第4話:『邂逅は突然に。歪むディレイ』
金曜日の夜八時。
南青山の交差点は、週末の歓楽街へと向かう人々の群れと、ヘッドライトの光の束で埋め尽くされていた。
雨上がり特有の湿んだアスファルトが、ネオンサインの赤や青を複雑に反射している。
僕は『KNOX』との打ち合わせを終えた後、
直帰するはずの足を止め、青山通りの歩道橋の上に立っていた。
手すりに置いた手のひらに、夜風の冷たさがじわりと伝わってくる。
目下の交差点を往来する人波を見下ろしながら、僕は思考の沼に沈んでいた。
——「樋口さんって、今でもラジオ聴いたりするの?」
昼間、商談ルームで紬が見せたあの瞳。
どこか遠くを懐かしむような、
そして同時に「目の前にいる僕」の中に何かを探し求めようとする、悲しげな眼差し。
僕はそれに答えることができなかった。
「聴いているよ」どころか、
「僕自身が、君が深夜に聴いているあのラジオのパーソナリティなんだ」と告白することなど、
今の僕には到底許されない。
もし明かしてしまえば、彼女が『夜のくじら』として吐き出してきた二年間分の本音、
誰にも見せなかった悲鳴、そして元カレである僕への断ち切れない未練のすべてを
僕が無断で盗み聞きしていたことになる。
それは彼女の誇りを根底から踏みにじる行為だ。
彼女は二度と僕を信用しないだろうし、僕たちの繋がりは完全に断たれる。
だからこそ、僕は嘘をつき続けるしかない。
現実では冷徹な「ビジネスパートナー」として、深夜の電波の向こうでは優しい「匿名ラジオのサク」として。
その二重生活の歪みが、僕の精神をゆっくりと、けれど確実に蝕んでいた。
「……樋口主任?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男とともに立つ紬の姿があった。
彼女は昼間のスーツ姿から、アイボリーの柔らかなロングコートに着替えていた。
髪はダウンスタイルに下ろされ、昼間のみっちりとした緊張感から解放された、どこかプライベートな柔らかさを纏っている。
だが、僕の目を奪ったのは彼女の隣に立つ男だった。
三十代前半。背が高く、無駄のないシルエットのダークグレーのスーツを着こなした男。
整った顔立ちには知性と余裕が漂い、育ちの良さを感じさせる洗練された佇まいを見せている。
「小久保……さん」
「こんなところでどうしたんですか? もう帰られたと思ってました」
「あ、いや……少し風に当たっていただけで。これから帰るところです」
僕が不自然な言い訳を口にすると、彼女の隣の男が柔らかい笑みを浮かべ、一歩前へ出た。
「こんばんは。紬から話は伺っています。ステッド・デザインの樋口さんですね?」
男は一切の威圧感を与えることなく、けれど堂々とした所作で右手を差し出してきた。
「初めまして。藤代涼介と申します」
藤代涼介。
その名を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たい電流が走った。
紬の婚約者。
外資系コンサルティングファームのマネージャーを務める、ハイスペックで誠実な男。
そういえば同窓会で一ノ瀬が面白がって噂していた、「紬が近々結婚するらしい相手」であり、彼女の現実における「未来」そのもの。
「……初めまして。ステッド・デザインの樋口です」
僕は自分の手がわずかに汗ばんでいるのを感じながら、その手を握り返した。
藤代の手は温かく、力強く、そして確かな自信に満ちていた。
自分のような、深夜に自室で閉じこもってラジオに向かっている男とは、住む世界が根本から違う人間だということが、一度の握手だけで痛いほど理解できた。
「紬がいつもお世話になっています。
今回のコラボノベルティ、紬もすごく力が入っていて。
先ほども『樋口さんの出されたサンプルが本当に素晴らしかった』と嬉しそうに話していたんですよ」
「……いえ。小久保さんの明確なディレクションがあったからです」
「そう言っていただけると嬉しいです。高校時代の同級生だと聞いて、本当に縁があるなと思っていました」
藤代の言葉には、一片の嫌味も、嫉妬も含まれていなかった。
彼は純粋に、自分の愛する女性の仕事がうまくいっていることを喜び、そのパートナーである僕に対して心からの敬意を払っていた。
悪人ではない。どころか、あまりにも完璧で、真っ当な「良い人」だった。
だからこそ、余計に苦しかった。
もし藤代が横暴な男だったり、紬を粗末に扱うような男であれば、僕は彼を憎むことができた。
だが、目の前にいる男は、紬の孤独やトラウマを包み込み、彼女に温かな未来を与えるに相応しい人物だったのだ。
「涼介、そろそろお店の予約時間が……」
紬が藤代の袖口を少しだけ引っ張り、気まずそうに声をかけた。
彼女の視線は、一度も僕と合わなかった。
「ああ、そうだったね。ごめんごめん」
藤代は優しく紬の頭を一度撫でると、僕に向かって爽やかな笑みを向けた。
「では樋口さん、僕たちはこれで。紬のことを、仕事でもよろしくお願いしますね」
「……はい。失礼いたします」
二人は並んで歩道橋の階段を降りていった。
藤代が紬の腰にそっと手を添え、紬がそれに寄り添うように歩く後ろ姿。
夜の街灯の下で描かれるその二つの影は、何の歪みもなく、完璧に寄り添い合っていた。
僕はただ、その影が雑踏の中に消えていくのを、凍りついたように見つめ続けていた。
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夜十一時。杉並の自室。
部屋に戻った僕は、明かりもつけずにリビングの床に直接腰を下ろしていた。
暗闇の中で、南青山の交差点での光景が何度も網膜に焼き付いては離れない。
藤代涼介の整った笑顔。
紬を愛おしそうに見つめる瞳。
そして、彼の隣で落ち着いた「大人の女性」として寄り添っていた紬の佇まい。
あれが、彼女の現実だ。
三十歳になった小久保紬が手に入れた、穏やかで、安全で、傷つくことのない確固たる居場所。
そこに、十五年前の甘苦い過去を引きずった僕が割り込む余地など、一ミリも存在しない。
彼女は藤代と結婚し、いずれ遠い街へ行き、僕のことなど完璧な「過去の思い出」として忘れ去っていくのが、最も正しい未来なのだ。
分かっている。頭では、痛いほど理解しているのだ。
それなのに——胸の奥が、焼き切れるように痛かった。
爪が掌に食い込むほど拳を握りしめる。
現実で冷たく彼女を突っぱねておきながら、彼女が他の男の手に渡るとなった途端に激しい独占欲と焦燥感に苛まれる自分が、どこまでも醜く、嫌いだった。
スマートフォンを取り出し、画面を点ける。
現在時刻は、深夜一時四十分。
あと二十分で、土曜日の深夜二時。
『午前二時の迷子たち』の生配信が始まる時間だ。
「……やめるべきだ」
口の中で呟く。
もう配信なんてやめてしまえばいい。
彼女が『夜のくじら』としてやって来ても、ラジオ自体を打ち切ってしまえば、この歪んだ繋がりは絶たれる。
それが彼女のためであり、僕のためだ。
だが、僕の指は勝手にオーディオインターフェースの電源を入れ、マイクのゲインを調整していた。
やめられないのだ。
配信者「サク」という仮面を被っている時間だけが、僕が彼女の「本当の声」を聞くことのできる唯一の時間だから。
現実では藤代の隣で微笑む彼女が、深夜の暗闇の中でだけ見せる、脆く美しい素顔。
それを手放すことが僕にはどうしてもできなかった。
午前二時ちょうど。
僕は息を呑み、配信開始ボタンをクリックした。
『配信中』
「……こんばんは。時刻は午前二時になりました。
今夜も始まりました、『午前二時の迷子たち』。パーソナリティの、サクです」
声を絞り出す。
マイクに乗る自分の声が、いつもよりわずかに掠れているのが自分でも分かった。
チャット欄が動き始める。
《サクさんこんばんは!》
《週末の癒やしタイム》
《待ってましたー!》
「みなさん、今夜も起きていてくれてありがとうございます。
どんな夜をお過ごしでしょうか。東京は雨が上がって、急に風が冷たくなってきましたね」
雑談を交えながら、僕の目はチャット欄のスクロールに釘付けになっていた。
彼女は来るだろうか。
今夜は婚約者の藤代と会っていたのだ。
美味しいディナーを食べ、未来の話をし、幸せな気分のまま温かいベッドで眠っているかもしれない。
もしそうなら、彼女は今夜ここには来ない。それが一番良いことなのだ。
そう自分に言い聞かせていた、開始十五分後。
画面のチャット欄に、すっとその名が現れた。
『夜のくじら』
《夜のくじら:サクさん、こんばんは。今夜も配信してくれてありがとうございます》
心臓が、痛いほどの拍動を打った。
来た。
彼女は、藤代と会った夜でさえ、この深夜のラジオに逃げ込んできたのだ。
「……こんばんは、夜のくじらさん。今夜も来てくれて嬉しいです。遅い時間ですが、眠れませんか?」
マイクに向かって語りかける。
数秒のタイムラグののち、流れてきたコメント。
『夜のくじら:
はい……なんだか、今夜はすごく胸がざわついてしまって。温かいお茶を飲みながら聴いています』
『夜のくじら:サクさん……私、今日、婚約者と会ってきたんです』
チャット欄のリスナーたちが
《えっ!婚約者さん!?》
《おめでたい!》
《仲良しですね》
とコメントを打ち込む。
僕はマイクを握りしめる手に力を込め、声を平坦に保ちながら問いかけた。
「……婚約者の方と、ですか。素敵なお時間を過ごされたのではないですか?」
画面の向こうの紬からの返信。
『夜のくじら:
すごく優しい人なんです。私の仕事を理解してくれて、大切にしてくれて
……本当に、私には勿体ないくらい完璧な人です。……でも』
『夜のくじら:
今日、彼と一緒にいる時に、偶然……
あの15年ぶりに再会した高校時代のあの人に会っちゃったんです』
息が止まった。
南青山の歩道橋の上の光景。
彼女はあの時、どんな感情で僕と藤代を見比べていたのだろう。
『夜のくじら:私、すごく気まずくて、逃げ出したかったです』
『夜のくじら:
婚約者はすごく優しくて、その人にも丁寧に対応してくれて……。
それなのに私、彼と一緒に歩きながら、頭の中ではずっと……同級生のことばかり考えちゃっていたんです。』
胸の奥で、何かが激しく弾け飛ぶ音がした。
『夜のくじら:
最低……ですよね。こんなに優しい婚約者が隣にいるのに。
私を拒絶して『覚えてない』なんて言った昔好きだった人のことばかり考えてるなんて……
私、本当におかしいです』
『夜のくじら:サクさん……私、どうしてこんなに過去を捨てられないんでしょうか』
画面上に躍る『夜のくじら』の切痛な言葉たち。
彼女は、藤代の隣にいながら、僕のことを見ていた。
「覚えてない」と嘘をついて彼女を傷つけた僕の横顔を、ずっと盗み見していたのだ。
愛されているのは、藤代ではない。
いや、現実の幸せを与えてくれるのは藤代だが、
彼女の魂の深い部分を支配し続けているのは、愚かで、不器用で、最低な僕なのだという事実。
歓喜と、激しい罪悪感が、僕の心をぐちゃぐちゃに引き裂いていく。
「……夜のくじらさん」
僕はマイクに向かって、震える声を漏らした。
「あなたは……何もおかしくありません」
『夜のくじら:え……?』
「過去を捨てられないのは、あなたがそれだけ誰かを真剣に愛した証拠です。
現在の幸せと、過去の未練が共存してしまうのは……人間として、とても自然なことです」
言いながら、自分の声がどんどん深みにはまっていくのを感じる。
配信者「サク」の客観性を失い、ただの「樋口朔」としてのエゴが溢れ出していた。
「……その方も、きっと」
僕は言葉を紡いだ。
「きっと、今日あなたと婚約者の方が並んで歩く姿を見て
……胸が引き裂かれるような思いをしていたはずです。
自分の愚かさを呪い、あなたを奪っていった完璧な男に嫉妬し……
後悔の中にいるはずです」
チャット欄がざわつく。
《サクさん、なんか今夜もすごく感情こもってる……?》
《相手の男の気持ち、なんでそんなに分かるの?》
《サクさん大丈夫……? なんか似たような経験あるとか?》
だが、僕は止まることができなかった。
画面の向こうにいる彼女に、届かない叫びを届けるために。
「……その人は、あなたを忘れてなんていません。
忘れられるはずがないんです。
あなたが今でも苦しんでいるのと同じくらい
……彼もまた、過去の闇の中で息を詰まらせています」
静寂。
チャット欄のスクロールが完全に止まった。
数分間の沈黙の後、画面に打ち込まれた『夜のくじら』の短いコメント。
『夜のくじら:……サクさん』
『夜のくじら:どうして……そんな風に、彼の気持ちが分かるんですか?』
背筋に、冷や汗が吹き出した。
踏み込みすぎた。
あまりにも具体的で、あまりにも当事者めいた言葉。
画面の向こうの紬が、サクの言葉の中に「不自然な具体性」を感じ取り、不審を抱き始めている。
『夜のくじら:サクさんって……まるで、その場にいたみたいに話しますね』
部屋の空気が凍りついた。
万事休すか。
ここで勘づかれたのか。
僕は必死で呼吸を整え、壊れそうな喉を絞って、いつもの「穏やかな配信者」のトーンを作り出そうとした。
「……すみません。僕自身も、昔……同じような経験がありまして。
つい、自分の過去と重ね合わせてしまいました。
プライベートに踏み込みすぎたことを言ってごめんなさい。」
必死の弁明。
画面の向こうの紬が、どう受け止めるか。
緊迫した数秒が過ぎた後、流れてきた言葉。
『夜のくじら:……そうだったんですね。すみません、変なことを聞いてしまって』
『夜のくじら:サクさんの優しい声を聞いてたら……なんだか、涙が出てきちゃいました』
『夜のくじら:
今夜は、温かいお茶を飲んで寝ます。
サクさん、いつも私の味方でいてくれて、ありがとうございます』
『夜のくじら』のアカウントが、そっとオフラインになった。
危機は去った。
だが、残されたのは、決定的な破滅へのカウントダウンが始まったという予感だけだった。
現実の存在と、深夜のラジオ配信のディレイ。
僕たちの嘘と本音が交錯する周波数において、いよいよ限界を迎えるギリギリの淵へと追い詰められていた。




