎ続けた。
僕の魂の叫びを、彼女に届けるために。
「もしも……もしもあなたが、まだその街に、その過去に少しでも未練を残しているなら。
本当はあの人とやり直したいとどこかで願っているなら……簡単にうなずいてはいけません。
あなたの心が壊れてしまいます」
『夜のくじら:
でも……あの人は私を必要としてくれていません。
15年前も、先日の同窓会でも、私を突き放して『覚えてない』なんて言ったんです。
私一人が未練を抱えていても、どうしようもなくて……虚しいだけなんです』
画面に打ち込まれる、彼女の諦めと絶望の言葉。
言いたい。
「違う!」と。
「僕は君を必要としている! 今でも君を愛しているんだ!」と、このマイクに向かって叫び出したい。
けれど、このマイクの向こうにいる僕は「サク」なのだ。
ここで叫べば、彼女は僕の卑怯な正体を知り、心底蔑み、二度と僕の前に姿を現さなくなるだろう。
己のついた嘘という鉄格子の檻が、僕の喉を強く強く締め上げる。
「……その男性も」
僕は震える声を必死で絞り出した。
「その男性も……きっと、あなたがいなくなってしまうことを、死ぬほど怖がっています。
自分自身の情けなさと罪悪感のせいで声に出せないだけで……
あなたを失うことに、夜も眠れないほど怯えています」
静寂。
チャット欄のスクロールが、完全に止まった。
リスナーたちも、配信者サクと『夜のくじら』の間に漂う、尋常ではない緊迫感に固唾を呑んでいた。
画面の向こうの『夜のくじら』からの返信は、長い間来なかった。
一分、二分……息が詰まるような沈黙の果てに、画面にぽつりと打ち込まれた言葉。
『夜のくじら:……サクさん』
『夜のくじら:どうして……いつも私の一番言ってほしい言葉を……そんな風に言ってくれるんですか?』
『夜のくじら:まるで……あなたが、あの人であるみたいに』
背中に、ダラリと冷たい汗が吹き出した。
限界だ。
もう、誤魔化しきれる境界線を踏み越えている。
僕たちの歪な周波数は、ついに仮面を剥ぎ取る真実の領域へと、
狂おしいほどの熱量を孕んで崩れ去りそうになっていた。




